シミュレーション教材4種の実践と活用について

シミュレーション教材との出会い

 3年前本校に赴任したとき、今までの経験が全く役に立たないことに驚いた。

 これまでは自分自身の興味、知的探求の過程を開示する事で生徒の授業が成立していた。それは、生徒の側に基礎学力が存在し、教師の要求するレベルで物事を考える事ができる、という前提の上に成立していた楼閣であった。

 生徒にこちらを向かせるためにはどうすればいいのか、このことを考えていく中で私は様々な試行錯誤を繰り返した。同時に、試験が終われば全てのことを忘れ去る彼らにとって、「社会(地歴公民)科の勉強」がどんな意味を持つのか、という問いも私に大きくのしかかった。進学するわけでもない(最近では進学者が急増しているが、いずれにせよ世界史や地理が入試で必要になるわけではない)彼らにとって必要なものは、用語や年号のような知識ではないのは明らかである。

 知識でなければ体験ではないのか。それは漠然とした思いだった。いや単に「授業を聞かないから作業でもさせてみるか」という程度の発想だったかもしれない。しかし頭に残らなくても、体に残ることがあるのではないだろうか。例えば「楔形文字を実際に刻んでみる」といった授業はそんな思いから生まれてきた。

 「何かを体験させてみる」。そこから生徒は多くのことを学び取る。こちらが教壇で大声を張り上げなくても教材は雄弁に語りかけ、生徒は多くの事実を導き出す。

 そう生徒は「導き出す」のだ。本人が自ら気付き学び取った事実は、与えられた知識とは異なり、彼らの血となり肉となる。西洋には「魚を与えるより釣竿を与えよ」という言葉があるらしい。結果としての知識を与えるのではなく、それを導き出す能力を育てる事が大切なのだ。それは「結果」の学習ではなく「過程」の学習といっても良い。授業の中で何かを体験し、そこから社会のしくみを発見していく。そこには個人差もあろうし、そんな悠長なことはやっていられないという時間数の問題もあろう。また一定の教育レベルを保てるのかという不安もあろう。だがここに一番大切な学習の目的・形があるのではないか、と私は考える。

 もちろんこれは小中学校では当たり前のように行われていることである。だが、大学進学のために――とは限らないが、とにかく――一定レベルの体系だった知識を教授するのが高校であると考えている人間にとって、これは極めて大きな方向転換であった。

 このような目的に添った学習の形として、「体験」であるとか「実際にやってみる」といった学習形態は存在する。しかし時間的・物理的・空間的制限の中で全てのことを実体験するのは不可能である。また本質的にそれはあくまで疑似体験であって、究極的には真似事に過ぎないともいえる。だが我々は様々な制約の中でよりベターな教材を選び取ることしかできない。

 また、仮想的なものであれ何らかの体験をした者は、理性の要求するまま、必然的にそれと実際との空隙を埋めようとするであろう。そこに思考が生まれ、学習が自発するのではないか。ここがシミュレーション教材の存在する位置であろう。結局全ての体験教材がシミュレーションでしかないことになっても、やはりそれは体験であり、疑似体験であるからこそ、彼らの感性に訴えかけ、講義形式の授業からは得ることのない膨大な気付きを引き出すのだ。

 コンピュータの発達によって、あらゆる状況を仮想的に体験できることが可能になっている。実際「社会科の授業はシムシティに勝てるのか」を教育雑誌が議論したこともある。ファミコン世代の生徒にとって、ゲーム的にある物語の中に入り込む事に違和感はない。導入として利用すれば、具体から抽象へという流れに合致するよう利用できる。

 歯止めのないサイクルの中で、それを打破する術を探す日々、そんな時に出会ったのがシミュレーション教材である。

 以後この2年の間に私が扱ったシミュレーション教材は次の4種である。

(1)ナイルの洪水(個人・図上型・時間的確率的要素)

サイコロにより洪水の高さを決定し、ナイル川流域の農民の生活を体験する

 H9年及び10年4月 世界史(2年生)で実施

(2)シミュレーション選挙(クラス一斉・ロールプレイ型)

 タレント人気投票を制限選挙の形で行うことによる投票結果の操作

  H9年11月 現代社会(3年生)で実施

(3)鉄道建設ゲーム(個人・図上型・空間的要素)

 東京から新潟まで、ヘクス画面上に鉄道を建設し、地形との関係を洞察する

  H9年11月 現代社会(3年生)で実施

(4)遊牧民ゲーム(4人グループ・図上型・空間的時間的確率的競合的要素)

 盤上を自由に移動しながらサイコロによって出来事を決定し遊牧民として牛を増やす

  H10年9月 地理(1年生)で実施



教材の実践

 「ナイルの洪水」はもともとは地理の教材であるのだが、私は世界史の教材として使用した。これは「洪水によって豊作が約束される」という我々の常識とかけ離れた事実を体験的に理解させると同時に、洪水によって収穫が左右される生活が不安定であることに気づかせる教材である。生徒は「サイコロを振る度にドキドキした」「ナイルの人にとっては洪水がうれしいことだなんて、へんなのー」などといった感想を持ち、そこから「神は私を見捨てなかった!」と神の存在、すなわち宗教の誕生に気づく者、治水の必要に気づく者が現れる(現れないこともある)。

 こうして生徒は、農業の開始によって治水・灌漑の必要が生じ、強力な指導者が現れ、国家・文明が誕生すること。また自然=神に対し、これを崇め祀る神官が登場することなどを理解する。私はこの教材を世界史の授業の中で、農業の成立の後扱い、ここから浮上した知見を元に文明の成立を解説した。このように本教材は農耕から文明の成立までを鮮やかに描きだす。無論「水の論理」で全てを説明することは無理なのであるが、一つのわかりやすい物語を体験的に提示できる教材として、これは大変有効である。私はこの教材で初めてシミュレーションを扱い、生徒に自由な発想・積極的参加の姿勢を目の当たりにし、その効果に大変驚いた。

 もちろん全ての者がこちらの望むレベルまで達するわけではない。これはシミュレーション教材にほぼ共通することであるが、彼らが導き出したものを全体に還元し、全体を引き上げる必要がある。

 「シミュレーション選挙」は事前に行った予備調査に基づき、クラスの一人一人の身分、年齢、財産(納税額)を決めておき、制限選挙・不平等選挙の形でタレント人気投票を行うものである。(もちろん制限の仕方によって当選者が変化するよう仕組む)そして最後には買収によって投票行動を操作する。

 かつての財産制限選挙・不平等選挙の話をいくら話しても、現代的自由の中に育ち、それを満喫している彼らに周波数は合わない。ましてや彼らが選挙権を持つのは暫く先のことなのである。とはいえ公民的授業をこの先成人するまで(成人しても)受けることのない彼らに何とかして選挙の意味を伝えたい。この様な想いに応えてくれる教材である。

 実際に行ってみて、1時間適当に楽しい授業であったとは思う。だが、こちらが意図していたレベルまで到達したか、と問われれば極めて心許ない。対象が就職の決まった3年生ということ、公民が専門外ということもあり、授業の流れの中で上手にこの教材を活かしきれなかったというのが実状である。やはり明確な位置づけと、シミュレーション後のまとめによる学習の再分配が不可欠である。

 「鉄道建設ゲーム」は地理の教材であるが、今後のためのデータ収集として現代社会の授業の中で試行した。何の脈絡もなく行ったため、生徒はかなりとまどったようだが、快く取り組んでくれた。

 しかし感想の中に「東京から新潟まではもう電車は通っていると思う」とあるのを見たとき、私は頭をハンマーで殴られた気がした。「正解に至るまでどれくらい時間がかかるのか」「どれくらい個人差があるのか」というこちら側の都合の上に、「さあ、鉄道を建設してみましょう」程度の導入でこの教材は扱われた。十分な説明と位置づけがなされないまま行われた授業に対し、彼らは確実にとまどい、その意図を見抜けないまま、それでも考えた末に先のような感想を述べたのだ。シミュレーション教材は生徒の自由な発想を促すものであるが故に、教員の側の予測、覚悟、対応が問われる事になる。授業の流れの中で明確な位置づけをしないままいきなりシミュレーション教材をを取り入れることは無意味であるだけでなく、下手をすれば有害である。まとめを行わないまま授業を終了すれば生徒は誤った認識のまま、また教材の意味を十分に理解しないま単元を終えてしまう。試しにやってみようなどというのは論外である。シミュレーション学習に限ることではないが、重要なことを私はここで学んだ。

 「遊牧民ゲーム」は本年度9月、地理単元「熱帯地域に住む人々」で導入に利用した。遊牧民といえば風の吹くまま好きなように移動する気楽な人たちと言うイメージがどこかつきまとうが、実際には極めて不安定な中、風土病、干ばつを避けながら毎年決まり切ったルートを移動するものであり、それを極めて体験的に理解できる。また雨季と乾季の存在からAw(ステップ気候)であること、集落は通過できるが止まれないことや、一度止まった地点は3ヶ月経たないと止まれないことから、草を食い尽くすと砂漠化してしまうこと、さらには遊牧民以外の人々との交流が必要であることなどが理解できる。ツェツェバエという不思議なハエの登場も興味を喚起したのか、2時間のゲームに対し、生徒は極めて積極的に取り組んだ。

 感想からは「遊牧民は大変だと思った」と言うものから「ツェツェバエとはどんなハエか」「牛が全て死んでしまったらどうなるのか」「市場はどんな様子なのか知りたい」と本質に迫るものが多くあった。これらの発見を踏まえて、また疑問に応える形でその後の授業を展開し、理解は極めて良かった。



教材の意味

 シミュレーション教材の利点は、まず生徒の主体的取り組みである。それ以前の学習が定着していない生徒(全てではないだろうが)にとって高校の授業は苦痛でしかない(と言う面もある)。その様な状況に於いて「教材の持つ力」を援用することは極めて有効である。シミュレーション教材は極めて生徒の取り組みがよい。

 第二に、自由度が高い点。まず結論ありきの形ではないため、生徒の自由な発想を促し、また授業の中での活用の仕方も自由である。ただしオープンエンド形式の問題については後で触れる。

 第三には共感的理解。そこで生活する人と同化する事によって、心で感じ、そしてそこから様々な気づきが生まれる点。これはカウンセリングで使われる空椅子の技法と同じで、対象を明確にしてその気持ちを考えさせるというのは、心の発達にも効果があると私は考えている。

 第四に試行錯誤からの客観性の獲得。シミュレーションの中で、生徒は単なる事実だけではなく、そこにアルゴリズム――約束事やきまり――を発見する。体験することで初めて、目に見えないものが見えてくる。

 シミュレーション学習のメリットはこれらの点にあると私は考える。



教材利用上の諸問題

 一方で、これらの利点を活かすために考えなくてはならない点も数多い。

 これまでにも触れたが、教材の持つ力が大きく生徒の自由な思考・試行を促すことから教材の位置づけを確実に行う必要があること。一連の授業の流れの中で「何のためにこの教材を扱うのか」を明確にすべきことがあげられる。

 またオープンエンド形式でも終われるのがこの教材の一つの魅力である。だが実際にそれは可能であろうか。私は(試しに行った形の「鉄道建設ゲーム」は除いて)全てのシミュレーションを行った後、必ず感想や疑問に思ったことを書かせて回収し、それをもとに「まとめ」の時間をとる。そして感想を引用しながら、このシミュレーションの中で理解してほしかったことを話す。この作業は必須であると私は考える。

 これらの教材はゲームの中で様々な事柄に自然を発見したり気づいたりするものであり、間違いなく到達度に差が生じる。当然そのまま終了して良いわけはなく、生徒の素晴らしい気づきを全員でシェアすることが肝要である。私は感想や疑問に思ったことなどをクラス全員分ワープロで打ち直し、プリントにして再配布する。その上で何か感じるところのあった意見にアンダーラインを引かせて発表させたり、それにコメントしながらまとめを行い、到達度格差が還元されるよう努力している。

 学習は具体から抽象へと進むと言われる。明らかにシミュレーション教材は「具体」的である。となればシミュレーション教材は「導入」として使用されるのが自然であるのか。確かに私は最初にシミュレーション教材を利用し、そこから浮かび上がる事実・疑問を元に授業を展開するという形で進めることが多い。それが自然な流れだと思うのだが、一方、講義を行い最後にシミュレーションを扱うという展開も考え得る。例えばアフリカの遊牧民やその他の民族の生活について話をした後、遊牧民ゲームを行うといった形、つまり具体的な体験によって知識を再確認するという流れである。実際にも、このような形で授業を行い、理解が深まったという実践報告もある。どのように考えたらよいのだろうか。

 決してどちらかがよいという単純な問題ではなく、その教材の持つ性格、対象生徒の実態等を考慮した上で判断することであろう。私の考えでは「ナイルの洪水」は導入として利用するのが適当であり、「シミュレーション選挙」は導入・まとめどちらでも、「鉄道建設ゲーム」は導入として、「遊牧民ゲームは」どちらでも可能だと考えている。

 後からシミュレーション教材を使用する場合、前座の講義について理解が十分になされてこそ、シミュレーション教材を利用する意味が生まれる。

 しかし本校のように、いかにしてこちらを向かせ、学習に目を向けさせるか。更に言えば授業中どうすれば生徒を寝かさないようにできるかという状況では、導入で使用するのが適当であろう。

 変な喩えだが、すくった味噌汁をどんな器に盛るのか、が問題となるレベルであれば、そこで効果を発揮するように教材を利用すればよい。だがその前に、如何に味噌汁をすくうか、が問題なのであればそこに全力を注ぐ(注ぐのではなくすくうのだが)のが取るべき道であろう。これらの点を踏まえて効果的に教材を利用したい。

 さて、シミュレーション教材は言ってみればゲームであり子供たちはかなり積極的に取り組む。しかし、一部には何らこちらの意図に気づかず「これはなんだったんでしょうか」などとがっかりするような感想を書いてくる者もいる。ただ楽しいだけのゲームでは授業中にやる意味はなく、何らかの気づきを促したい。そのためには「勝つためにはどうしたらいいか考えてごらん」「ツェツェバエも干ばつもない月をリストアップしてごらん」などとゲーム中に様々な支援をする必要がある。

 そして同時に、彼らがゲームの中に入り込むことが必要になる。「こんなくだらねーのやってられっか」という態度でただサイコロだけ転がしても何も生まれない。そのためには雰囲気作りも必要である。例えばサイコロを使う場合、鉛筆を代用したりするのだが、鉛筆もない場合――本校は商業高校であり全員が電卓を所有しているため――電卓をランダムに叩いて計算をさせ、出た数字をサイコロの目とするなどということを行う。だが、なぜだか判らないが、これはほぼ確実に子供の気持ちを荒れさせる。やはり自分の手でサイコロを転がすところに、祈るような気持ちが生まれ、共感的理解に繋がるのではないかと私は考える。また、ナイルの洪水や遊牧民ゲームの場合は、毎年分「幸いの記録」をつけさせるようにしている。「今年は洪水が低くて収穫が不十分だ。子供が泣いているのにどうしたらよいのか」「ツェツェバエに襲われた。政府は何をしているのだ」といったことを当事者になりきって書かせるのだ。当事者になりきったとき初めて、当事者にしか判らないことに気づくはずだ。

 最後に時間数の問題がある。少ない時間数でやりくりする中、シミュレーション・まとめと何時間もとられるのは大変痛い。だがシミュレーション教材の有効性を考えれば決して無駄ではないと私は考える。



今後について

 シミュレーションは極めて有効な教材であり、今後の学校教育の在り方から考えても方向として間違っていないと私は考えている。本年度(平成10年度)の教育課程研究集会地歴科部会でシミュレーション教材が取り上げられたことからもそれは伺える。

 しかしシミュレーション教材はイギリスからの翻訳・輸入物が多く日本独自の教材は多くない。また地理に関するシミュレーション教材は多いものの、歴史モノはなかなか見あたらない。そのためもあるのか、教材そのものはいくつか腹の中に抱えていながら、なかなか授業の流れの中で活用できない。しかし、シミュレーション教材を載せた地理教科書も発行されるようにもなっており、今後は多くの教材が開発されるだろう。良いシミュレーション教材を作成された方またはご存じの方は是非お知らせいただきたい。

 現在私が考えているのは鉄道建設ゲームを横浜・小田原〜富士・静岡間に翻案することである。おそらく生徒は丹那トンネルコースを通ろうとするであろうが、最初に開通したのは現在の御殿場線であり、こちらの方が建設費用が少なくてすむはずである。これを導入として丹那トンネルの存在を浮かび上がらせれば、そこから世界史でも日本史でも現代社会でも地理でもどんな教科でも展開可能であろう。

 シミュレーション教材の可能性はどこまでも高い。




[参考資料]

・「シミュレーション教材の開発と実践―地理学習の新しい試み―」山口幸男・西脇保幸・s梅村松 秀編 古今書院 1993

・「社会科教育」連載講座 シミュレーション教材、こう作る・こう使う 明治図書

・「社会科におけるゲーミングの試み」三橋秋彦 平成10年度公民科社会科教育全国協議会第52回研究大会報告

・「EVIDENCE IN HISTORY」John Nichol Getest(BTS)Ltd,eynsham,Oxford 1983