コンタロウ『1・2のアッホ!!』


 この漫画は、「少年ジャンプ」誌上ですでに20年以上も前に連載を終えたギャグ漫画である。この漫画を「どんな漫画か」説明するのは非常にむずかしい。

 友情学園の野球部のキャプテンとカントクが主人公であり、「学園野球部の漫画」という説明はその意味で正しいが、しかし絶対的にまちがっている。
 野球などほとんどやらない。また、やらないことがこの漫画の売りである。毎回、野球はおろか、学園という枠さえ越えて自由自在に話題を設定する。
 話題の選び方といい、描き方といい、「こだわり」というものがなく、あるときは学園の話を、あるときは政治の話を、あるときは犯罪の話をという具合に、自由自在、軽やかに飛び回る。『こち亀』が、初期は現役警察官の権威にたいする破壊的な風刺であり、途中から現在にいたるまではたんなるホラ吹きの想像力とヲタク的嗜好へと特化していった「はめ込みぶり」にくらべると、まことに軽い

 この漫画は、しばしば「知的なギャグ」とよばれたが、拘泥や執着がなく、題材を軽やかにを斬っていくその姿が「知性」を感じさせるのだと思う。

 NASAが火星へ有人ロケット(バイバイキング)をとばすのだが、予算不足で片道しか燃料がなく、この漫画の登場人物の一人(ノロ和)をだましてロケットに載せて飛ばしてしまうという話がある。
 計画を放棄しようとするときにカーターとおぼしき大統領が「なぜベストをつくさないのか!?」と「ピーナッツ」を食べながら登場し、「なぜ計画を途中で放棄するのか! なぜベストをつくさないのか!? なぜ!?」と叫ぶのだ。
 ここでぼくはもう笑ってしまう。
 当時の疑獄事件にひっかけて「ピーナッツ」を食べさせながらカーターを登場させ、当時カーターが書いた著作のタイトル(なぜベストをつくさないのか)を叫ばせているせいだ(※)。
 しかし、そんな古い時事ネタなど知っていなくても、この場面は十分におかしい。
 大統領が機械のようにセリフを叫び、手をわななかせ計画の遂行を叫ぶ様が、威信を保とうとする国家の姿の文字どおり「戯画」になっている。国家への悪意が出発点にあってそれをなんとか風刺してやろう、などといった力みがどこにもなく、演説するカーターの描写には、そのおかしみで遊ぼうとする軽やかな批評精神がただよっている。

 すでにいいつくされたことではあるが、ものごとへの違和感、すなわち「おかしさ」はやがて「可笑しさ」へとつながっていく。笑いは批評精神である。

 打ち上げた後、宇宙食を積み忘れたことに気づいたNASAの幹部たちが、
「ど…どうしましょう こんなことがばれたら飛行士の基本的人権無視でNASAは東側の絶好の攻撃材料になりますよ」(すで片道で送ったこと自体が重大な人権侵害だが)
「ブッ」
「ひょっとしたらカーター政権は転覆するかも」
「声が大きい!」
「とにかくこのぼう大な量の超豪華宇宙食を処理せねばならん… それも極秘にだ!」
「ど どうやって…?」
「方法はひとつ……」

といって、「根性でぜんぶくっちまうのだ!」といって食べはじめるのである。それでも食い切れずにNASAの幹部たちは路上でたたきうりをはじめるのである。
 ここでも国家威信のために道化を演じる姿にぼくらは笑うのだが、やはり実に描写が軽い。何かを告発しようという意図がまるでなく、こういうちゃかし方が心底おかしいと思うから作者はこうやって描いているのだ、という姿勢がよく伝わってくる。


 ほかにも有力プロダクション(釜プロ)社長のツルの一声で決まるというレコード大「将」選定の裏システムの話がある。ひょんなことで釜プロ社長と主人公のカントクが入れ替わって、このシステムが自動的に作動してしまい、レコードも出したことがない「カントク」が「大将」をとってしまう。
 出てくる歌手は「都フユミ」だの「西城オデキ」だの「パンティーズ」だのと古めかしい名前のパロディばかりだが、「政治」システムの暴走にギャグをインプットしたら、そこに抱腹絶倒のおかしみがアウトプットされることは今読んでも十分に普遍的である。

 これは国家やシステムの話をとりあげているから「知的」という意味ではない
 その軽やかな批評的精神のありようが知的だということである。
 本作には、主人公のカントクが、「拒」人軍の陽(王)から老師と慕われる話がでてくる。そこで描かれる陽と流目(長嶋)の人物描写が十分に批評的である。
 当時、王は756号ホームランを打ち「世界新記録」を喧伝されたものだったが、そのとき、ファンのなかにちらっとでも心をかすめたのは、長嶋は王をどういうふうに扱うのかという問題だっただろう。
 本作では、陽は非常にまじめでナイーブな人物、邪心のない新興の英雄として描かれている。それにたいして、流目はその新興の無心な英雄に対して、その偉業を褒めたたえ友情をしめすが、過去にミスタージャイアンツとよばれた栄光がかすむような気がして穏やかならぬという、非常に屈折した気弱な人物として描かれているのだ。その対比にぼくらはおかしみを感じるのである。

 プロ野球の実在の人物のリアルな描写かどうかなどということはまったくここでは問題ではない。王が756号を打ったときの空気なんかは知らなくても、ぼくらは長嶋と王のその対比に、「よくある人間関係」にたいする批評精神をみるのである。

 批評家の関川夏央は、いしいひさいちの批評精神をのべた文章で、いしいのプロ野球描写についてこう述べている。
「日本人にとって、プロ野球はたんにプロスポーツではない。超人たちの躍動する別世界でもなく、それは日本社会の反映である。……球場には日本社会の生活者の、あらゆる典型がいるからだ。そして、夜ごと彼らははなばなしくもこっけい、華麗とも徒労ともいえる営みを、わたしたちになりかわってくりひろげてくれる。江川は明るい株屋のようだ。王は精神主義の中間管理職で、吉田は関西の小間物行商人みたいだった」(関川『知識大衆諸君、これもマンガだ』)
 
 これほどの漫画が、なぜいま復刻もせずに入手困難に追い込まれているのか不思議でならない。

 『1・2のアッホ!!』は、ぼくの幼少期の精神形成の重要なベースのひとつになっている。たぶん、国家威信をかけるということの窮屈さやおかしみを、「国家不在」だった日本の政治的現実からではなく、当時のアメリカを風刺した同作の1話から学んだにちがいない。



(※)後日、「“これはカーターがピーナッツ農場出身者であることの揶揄ではないのか”、という指摘が2chのスレでありましたよ」という指摘をうけた。それ自身知らなかったので、調べてみると、たしかにカーターの経歴はそのとおりであり、そういうギャグとして解釈した方が自然である。ご指摘ありがとうございます。

全10巻 集英社ジャンプコミックス
2004.7.27感想記(06.4.1補足)
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