篠田節子『百年の恋』



百年の恋 つれあいに読むように指示されて読んだ。
 2003年に出た単行本の文庫化。

 高年収のキャリア女性と、モノ書きとして細々と収入を得ているダメ男オタクライターの結婚・子育て物語で、NHKでドラマ化されたのでご存じの方も多かろう。
 同ドラマにおいて美女かつ高収入のエリート銀行員・大林梨香子を川原亜矢子が演じたのはまあわかるとして、「ダメ男オタクライター」の岸田真一を筒井道隆がやるのはおかしいだろう、とつれあいと話題に。
 だいたい、真一は「小太り」で、梨香子とのつりあいのとれなさが目玉なのに、筒井はまったくそういう感じを抱かせない。カンニング竹山とか塚地武雅(ドランクドラゴン)とかがいいのではないかという話をしていたのだが。

 それはともかく。
 奇妙に設定が、うちの夫婦と「うっすら」とかぶっているのはなぜ

・女性主人公の社会的地位の高さ
・女性主人公の年収=男性主人公の年収×k (k>1)
・男性主人公のダメ男ぶり
・男性主人公がモノ書きで細々とした収入を得ている
 ……etc


 もちろん、まるっきりいっしょなのではなく、とりわけ女性の造形における上記の「類似点」は、思いっきりデフォルメを効かせたら類似する、という意味なので。あくまで「うっすら」とかぶっているだけですから!

 「特にモンスター物が得意(なつもり)なので、登場人物までもモンスターにしないでは気が済まなかった」と篠田節子があとがきで書いているように、女性主人公・梨香子の設定は、あきらかに「モンスター」であり、それはわがつれあいとは違っている(と思うのだが、自信はない)。

 梨香子は「東邦信託銀行 国際営業開発部 営業開発プロジェクトマネージャー」「東大理学部数学科の大学院を修了し東邦信託銀行に入行、年金信託部で二年間、数理計算とシステム設計を行った後、アメリカの大学に社内留学し、MBAを取って戻ってきた」などという猛者。航空機のファイナンスをまかされ、年間数十億ドルを動かす辣腕ぶりなうえ、「非のうちどころない容貌」ときている。

 しかし、家では整理整とんはおろか、カップを洗うこともできず、次々新しいカップをだし、飲んだものを飲みっぱなしにしてカビを生えさせて平気でいる、というのである。
 すえた臭いのする、洗濯しない汚れた下着の下からゴキブリが現れるといった始末だ。
 その落差が驚くというよりもコミカルなものを感じさせる。


「今、〔妊娠中の――引用者注〕梨香子が身につけているのは、真一のスウェットスーツだ。小太りの真一の衣服なら、腹の周りもどうにかカバーできるようだ。/すっかり重くなった体を色あせた水色のスウェットに包み、梨香子は新聞を見ていた。しかしまたすぐに部屋に引っ込む。/そっと覗きに行くと、着替えや書類や辞書や雑誌、たべかけの蜜柑などの散乱した部屋で、早春の光を浴びながら、砂浜のトドのごとく転がっている」(p.185)

 ちょwwwww似ス……

 梨香子は子どもが出来てからも、会社の広告塔として育児休暇はとる、いや、とらされることになるものの、仕事が心配でたまらず、テレビのニュースをきっかけに復帰してしまい、もともと授乳以外の多くの家事・育児を担当してきた真一が「専ら」引き受けるようになってしまう。その一方で、真一は自分の仕事が枯れないように、必死でライターの仕事をこなそうとするのだ。

 一見家事と育児をこなす真一は、「進歩的」父親像にみえる。
 そして、じっさい、ライター仲間からはそれに似た評価をうけ、子育てエッセイまでまかされてしまうのである。
 しかし、実は真一の頭の中はわりとコンサバで、たとえば梨香子の汚れたパンティを洗濯機につっこみながら、真一は次のように思う。

「真一が高校から大学時代にかけて頻繁に出入りしていたSF同人誌の女性たちは、男にこんなことをさせなかった。合宿ではお茶をいれるのも、配膳をするのも女だ。そう決めているわけではない。しかしごく自然に女の子はお茶をいれて配り、食事時には周りの男の茶わんが空になっていると、さり気なく右手を伸ばし、『おかわりは?』と尋ねてくれる。/それが女の心得だ、などと言うつもりは毛頭ない。しかしそれが女としての自然なふるまいではないか、と真一は思う」(p.76)

 しかし、頭の中はそんなふうで、それがゆえに嬉々としてではなく、悲鳴をあげながら家事と育児に追われ、自分の仕事も細く枯れていく不安にさいなまれている真一の様子は、悲哀の色はありながらどこかしらユーモラスに描かれている。

 おわかりだと思うが、真一のやっていることは、単に家事と育児をおしつけられた、男性よりも低収入の「平均的な女性」の姿である。そして、収入が高いというだけで家事も育児も何もできず、ただパートナーや子どもへの愛を口にし、家に帰れば「砂浜のトド」のように横たわっているだけなのは、「平均的な男性」の姿なのである。少なくとも、高度成長期にはほぼ圧倒的多数であり、現在もまだまだメインストリームである男性のそれなのだ。

 ゆえに、梨香子を「モンスター」だと思ってしまうのは、実は男権的な感覚なのであって、男とは少なくとも近代以来このような片面的発達をとげた「モンスター」であったということでもある。

 家の片づけを手伝いにきた女性編集者の秋山は、パンティを洗わせることへの妻への不満ともっと恥じらいや感謝があってもいいでしょうとグチる真一を怒鳴りあげる。

「あなたに妙なこだわりがあるからよ。偉そうな顔をするからよ。パンツがどうしたって? 私も、私の母も、祖母も、夫や父や祖父のパンツ洗ってきたのよ。洗濯機もない時代から。つまりあんたたちは、そうして平然として、自分の脱ぎ散らかしたものを洗わせてきたんじゃないの。そこに恥じらいがあった? 感謝があった? たかが汚れ物だろうが」(p.288)

 ぼくは、真一にしばしば感情移入をしながら、あるいはまったく「あちゃー」という感じの存在として、ついたり離れたりしながらこの小説を読んできた。
 とくに、ぼく自身がサヨクであるために、男女の家事・育児について「進歩的」態度をとりたいという欲求があるし、ある意味でプレッシャーもある。しかし、生来怠け者であるうえに、出身は保守的な田舎の農家なので、どこで「地金」がでるかわかったものではないという不安がある。
 ゆえに、真一が家事や育児に追われながらモノを書くチャンスを失っていく様子はとても同情的に読むし、逆にとてつもない男権的なカンちがいをしていてそれを同業の女性ライターや女性編集者たちに見抜かれて怒鳴られているときはものすごくハラハラした気持ちになっているのである。まるでぼくのなかにある男権的なものを見抜かれたときのように

 
 石坂啓が『安穏族』のなかで男女逆転の性分業漫画を描いたのは80年代だった。それは男女雇用機会均等法以前の社会であって、そこではまだSFとして表現される以外にリアリティは保ちようがなかった。
 世紀がかわって篠田がこのテーマを扱ったとき、すでに舞台は現実世界であり、そのようにしてもリアリティは失われないようになった。そういう意味では蝸牛のようにではあるが世界はゆっくりと進歩しているのであろう。
 そしてそのような逆転の「戯画」のなかに自分自身がいようとは、また夢にも思わぬことであったのだが。





集英社文庫
2007.2.19感想記
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