『世界がもし100人の村だったら』批判の批判


 斎藤美奈子『趣味は読書。』(平凡社)が『世界がもし100人の村だったら』(池田香代子 再話、マガジンハウス)を批判している。
 斎藤は、書評集として著したこの本のなかで、万人受けするものがいかにヌルくて人畜無害でそれゆえに有害であるかということを、口をきわめてののしっている。『だからあなたも生きぬいて』『五体不満足』などが槍玉にあげられ、その最後にこの『100人村』が登場する。

 批判の根本は、“自分はめぐまれている/世の中にはかわいそうな人がいるんだなあ”という安心、自己満足でこの本は終わる、というのである。こういう人畜無害さだから、アメリカンスタンダードをグローバリゼーションだとおもっちゃうんだよ、などという挑発までしている。

 ぼくは、池田もまったくの一参加者としてくわわっているメーリングリストの公開ログをみているけど、“自分はめぐまれている/世の中にはかわいそうな人がいるんだなあ”などという安心感につつまれるなどという人は、一人としていない。
 また、ぼくのまわりにもいない。

 昨年の10月に、小泉サンが「アフガンではもっと悲惨な人がいるんだから」といって、自分がひきおこした構造改革による失業や倒産の痛みを我慢せよ、と言った以外に、あの本をよんで、自分のめぐまれた境遇を確認して安心して本を閉じた人などみたことがない。
 たいていのひとは、「なにか自分に少しでもできることはないだろうか」と感じる。
 “自分はめぐまれている/世の中にはかわいそうな人がいるんだなあ”と感じる人はたしかにいる。しかし、それを自己の地位確認につかうのではなく、そこから行動をおこす、あるいは起こしたくなる欲求をもつ。あるいは世界を批判的に解釈する。
 もちろん、その行動や解釈の出発は、いわば、同情心や憐憫からかもしれない。じじつ、そういう人は多い。だが、それは自己満足とは天地の開きのある心情である。世界を批判し、変革しようとするメンタリティーをもったという点において。

 『100村』は凡百のルポが伝えられなかった、世界の不公正を自分とのかかわりでとらえるという問題を、一切の質を捨象し「統計」のみを使い、それを「村」という単位におきかえたアイデアによって一瞬にして作品にしてしまった。
 レーニンは「絵図」、問題を一望にみわたせる「絵図」を描くことが大切だといったが、『100村』はわずかのページ数の絵本でそれをやってのけてしまった。

 斎藤は自分の論理にうらみがあることを知っているので、あわてて“この本には読んだ後、行動にリンクできるウェブのURLもない”などと付け加えてみせる。なんだそりゃ。

 ぼくは、大衆ウケしているものを批判するというのは、決して悪くない根性だと思う。
 しかし、あまりにお粗末すぎる。大衆ウケするものは、かならず何がしかの普遍性をふくんでいるんだから、そのことをとりださずして、難くせのような悪口をあびせても、なんら生産的ではないと思う。


2003年 2月 2日 (日)記

メニューへ