小熊英二『1968』




1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景  分厚い。分厚いね、と思っていたら「上」である。「下」もあるのかよ。上巻で1000ページ、下巻で1000ページ。電話帳である。いや、昨今の電話帳はこんな厚くないし。しかも上下巻で1万3600円。誰が買うんだよ、こんなの。俺か。

 著者の小熊は読み手に思いっきり無愛想なこの冊子を通読しなくてもすむように最初に目的にあわせた読み方指南までご丁寧につけている。ぼくもそれにそって読もうかな、などとヌルいことを考えていたのだが、面白くてつい最後まで読まされてしまった。

 1968年前後の全共闘運動を中心とした〈若者たちの叛乱〉は何を意味するのかを、当時の資料をたどりながら、研究したものが本書だ。何がぼくに「面白さ」を感じさせるのかといえば、党派の公式見解や「正史」ではなく、当事者の後日の回想録、週刊誌や新聞での学生・青年のつぶやき、世論調査などを中心につづっているという、この叙述の方法によるものだろうと思う。ただし、それは後で述べるように本書の弱点でもあるのだが。「読み物」としてはこの方が面白くし上がることは間違いない。




 小熊が本書のあとがきで〈正直にいえば、筆者自身も資料を読み始めた当初は、失望を禁じ得なかった。……「あの時代」の若者たちが遺した言葉は、その多くがマルクス主義の教条的な定型句や誇大妄想的な革命論で、全体的に稚拙で無知な青少年の言葉としか感じられなかった〉(下p.980)と述べているように、この時代を知ろうとする者にとって最大の難関は真情が伝わってこない生硬な言葉の洪水である。ぼくも『レッド』のあとがきを書く際に参照した『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第3巻』でもその言葉の壁について嘆じている。

 『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第3巻』はそういう意味では当事者の後日の回想の言葉や、わずかな日記などを手がかりに当時の学生たちの真情をくみとろうとする点では本書と同じである。
 しかしやはり小熊の本書の方が面白さという点において圧倒的に上なのは、運動の高揚と没落を局面ごとに、ある意味で運動側の視点に立って分析し、そこに小熊独特の歴史観(この時代がどういう時代であったかという)をからませているからであろう。深みがまるでちがう。




“批判するなら全部読め”“自分が書け”



 その本の感想を書こうと思ったのだが、そもそも小熊は〈事実関係ではなく、本書の位置づけや解釈に納得できないという方は、議論や批判をしていただくのはもちろんかまわない。ただし批判する場合には、当然のことではあるが、自分が批判したい章だけを読むのではなく、本書全体を通読し全体のテーマ設定のなかでのその章の位置づけを把握したうえで批判してほしい〉(下p.983〜984)とあとがきの末尾で厳しい警告を書いている。
 しかも〈要するに、本書の位置づけや解釈に納得できないなら、本書の批判をするよりも、ご自身で本書に代わるものを書く方が発展的だろう〉(下p.984)とさらに高いハードルを設けている。こんなことをされては気軽に批判できんではないか。

 部分的に読んどこうと思っていたのが心ならずも通読してしまったぼくは、一応本書を批判する資格を手に入れたことになる。また、叙述の目的は全然違うけども山本直樹『レッド』3巻(講談社)に『レッド』前史を書く形でこの時代についての叙述を行なった(そこでは小熊の問題意識と重なることも多かった)。というわけでぼくには少々批判する資格があるとと思うので、少し批判する。




60〜70年代の政治状況全体と一体でとらえよ



 小熊は、朝日新聞のインタビューにこたえて、1968年をターニングポイントとする「1968年革命論」については、〈一部の論者が唱えるような「世界革命」とは呼べないし、「文化革命」という見方も神話化されすぎだ〉(同紙09年8月25日付)と規定する。
http://book.asahi.com/clip/TKY200908250136.html

 こうした意味で小熊が「脱神話化」しようとしているのは、ぼくもそのとおりだと思う。つか、1968年という年をあげて革命の年だとかぬかしているのは明らかにそこで「学生叛乱」とか全共闘系の運動にかかわった人間(スガ秀実とかウオーラーステインとか)の感傷としか思われない。
 ニクソンショックやオイルショックに象徴される高度成長の終焉は、先進国において重工業的な大規模投資がひとめぐりしてしまったことを意味していた。それは成長の停滞、一定の社会的成熟であり、成長の影にあったひずみの暴露を意味する。これが大きな社会的変化であることは疑いないが、一つの年限に区切りをもうけて革命と称するようなものではない。

 60年代末に日本の大学でおきた「紛争」は、その変化のなかでおきたひずみの露呈のひとコマでしかない。
 しかもそのなかでも全共闘運動そのものは、さらに小さな意味しか持っていない。小熊が〈同世代中多く見つもっても四〜五%しか「全共闘体験」がないなら、「全共闘世代」という呼称は当然不適切である。この呼称は、全共闘運動体験者が大卒のエリートで、のちにマスコミ上で発言する機会をもてた人間が比較的多かったために、生まれた言葉だったと推測できる〉(上p.95)と書いているように、全共闘運動参加者は社会の圧倒的少数であった。
 小熊が本書で全共闘運動というのは政治運動としてはダメダメな運動で、そもそも本質的に政治運動の外皮をかぶった「自分探し運動」なんだと見なしているように、社会的に見た政治的影響はゼロもしくはマイナスであるといってよい。
 「新左翼」が華々しく闘う「羽田事件」前の総選挙で、自民党は277議席であった。それが羽田事件、佐世保や王子のデモをへて、東大・日大紛争、全共闘運動を経験した1969年末の総選挙では逆に自民党支持は288議席に増えているのだ(追加公認をふくめ最終的に300議席をこえた)。連合赤軍事件をへて全共闘運動と「新左翼」運動が急激に退潮するなかで、逆に自民党は過半数割れを起こしている。

 しばしば1960年代末の「若者の叛乱」は67年の羽田・佐世保・王子、68〜69年の全共闘運動を絶頂として、内ゲバによって衰退し、72年の連合赤軍事件で崩壊するとみなされている。そして、それは同時に新左翼運動の破産であるが、さらに同時に、左翼運動の破産であり、マルクス主義のような「大きな物語」の失効なのだ、と語られることが多い。

 これもぼくに言わせると「神話」だ。

 本書はこの枠組みに一定の批判をあたえるものであるが、ぼくからいわせると、大きくはこの枠組みに無意識に乗っかっている。
 早い話が全共闘運動に目が行き過ぎなのである。本書で全共闘運動以外に同時代のものとして特別にとりあげられ、小熊の肯定的評価がにじみにでているのはベ平連くらいなものだ(リブの運動はポスト全共闘=「1970年パラダイム」として、そして連合赤軍は全共闘運動の延長にあるものとして扱われている)。新左翼運動や各種党派は予備知識的に上巻で扱われているのみである。なぜ各党派に「近代的不幸」を感じて参加したかは、各党派の正史などからもっと学んでもよいはずである。

 社会全体の流れで見ると、1967年に美濃部都政ができるのを嚆矢にして全国に革新自治体が広がり、人口の過半数を制するにいたるようになる。自民党は1970年代に「与野党伯仲」=過半数割れの危機を起こし始め、共産党は40議席になり、70年代に一つの絶頂期を迎える。

 左翼運動の破産どころか、左派系の政権交代が最も現実味をおびたのが70年代の空気であった。

 革新自治体は社会福祉・反公害など、高度成長のひずみを是正することを掲げた。大学紛争も、進学率の上昇のなかでそれに対応しない大学の状況が批判されるなかでおきたものだとみなすのが妥当だとぼくは思う。だから、大学解体や自己否定のようなスローガンをかかげる全共闘が孤立し、小熊があげた各種のプレ大学紛争や東大闘争が「大学民主化」の枠組みで勝利するのはあまりに当然のことである。

 小熊は東大闘争をはじめ各大学の闘争において、「民主化」に収束してしまう背景をのべるさいに、就職による「日和見」や無関心派の多さなどネガティブな側面をことさらに強調しているのだが、政治運動としてはここに収まるのが社会の状況から言っても当たり前のことだ。

 そういう日本全体の大きな流れとの整合性を考えないと、「民主化」要求が総じて支持され、「新左翼」ではなく民青が依然として大きな力を持ち、それどころか民青が静かに組織現勢を増やしていき、そのテンションが70年代まで続くことや、全学連加盟校は70年代も増加していったこと、そして何よりも70年代における共産党の躍進や革新自治体の広がり、という流れがまったく理解できなくなるだろう。

 この歴史的事実の中には、厳然と「近代」=資本主義というフレームがはっきりと生きて動いていることが確認できる。独占資本主義の支援策である高度成長政策のひずみが各分野に露呈し、それを解決するという左派勢力が伸長する、というきわめて「近代」的な枠組みだ。




「現代的不幸/近代的不幸」という把握の枠組み



 そう考えてみると本書の問題意識であり結論——“1968年前後の若者たちの叛乱は、現代的不幸の表現であり、そこからの脱却をめざした大規模な「自分探し」運動だった”——はどう評価できるのか。

〈大挙して大学に進学した彼らが、マスプロ教育の実情に幻滅し、アイデンティティ・クライシスや生のリアリティの欠落に悩み、自傷行為や摂食障害といった先進国型の「現代的不幸」——それは飢えや戦争といった発展途上国型の「近代的不幸」とはまったく異質なものだった——に直面し始めていた〉(上p.99)

〈この時代の若者をおおっていた「閉塞感」「空虚感」「リアリティの欠如」は、それ以前の政治運動や労働運動、平和運動を支えていた、飢餓や貧困からの脱出、戦争の恐怖といったものとは、およそ異質なものだった。それは貧困や戦争といった「近代的不幸」しか知らない当時の大人たちには理解不能な、ぜいたくな悩みとしかみえない、高度成長で大衆消費社会に突入しつつあった日本社会で出現した、新種の「現代的不幸」だった。そしてこの新種の「生きづらさ」が、「あの時代」の叛乱の背景になってゆくのである〉(上p.147)

〈全共闘運動は、高度成長にたいする集団摩擦現象でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的に直面した世代がくりひろげた大規模な〈自分探し〉運動であった、ともいえるだろう〉(下p.794)

 小熊は、自分の内面を吐露する言葉が、古典的なマルクス主義や党派用語の中にはないという大量の学生・若者の手記や告白を引用しつつ、たとえば東大全共闘が自己否定や大学解体などの実現不可能なスローガンへ邁進していった定向進化的破滅を、政治運動ではないということの証左としようとしている。

 「現代的不幸/近代的不幸」という問題の立て方は、実はぼくにはなじみのあるものである。

 本書の12章「高校闘争」に出てくる高校生たちの言葉や運動参加の経緯は、80年代に管理教育反対運動にくわわるなかで左翼運動にかかわっていったぼくの心情に非常によく似ている。

「青山高校は前にも述べた通り、校則等も余り厳しくなく、“割合い自由”だった。そこで『青高は自由なんだ』という伝統的意識が形成され……生徒と教師の信頼関係で自由な教育が行なわれるという幻想が生じていた」

という「青山高校闘争中間総括」と題する一文は、まさにぼくの高校時代のことかと見まごうものだった。

 この章で書かれている高校生たちの言葉は、「主体性」という言葉の下に学校や政治の意思決定への参加=自己決定を求めるものになっている。
 これは、80年代に高校生活を送り、左翼運動に身を投じたぼくが、悩んできた問題の一つだった。ぼくの家は「貧乏」というわけではない、だとすればなぜ自分にとって「革命」をやることが求められるのだろうか、という問いである。その結果、自分が求めていたものは、社会の意思決定への自分の参加ということではないかという結論にたどりついた。政治にせよ経済にせよ学校にせよ、自分の運命が自分とは関係のないところで決められるということへの不安と怒りである。そのようなものへ抗議をしていく、というのがぼくの運動の出発点であった。

 おお、まさに「近代的不幸/現代的不幸」ではないか!

 なるほど60年代末の運動も、80年代の運動も、たしかに「現代的不幸」の表現という側面があったことは否定できないだろう。高校生や学生が家庭や社会の事情から一定離れて社会改革を考えられるようになったといえる。しかし、ぼくは、まず〈「あの時代」の叛乱〉全体をこのように総括・規定するのであれば、やはり誤ったものになってしまうと言いたい。理由はすでに述べてきた通りだが、もう少し掘り下げてみよう(※1)。

  • ※1:つうか、小熊もおそらく80年代にこうした運動へ多少なりともかかわって同じ感慨を得たのではないかと思われるが、それを60年代末に投影しすぎじゃねーの、と思う。全共闘系の大学生の場合、「言葉がみつからない」というような模索よりも、「マルクス主義と実存主義の結合」みたいな方式でこの課題に応えたわけだし、その場合、マルクス主義という道具立てが捨てられなかったのはそれしか言葉がなかったというよりも、近代的な問題が根底でワークしていたからだろうと見た方が納得がいく。




70年代の「革新高揚期」が説明できなくなる



 小熊のように「現代的不幸」と「近代的不幸」を画然と分けるやり方は、あまりに通俗的だ。そもそも「近代的不幸」に対応する運動を「発展途上国型の運動」などと規定している。

 小熊は〈ピラミッド構造〉の典型として共産党をあげ、これが高度成長・大量生産型の近代生産システムと対応した組織形態であるとみなし、〈情報量の増大に対応しきれず自己崩壊していくという論理〉(下p.833)の例として〈共産党がたどった歴史的経緯〉を挙げている。

 しかし、たとえば社会党や共産党などの既成左翼の運動が「発展途上国型」だとすれば、60年代から共産党の躍進、財界が1964年に『民青同の実態と対策』というパンフをだしてその伸長を恐れるほどに増えていった民青の膨張や、70年代に革新自治体が広がることがまったく説明がつかなくなる※2)。

 小熊はこの「近代的不幸」にたいする従来型運動と、「現代的不幸」にたいする新しい運動という区分をあまりに截然と用いすぎていることだ。
 もちろん小熊は、この時期が過渡期であり、たとえば大学民主化という「近代的」政治運動と、自己否定などという「現代的」表現運動が混在していたことを十分に指摘している。
 しかし、小熊が〈近代的不幸〉と〈現代的不幸〉を〈まったく異質なもの〉だと把握してしまうことによって、〈近代的不幸〉に対応する運動への評価を非常に小さくしてしまうことになるのだ。

 ぼくは、〈近代的不幸〉と〈現代的不幸〉は画然と分かれるものではないと考えている。というか、現代でも大きなベースでは近代がワークしており、近代への課題に対する運動ぬきに現代の課題への対応などありえないと思うからである。

 しかもそのようにすることによってのみ、はじめて、1960年代末の日本全部の時代状況と、70年代の左派の伸長が理解可能になる。

  • ※2:全然関係ないが、小熊の著書でほとんどの部分では「民青」と書いてあるのに、高校紛争の記述のところだけ突如「民青同」(下巻、12章)になっているのはなぜだろう。また、小熊は民青の正式名称を「民主青年同盟」(上巻p.222)と正しく表記しているが(さらに正しくは「日本民主青年同盟」)、上巻p.299や下巻p.543では「民主主義青年同盟」などと誤って表記している。下書き的執筆者がたくさんいる、ってことでしょうか。




全共闘運動はゼロだったが、ポスト全共闘は違う



1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産  全共闘運動そのものは、社会運動・政治運動としては、先ほど総選挙結果を一つのバロメーターにしたが(※3)、まったくの無意味なもの、むしろマイナスにしか作用しないものだったとぼくは思う。
 しかし、全共闘運動の影響を受けた人々、そこから脱落した人々が、小熊の指摘する「1970年パラダイム」のようなエコロジー、フェミニズム、マイノリティの運動を地域で地道に担っていったことは、1970年代から80年代にかけて旧来の社共の運動とゆるやかな形で合流し(単純ではないが)、戦後民主主義の運動を、再生させリニューアルさせる一助になったことは否定できない。
 全共闘などの「戦後民主主義批判」自体は、1950年前後の、保守勢力による戦後民主主義を覆そうとした反動と政治的には選ぶところのない、打撃的なものであった。
 しかし、ベ平連や、ポスト全共闘のさまざまな市民運動は、戦後民主主義を再生させリニューアルさせる役割を果たしたということができる。

 ゆえに「1960年代末の戦後民主主義批判→社共の政治的寿命や戦後民主主義の思想的寿命の終焉」というような図式をもし唱える人がいるとすれば、それはまったく当たらない。




戦後民主主義運動が再生を迫られていたことは事実だが



 冒頭にのべたように高度成長が終焉に近づき、高度成長のひずみが露呈してきた時代において、戦後民主主義運動は再生を迫られていたとはいえる。

 戦後民主主義とは、日本国憲法を頂点とした法制度の理念を現実化させようとする運動であるとぼくは理解している。

 それは憲法制定当時は保守陣営をふくめて共有されていたが、1940年代末にいわゆる「逆コース」が始まると同時に、激しい攻撃にさらされた。
 その結果、1950年代には社会のあらゆる部面で戦後民主主義の制度的空洞化がすすめられ、これを維持しようとする側と憲法改定を最終ゴールにしてくつがえそうという側とが激しいせめぎあいを始めたのがそれ以降の政治状況である。

 たとえば戦前のような文部官僚の支配を脱するために設けられた教育委員会制度は1950年代に公選制から任命制にかえられ、ホネぬきにされてしまう。戦犯の追放解除、警察予備隊の創設、独占体の復活、労働運動の弾圧などがこの時期になされていく。

 自民党を中心とする支配勢力の側が、憲法体系を否定するという異常な事態のなかで、当然その理念の実質化をサボりつづける。逆にその体系を守ろうとする側は理念の現実化どころか防衛に必死で、部分的にはもう理念の現実化などはハナから問題にせずただ防衛のためのスローガンを叫ぶだけの退廃も生まれてくる(ただ断っておけば、そうした退廃はあくまで「部分」にすぎない、とぼくは思う。なぜならその間も朝日訴訟や各種の生活要求のための運動など、憲法理念を豊かにしていく運動は地道にとりくまれていくからである)。

 そして支配勢力の側は、大企業を擁護する「高度成長」政策と、軽武装による対米従属を追求するなかで、一定の「豊かさ」を確かに実現するのである。労働組合運動や平和憲法の完全実施で「平和と豊かさ」を実現するよりも自民党政治の方がリアリティがあると感じられたのである。

 ゆえに、戦後民主主義は「空洞化」の危機に実際にさらされていたといえよう。

 全共闘がやったことは、政治的には単なる戦後民主主義攻撃でしかなかったが、そこからの人的・思想的遺産は、戦後民主主義のリニューアルには役立ったということはできると思う。


 

  • ※3:「全共闘運動はそもそも議会制度外の運動なのだから総選挙結果などではかること自体が無意味」という批判がありえると思うが、小田実が全共闘は市民に語る言葉を持っていないというむねを指摘したように、広い国民には何ら反体制意識を増大させる役割を果たさなかった。まさにバローメーターとして選挙結果を使うのはあながち的外れではない。





外山恒一と全共闘の奇妙な一致 政治運動ではなく自分探し



 いまやファシストを自認する外山恒一は、『1968』を読みもせず書評していて、そのなかで“小熊には全共闘のラディカリズムとニヒリズムは理解できまい”と息巻いている。

〈これら「新左翼」の諸運動に共通するメンタリティは「ニヒリズムとラディカリズム」であるとスガ氏の本にもあるが、80年代半ばにこれと入れ替わるように台頭してきたのは、素朴ないわゆる「社民」的なムードである〉〈小熊英二という近年ブイブイいわしている批評家も、この社民的な“青いムーブメント”の中で自己形成した一人である(ピースボートや反管理教育運動と連動する形で登場し、尾崎豊なども出演していた反核ロック・コンサートの運営主体・ACFのスタッフだったそうだ)〉
http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10314424312.html

 外山の行動ってどう見てもすでに政治運動ではなく「自分探し」だ(あるいは「自己表現」)。ある種の全共闘の価値擁護者であり、その成れの果てである外山の姿をみれば、ああやっぱり全共闘運動って「自分探し」だったんだねと思うほかない。
 そのような意味で、皮肉にも「全共闘運動=自分探し」説は証明されてしまうのかもしれない。




自治会費の「流用」?



 さて、本書に対して(主に当時の運動関係者から)なされている、事実関係の間違いとか歪曲とかいう類の問題についてぼくもひと言。

〈自治会をあるセクトが掌握すれば、この自治会費を思うままにできた〉〈これら自治会費を所属学生数から換算すると、民青系は年間一億八千万円、三派系が約一億円、革マル派が約二千五百万円、構改派が約三千万円を獲得できていたと当時の報道は伝えている。それゆえ、各派は自治会費の獲得にしのぎをけずった〉(上p.319)

 そういうセクトや全学連を名乗る組織がいたかもしれない、ということは否定しないが(事実ぼくはそういう追及に参加したことがある)、全部が全部そんなふうであるかのように、根拠もなしに書くなよ。仲俣暁生なんかは信じちゃっているだろ。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090713#20090713f12

 たとえば大学の教員によるセクハラ事件が横行していることをもって、「大学の男性教員が自分の研究室に女子学生を所属させるのは性的な動機がほとんどである」と書いたらどうみても暴言だろ。

 典拠になっている毎日新聞社会部の『ゲバ棒と青春』にも全党派がそうした流用をしているという証拠は書いてない。これ以外に、証言が二つ載っているが、一つはそういう事例をいくつも知っているという大学教授の証言であって、すべての組織がそうであったという根拠ではなんらない。もう一つはブント・社学同であって、これをもって他の組織もそうであったということにはならないのは自明である。

 小熊は2000年代の自治会費にまで言及しているから当然ぼくにも発言する権利があると思うが、ぼくがかかわった全学連において党派に流用しているという事実はまったくなかった。当時、『イミダス』や『知恵蔵』など時事百科事典が小熊とまったく同じような「流用」という記述をしていたので、全学連は過去の役員や資料に当たって調べたがそういう事実はなく、出版社に全学連としてこうした問題での公開質問をしたことがある。すると出版社側から返書があり、翌年から関連記述がすべて削除された。

 これはたとえば「セクトが自治会を支配している」というたぐいの言説を批判するのとはわけがちがう。それは政治的見解の相違ということになるだろう。しかし「流用」しているかどうかは単純な事実の問題である。名前をあげた党派がすべて、自治会費を党派に流用をしているという挙証責任は小熊の側にある。それが果たせなければ、記述を直すべきではないのか。



連合赤軍事件についての評価は一定賛成



 小熊は連合赤軍事件に過剰な意味づけをしようとする神話を解体する。

〈いわば彼ら〔運動経験者——引用者注〕は、連合赤軍事件に、自分が見たいものを見たといえる。小阪修平や小中陽太郎が、連合赤軍事件の本質は党組織の問題だとし、全共闘やベ平連はそれとは対極的存在だとして、自分が参加した運動をある意味で正当化(そのような意識がなかったとしても)しているのは、その一例である〉(下p.670)

〈連合赤軍事件は、追いつめられた非合法集団のリーダーが下部メンバーに疑惑をかけて処分していたという点では、偶然ではなく普遍的な現象である。……あのような状況と立場に置かれれば、その人間のもっている特徴が醜悪な形で露呈してしまうということだったと思われる。/だがそれは「〈理想〉を目指す社会運動」が陥る隘路などという問題とは、無関係だと筆者は考える。ましてや、連合赤軍事件の総括ができないかぎり、安易に社会運動をおこすべきではないなどという発想は実りがない。/その意味で筆者は、「連合赤軍事件の原因は何だったのかとか、無理に総括しようとしても、ろくな結論なんか出てきませんよ。何もでてこない」という青砥幹夫が二〇〇三年に述べた意見に賛成である。感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜けだすべきである〉(下p.672〜673)

〈連合赤軍事件の実態は、アジトの発覚と逮捕を恐れた二〇人前後の非合法集団の幹部たちが、下部メンバーの逃亡や反乱を恐れて緊縛し死なせたという小事件である〉(下p.837)

 ぼくは『レッド』1巻の感想を語るなかで、次のようにのべた。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/red.html

〈ぼくは、連合赤軍事件は、最も大きな背景に、新左翼的な「実力闘争」の高揚を共通体験してしまったことがあげられると思っている。それが「実力」によって現代日本で革命ができるという誤解を根底で支え続けた。……いったんここにのめりこむと、非常に重い刑罰の対象になる非合法活動となる。そうなれば、坂口でさえ重圧を感じたように、たえず自分の逮捕や組織の壊滅をおそれるようになり、その恐怖心を根幹にして私刑が正当化される。抜ければ警察にしゃべるだろうという恐怖があるので、もはやがんじがらめになっていく。後戻りできないのである。/これが全体の構造である〉

 小熊の評価に少し似ているが、現代日本で当時の新左翼的な非合法武装闘争にのめりこむと、そこに定向進化していってしまう組織が当然生まれるというのがぼくの評価だ。そのような意味で小熊が〈普遍的な現象〉だということには賛成できる。

 小熊は「あつものに懲りてなますを吹く」なんてナンセンスといっているが、非合法武装闘争なんか現代日本でするもんじゃない、ということくらいは教訓にしていいんじゃないかと思う。(ちなみにことわっておけば、ぼくは合法という所与の枠組みの奴隷となる「合法主義者」ではない)





小熊英二
『1968 上 若者たちの叛乱とその背景』
『1968 下 叛乱の終焉とその遺産』
新曜社
2009.9.7感想記
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