30年後の日本


第10回 フリーターとマルクス主義



人力検索でスゲーよく見る言い回し

 シナリオBに行く前に、もういっちょう。

  • 「甘いと思います。では、あなたは報酬に見合う分だけ会社に貢献しているといえるでしょうか?」
  • 「残業は時間内に仕事を処理できない無能さの現れだといえます。残業代残業代と騒ぐのも結構ですが、まず自分がそこまでスキルをあげることを考えるべきではありませんか」
  • 「今どき有休は使えなくて当たり前。どの企業も厳しい競争の中にいることをお忘れなく。社員が好き勝手に有休をとるような会社は長くない」
  • 「『派遣の競合面接を禁止したい』? バカですか、あんた。じゃあ聞きますが、あんたは商品を買う前に中身を見させてくれって言わないの? 調べるに決まってんでしょ。いい加減にしろ」
  • 「昼休みのミーティングがイヤだから上司に文句を言いたいって……仕事でしょ? そんなことで文句を言う人は早く辞めた方が会社のためになります。協調性のない人は社会人とは言えませんよ〜♪」
  • 「法律なんか守っていたら中小企業は全部倒産しますよ。常識です」


 人力検索の回答などでこういう物言いをけっこう見かける。
 いや、上記のは引用じゃなくて、自分の経験のなかのものをぼんやりとまとめて創作してみたものなんだが、いかにもありそうな回答に仕上げることができたので、自分で書いていて腹が立ってきた(アホですが)。

 この「甘い」「〜に見合う報酬」「会社に貢献」「仕事でしょ」「会社がつぶれる」という物言いが、まずげんなりする。本当に資本の側の論理そのものだな。自分で喜んで奴隷になっているという感じがみなぎっている。

 さらに、厳しいんだから現行ルールを破って当たり前だと説教する傲慢さも、こういう手合いのメンタリティだ。
 会社側から労働者へオファーには、「常識」だの「社会人」だのといった、厳しいモラルを説くくせに、労働者から会社への要請については「そんなに甘くない」といって平気でルール破りを言う。
 市場は「自由」な競争社会ではない。最低限のルールを守ってはじめてスタートラインにつく資格があるのだ。ルールを守れない企業は、一刻も早く市場から退場せよ。




終身雇用制社会ではリアリティがあったが

 企業環境の厳しさを説いて会社と社員は運命共同体、家族のようなものだというイデオロギーに包み込む――このやり方は確かに戦後日本資本主義が愛用してきたものだ。長い歴史のなかで、ある種のタイプの人々の口によく馴染んできた言い回しである。
 そういう世界像のなかでは、労基法などの法規を厳格に守るよう要求することは、企業共同体、「会社という家族」を壊す「野暮」でしかなかった。家族や友だちのなかで法律うんぬんを言い出す「ギスギスした感じ」を想像してみてほしい。しっとりと湿った感情で結び合わされている関係のなかに、非常にドライな「法律」「権利」「ルール」を持ち込むことの違和感。
 そうしてこのような企業共同体、家族主義経営の感情、すなわち企業ナショナリズムともいうべき感情は、「成長によってパイをふやせば会社も繁栄し、自分も繁栄する」という感覚に支えられてきた。会社のなかにある諸制度は、このイデオロギーを支えるに十分な“根拠”をつくり出してきたのである。

「『日本的労使関係』の“三種の神器”といわれている、終身雇用制―年功制―企業別組合のいずれもが、またそのシステム全体が、何よりもこの企業ナショナリズムの喚起装置なのである」(渡辺治『企業支配と国家』青木書店、p.34) 

 ゆえに、その時代に、冒頭のような謂いをすることには、それなりの“もっともらしさ”があったかもしれない。
 会社という家族のもとでみんなが「和をもって尊しとなす」であれば利益もあがり、それが分配され、みんながハッピー――だから「豊かになる」うえでは、「労働者を守る」とかいう労基法の遵守を組合いに入って叫ぶよりも、そんなルールなんか無視して会社のために死ぬほど働く方がよほどリアリティがあった。

 野村総研『2010年の日本』では、「労働の面から見ると、戦後の歴史は、雇用社会化の歴史だったと言える」(p.203)と指摘し、その社会の特徴を「会社主体」「会社主義」「上意下達」「滅私奉公」だとのべたことは、上記のことに対応していると言えるだろう。

 だが、これまで見てきたように、日本資本主義は、正社員を軸とした「終身雇用制―年功制―企業別組合」という「幸福」な家族主義的経営を自ら解体した。


ベビーブーマー・リタイアメント―少子高齢化社会の政策対応 財界の号令によって1億総フリーター(非正規雇用)ともいうべき雇用の流動化が始まっている。先にぼくは1995年の日経連レポートをあげたが、2004年に出た、やはり野村総研(中村実・安田純子)の『ベビーブーマー・リタイアメント 少子高齢化社会の政策対応』(発行:野村総合研究所)のなかで、「近未来の人材構成」を予想している図がある(同書p.157より引用、図)。

(1) コア社員 経済幹部および幹部候補生、中核技術者およびそれに準じる技術者、熟練工。忠誠に対する処遇はインセンティブ型報酬体系。
(2) 営業職 処遇は成果主義による報酬体系。人材の流動化が進む可能性が高い。
(3) アウトソーサー 社内勘定系・情報系システムの構築、総務・福利厚生など、企業にとって中核業務でない業務を担う。下請け会社も広義のアウトソーサー。
(4) 派遣会社社員 一般事務、システムのメンテナンス、秘書、警備など。
(5) 自由契約社員 中核業務を担う、低コストで雇用調整が可能な人員。
(6) インディペンデント・コンストラクター (5)のなかでも特に専門性が高く、企業依存度の低い、独立した人材(税理士、会計士、弁護士に代表される専門職)。現在、音楽・広告業界で多くのインディペンデント・コンストラクターが活躍しているが、今後は金融、住宅、サービス業にも増えていくだろう。
原注:(3)(4)(5)の区分けは、徐々に曖昧になっていくと思われる。
  
 (1)のみが成果主義のもとで苦しむ正社員となり、(6)が専門職、(2)(4)(5)が非正規雇用または「個人事業者」である。(3)は社外に頼むものなわけだが、その会社でまた同じような区分があるのだし、原注のように「区分けは、徐々に曖昧になっていく」とあるように、非正規雇用との境目はない。

 結局、2004年においても、財界が予想している「近未来雇用図」は、日経連報告が大まかに描いたものを精密にしているだけである。

 終身雇用制が解体された社会、野村総研が「起業社会」と名付ける社会で予想されているメンタリティや経済文化は、「知の創造のために人間の個性や独創性が非常に大事になるので、組織重視よりも人間重視になる」(『2010年の日本』p.209)そうである。




「フリーエージェント社会」

 『ベビーブーマー・リタイアメント』では、「組織に縛られたオーガニゼーションマン」との対比で、ダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来』について紹介している。

「米国をみると、現在最も多くの従業員を抱える企業は、IBMでもGMでもなく、人材派遣会社のマンパワーである。これを大企業のコスト削減によるものと捉えるべきではない。一九八〇年以降の米国労働市場の変化を象徴的に表したものがマンパワーなのである」(p.287)

「このフリーエージェントという言葉は、米国の代理法の考え方を反映している。サラリーマンは、会社のために行動する会社の代理人、つまりエージェンシーである。一方、フリーエージェントとは、会社の代理人ではなく、自由に行動する、組織から独立した個人事業者を意味する」(p.287〜288)

 同書によれば、米国では3300万人、働く人の4人に1人が「フリーエージェント」だという。

「雇用の対象は、オーガニゼーションマンからフリーエージェントへと変わり始めた。組織ではなく、個人が再び経済の基本単位となりつつある。キャリアを徐々に積み重ねていくフリーエージェントは、ソフトウェア開発などに数多く見られる。/フリーエージェントとは、ベンチャー企業のオーナーとは異なり、ITの進歩、大企業のリストラという状況下で、事業を小規模のままに保って仕事と家庭の境界線を曖昧にする、組織人ではなく独立自営業者として自由に生きる人々である」(p.288〜289)

 「自由に生きる人々」! まさに「フリーター」である。

 これを読んで、実態はともかく、こうした社会のありように惹きつけられる人がいても不思議ではない。そのことは「シナリオB」でも考えていきたいのだが、いずれにせよ、「家族主義的経営」「企業共同体」という発想は、資本の側自身が放棄しており、「独立した個人」が「自由」な契約を結びあう社会だというイメージがここでは喚起されている。
 それはウェットな関係からドライなものへの転換だということもできる。仮に「起業社会」「フリーエージェント社会」が良好なパートナーシップやチームワークに支えられるにしても、その根底にはアメリカ流のドライな契約関係が横たわり、その上にチームワークやパートナーシップが花咲くという構造になることは忘れてはならない。



「フリーターこそ“終身雇用”」!?

 フリーター(フリーーターの定義は前回参照)を「フリーエージェント」と言い換える、度外れた美化はすでに、財界筋の人間によって行われている。

 たとえば日経新聞2005年10月21日付に掲載された人材派遣業のパソナ社長・南部靖之のインタビューがそれだ。

 「フリーターこそ“終身雇用”」というのが、このインタビューの見出しである。なぜフリーターが「終身雇用」なのか。南部は次のようにのべる。

「正社員が安定した雇用で一番常識的な働き方という考え方は、二十年後にはひょっとしたら非常識になっているかもしれない。フリーターの存在は時代の先を行っている」
「ワークシェアリングやアウトソーシングがもっと進むと、会社に人が雇われるという常識が崩れる。人がいるところに会社や仕事がやって来る。突き詰めて言えば雇用という概念がなくなる」
「映画を制作するときのように、決まった期間だけ人やお金が集まり、終わったらぱっと解散する。僕はそれを『オーディション型雇用』と呼んでいる」

 これだけだ。

 おそらくこの記事をはじめて読んだ人には、南部がなぜフリーターを「終身雇用」だなどとするパラドックスを述べているのかまったく理解できないだろう。どこにもそのロジックが出てこないのである。ここにあるのは、終身雇用制の解体と、都合のいいときに人を集め、不要になれば首を切るという、資本の側のヨダレまみれの欲望だけだ。
 南部はうわ言のように「フリーターのような立場なら本当の意味で一生涯の終身雇用が可能だ」「フリーターが安定した働き方になる」とくり返すだけである。

 しかし、「フリーエージェント社会」や「雇用社会から起業社会へ」などという話を思い出すと、おぼろげながらこの脈絡はつかめる。

すべての人的資源を一つの企業に投資することは、全財産をただ一つの会社の株式に投資することと同様に愚かなことであり、分散投資は、生き残りの条件となりつつある。収入源を所属している会社からの給与に頼るのではなく、フリーエージェントとなって、複数の顧客から収入を得ることは、安定を得るための近道なのである。以上がピンク氏の見解である」(前掲『ベビーブーマー・リタイアメント』p.291)



竹中平蔵公式ウェブが説く「フリーター自民党革命」

 この南部のフリーター賛美にとびついたのが、竹中平蔵である。いや、正確には竹中チルドレンである竹中スタッフらしいのだが、いずれにせよ、竹中の公式ウェブで、この南部のインタビューについて次のように言及されている。

「フリーターこそ終身雇用!!雇用概念の消滅!!

これこそ、一般常識を180度ひっくりかえす革命的発想といえるでしょう。これなら確かに、フリーターが自民党を支持してもおかしくない。

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』の『ルンペン・プロレタリアート階級』観的偏見の遺伝子を引継いだ『フリーター=負け組』論で思考停止に陥りつつ、自らは規制やみえざる障壁で身分を守られ実力以上の生活水準を謳歌している『労働貴族』は、『雇用概念の消滅』という表現におののくことでしょう!

近い将来、新しい自民党は以下のような『宣言』(DAS MANIFEST)を出す日が来るかもしれません。

フリーターは、「夢」以外に失うものを持たない。彼らが獲得するものは「成功」である。全国のフリーターよ、自由民主党のもとに結集しよう!』」

 05年の総選挙大勝、そこでフリーターなどが自民党を支持したという報道をうけ、マルクスやエンゲルスへの憎悪まで動員して、目もあてられないほどのはしゃぎようだ(「団結」はさせずに、「結集」させるところがまた香ばしい)。

 「ルンペン・プロレタリアート、旧社会の最下層のこの受動的な腐敗物は、プロレタリア革命によって、ときどき運動に投げ入れられが、彼らの生活状態全体から見ると、反動的策動のために買収されるほうにいっそう乗り気であろう」(新日本版p.58)という記述が『共産党宣言』にはある。これに竹中ウェブはとびついたのであろう。



フリーターは「ルンペン・プロレタリア」ではない

 ちなみに、言っておきたい。マルクスが想定した「ルンペン・プロレタリアート(ルン・プロ)」とフリーターは重ならない。

 マルクスが本格的に「ルンペン・プロレタリアート」を論じるのはフランス三部作、主に『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』である。

「なんで生計を立てているのかも、どんな素性の人間かもはっきりしない、おちぶれた放蕩者とか、ぐれて冒険的な生活を送っているブルジョアの子弟とかのほかに、浮浪人、兵隊くずれ、前科者、逃亡した漕役囚、ぺてん師、香具師、ラッツァローニ、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の亭主、荷かつぎ人夫、文士、風琴ひき、くず屋、鋏とぎ屋、鋳かけ屋、こじき、要するに、はっきりしない、ばらばらになった、浮草のようにただよっている大衆」(大月版p.89〜90)

 ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)は、これを自派の将軍をつけて町中で組織する。「遊動警備隊として組織されたルンペン・プロレタリアート」(同p.28)とはこの意味である。

 ナポレオン三世よりも少し前のことを書いた、マルクスの『フランスにおける階級闘争』でも、やはり「ルン・プロ」がプロレタリアートに対抗するために軍事的に組織される様子が描かれる。

「臨時政府は二四大隊の遊動警備隊を編成した。各大隊は一〇〇〇名ずつで、一五歳から二〇歳までの青年からなっていた。彼らの大部分はルンペン・プロレタリアートに属していた。それはすべての大都会で工業プロレタリアートとは截然と区別される集団であり、泥棒やあらゆる種類の犯罪者の供給源となり、社会の落ち屑をひろって生活し、定職をもたない人間、浮浪者、宿なしの無籍者であって、その出身民族の文化程度によるちがいはあっても、そのラザローニ的性格をけっして捨てない連中である。そして臨時政府が募集した若い年ごろでは、それこそどうにでもなるものであって、もっとも偉大な英雄的行為やもっとも熱狂的な犠牲的行為も、またもっとも下劣な山賊の悪業も、もっともきたならしい収賄行為もやりかねない」(大月版p.57〜58)

 竹中ウェブは、「最下層」という点や、大多数のプロレタリアに対抗する尖兵という点で「ルン・プロ」=フリーターだと見たのかもしれないが、社会状況も階級構成もまったく異なる現代にこの概念がそのままあてはまるような社会階層は、現代日本では見いだしにくい。

 あえてこの階層にもっとも近いイメージを日本で探せば、暴力団・ヤクザ・チンピラ・職業的右翼、その予備軍たる暴走族ということになる

 現代日本では労働運動が支配をおびやかすほどの脅威となる高揚をしめさないために、こうした対抗手段として使われる機会はあまりないが、日本でも三池闘争をはじめとする炭坑闘争や労働争議、安保反対のデモに襲いかかるためにしばしば動員されたのは暴力団ややくざだった。そして、それは自民党へつながる保守政治によってしばしば利用されてきた。「ルン・プロ」はいつでも自民党の味方である。
 これらの供給源は、極貧の果ての生活荒廃であったり、「ぐれて冒険的な生活を送っているブルジョアの子弟」であったりする。

 マルクスがルイ・ボナパルトを「王侯出のルンペン・プロレタリア」(『一八日』p.102)だとのべたのは、まさに、「王侯出のヤクザ」だというニュアンスに解すれば、すっきりする。「あたえる、貸す。身分が高かろうと下賤であろうと、ルンペン・プロレタリアートの財政学はこれに尽きる」(同p.80)というように、マルクスが言いたかったのは「金のために何でもする集団」というニュアンスだが、そういえる集団は現代日本では暴力団しかない。

 フリーターを「ルンペン・プロレタリアート」だと言ってみせ、「そいつらはブルジョアジーに味方してくれるイイ奴らなんだ!」とはしゃいでみせる竹中ウェブの立場をみると、ブルジョアジーというものは、ルイ・ボナパルトの時代から変わっていないのかと思う。



フリーターはまさにプロレタリアートである

 むしろ、フリーターは、その意識がどうであろうと、マルクスがイメージした「労働者」にかなり近づいてきている。

 『2010年の日本』や『ベビーブーマー・リタイアメント』でくり返される「自由な働き方」という言葉は、フリーターの「自由さ」と重なる。マルクスは、資本が生まれるための歴史的条件として「労働者(プロレタリアート)」の発生について、次のように書いた。

「貨幣を資本に転化させるためには、貨幣所有者は商品市場で自由な労働者を見いださなければならない。ここで、自由な、と言うのは、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分するという意味で自由な、他面では、売るべき他の商品をもっておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいの物から解き放たれて自由であるという意味で自由な、この二重の意味でのそれである」(『資本論』第1部第4章、原183ページ)

自由な労働者とは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分に属するのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らに属さず、彼らはむしろ生産手段から自由である、すなわち引き離されてもいるという二重の意味でそうなのである」(同第1部第24章、原742ページ)

「それ〔相対的過剰人口〕は、あたかも資本が自分自身の費用によって飼育でもしたかのようにまったく絶対的に資本に所属する、自由に処分できる、産業予備軍を形成する。それは、資本の変転する増殖欲求のために、現実的人口増加の制限にかかわりなくいつでも使える搾取可能な人間材料をつくり出す」(同第1部第23章、原661ページ)

 そして労働者をこう形容した。

鳥のように自由なプロレタリアート」(同前、原761ページ)


 20世紀をつうじて、労働運動の高揚によって、労働者階級は、労働者を守る労働法、年金・医療をはじめとする社会保障、そしてついには「完全雇用」をうたい文句にする「福祉国家」(修正資本主義国家、ケインズ主義国家、国家独占資本主義)を生み出すにいたった。

 しかし、新自由主義のもとで、これらの成果物に総攻撃がしかけられるなかで、マルクスがイメージしたような「プロレタリアート」が再び姿を現すことになった。
 それがフリーター、非正規雇用である。(といっても、現時点では単純な回帰ではない。社会保障制度は攻撃をうけたとはいえ、まだかなり残っているといえるし、マルクスの時代にはなかった労働法の体系も健在である。ケインズ主義的な国家も、基底のところではワークしている。)

 「鉄鎖のほかに失うものは何もない」という『共産党宣言』の有名な結びの章句が思い出される。




フリーターはゴルゴ13のようになる

 だとすれば。

 ここで冒頭の問題にもどる。
 フリーターがバラ色のフリーエージェントになるかどうかはおいておいて、少なくとも現在、フリーターは雇用社会の枠の外にいるわけだし、「オーガニゼーションマン」でもなんでもない。ましてや、「企業共同体」や「企業家族の一員」でもない。企業が育てることも想定されていない、ただ安く搾り取るためだけの使い捨ての奴隷である。

 だとすれば、フリーターは、「企業が自分を守ってくれない」以上、報酬に見合う働きだの、会社への貢献だのといったことに義理を感じるいわれは何もない。そのような「ウェット」な言い回しとフリーターを結ぶものは客観的には何もないのである。
 頼るべきものは、もはや労基法をはじめとする法律とルール、そしてその法律にもとづいて組織される労働組合しかない。

 フリーターは、ゴルゴ13のように「用件を聞こうか…」と現れ、ドライに契約関係を結び、粛々と契約通りの業務につき、クールに契約を終える。それは野村総研が夢想する、「起業社会」「フリーエージェント社会」のようなイメージとも重なるだろう。

 そこでは「契約」と「ルール」が全てである
 これまでの正社員のように、モノを言ったために出世に響くということも考えなくていい。「企業共同体」「企業は家族」という発想も不要である。

 残業代のつかない残業は1秒もしない。
 有休は自由に法律規定めいっぱいにとる。
 求人票や労働条件通知書に書いていないことは一切しない。




フリーターを守るものは企業ではなく法である

 もちろん、ルールどおりにしたといって、フリーター(非正規雇用)の生活が根本的によくなるというわけではない。
 しかし、企業側はフリーターを徹底した安いコストだとみなし、使い捨てとわかっているから無法をも押しつける。この「無法」の部分を現行法にそって正させるだけでも、生活の一定部分を改善させることができる

 フリーターは、非正規で身分が不安定あるがゆえに弱味につけこまれたり、法について知らないのをいいことに無法を押しつけられたりすることが少なくない。

「店の皿を割ったのでお前の給料からさっぴく」
「お前は使えないので、明日から来なくていい」
「お前はノルマを達成できなかったのでクビ」
「高校生なので時給は500円」
「見習い期間は1週間。その間は賃金は払わない」
「残業代は2時間まで。後は払わない」
「朝30分早く出て掃除をするのがマナー(無給)」
「遅刻したら10分ごとに罰金5000円」
「会社が苦しく来月から給料は下げますのでよろしく」
「昼休み、職場のミーティングをするので出て下さい」
「バイトに有休なんかあるわけないじゃない」
「バイトが厚生年金に入れるわけないじゃない」
「派遣先の会社に事前に行ってあいさつしてください」

 これらはすべて法律違反である
 これを法律通りにするだけでも、フリーターの生活はかなり変わってくるだろう。

 ぼくもサヨの一人として、地域で生活や労働の相談にのったりするのだが、けっこうよく聞く話でひでぇなあと思うのが、賃金未払い。
 市などがかかわっている、でかいショッピングモールに出ている「ワゴン」で売り子をしているねーちゃんたち。3か月ほとんど賃金が払われない。それでは暮らしていけないので、やめていく。そうすると、また次の新しい人がやってきて……と次々と「補給」され、使用者側はバカみたいに安いコストで続けられるのだ。これぞまさに「使い捨て」。
 「試用期間」と称して、同じようなことをやっている会社もある。



労働組合を活用することがリアリティをもつ

 とくに、「労働組合」をフリーターが活用することは効果がある。

 「使い捨て」にされるだけのフリーター、失うものは「鉄鎖」以外に何も持たないフリーターにとっては、いわばたたかわなければ、「使い捨てられ損」なのであって、たたかえばたたかうだけ、トクになる。ある県の労政事務所(まあ、労働トラブルの相談所だ)の話をきいたことがあるが、「残業代が払われない」「突然クビになったがどうしたらいい」などの相談にまじって、「自分たちで労働組合をつくりたいが、何から始めればいいかわからない」という相談があったそうだ。

 なかなかあっぱれな相談だと思うが、そのようなことをしなくても、すでにある労働組合を活用すればいい。「どういう職場にいても、フリーターが一人でも入れる労働組合」というのが、けっこういろんなところにある。NHK「おはようジャーナル」や、大資本のデルに勝ったというので話題を読んだのが「首都圏青年ユニオン」である。

 ぼくが連載をしている「しんぶん赤旗」でその活動が紹介されていた(2005年11月7日付)。
 これまで労働組合とかそういったたぐいのものになんの縁もゆかりもなかった、ある28才の男性。東京・台東区にある和菓子の老舗につとめているのだが、未払いの残業代が多く、有休もなかなかとれない。ベテラン店員からも嫌がらせをうけ、「あなたにはもう残業代は出ないから。社長にもいってある」と言われたという。

 それで首都圏青年ユニオンに入って交渉した。

 組合に入ると、会社側はその組合と交渉する義務が生じる。社長室で交渉、というのだから、なかなかに緊張感が伝わってくる。「毎日顔を合わせている会社の役員を相手にする交渉で緊張したといいます」と記事には書かれている。

 その結果、全従業員が雇用保険に加入。未払い残業代を組合員に支払うとする協定書が結ばれ過去2年分、合計300万円が支払われた。その後もきちんと残業分は払われるようになったという。現在、賃上げを求めて交渉しているらしい。



99%解決できる

 この労組について、共産党議員が国会でとりあげていた議事録を興味深く読んだ。

「首都圏の青年ユニオンの話では、フリーターの青年からの相談内容というのは、労働基準法を初めとして労働安全衛生法など現行法の違反がほとんどなので、勇気を出して、職場でおかしいことはおかしいということで会社と団体の交渉をすれば、残業代を三百万円払わせることができたという台東区の青年の例等を初めとして、その大部分、九割以上、九九%が解決できるという話でありました。青年労働者自身が労働法の知識がないばかりか、団交の相手である会社側も、八割ぐらいが労働法の知識を十分持っていないということもあるということでありました」(笠井亮、衆院予算委第4分科会、2006年3月1日)

 無法の巣であるフリーターの労働現場では、相手が無法であるがゆえに、ルールを味方につけることによって、「99%解決できる」というのだ。
 もちろん、法律で武装した企業は一筋縄ではいかない。ぼくが聞いた労働相談でも、相手が分厚い就業規則をもちだして、労働者をがんじがらめにしている、というようなところもある。
 しかし、それでも、たたかうことのほうが、はるかに有利だ。先のケースで言えば、たたかわなければ300万円はドブに捨てられたのである。

 シナリオBの話の前にこんなことを書くと、「フリーター=プロレタリアート=革命勢力」という話をこいつはするのではないかと思われるかもしれないが、いやぁさすがに、そゆことはちょいとね。それは性急すぎる。



「正社員型労組」から脱皮を

 現在まだ正社員は被雇用者全体の3分の2をしめている。
 しかし、財界の戦略方向が圧倒的多数を非正規雇用にしようとしているとき、「労働組合」という道具がふたたびリサイクルされるのではないかということである。

 戦後長い間、労働組合は「正社員」のもので、企業別に組織されていた。狭い職場のなかで正社員をどう組織するかが組合の課題であり、資本はそれを組織させない支配を組み立てることが至上命題だった。そして、資本の側は、労働者にたいし、労働者自身の昇進と企業の成長を組み合わせることで「生活の向上」をはかる夢をみさせることに一定成功し、労働者は、欧州のように組合によって生活向上をはかるということに、リアリティが感じられなくなっていた。このなかで労働組合組織率は低下をつづけ、現在2割を切るところまで来た。

 しかし、その条件が失われた今、組合という道具が再び見直されていいように思う。

 正社員タイプの労働組合運動は、新入社員を待っていればよかった。そしてその人たちはずっとその会社にいたのだ。しかし、非正規はちがう。ある時期がくればいなくなってしまう人が多い。

 会社で労働運動の旗をかかげてがんばるオールド・ボルシェヴィキの話をきくと、非正規の人はまことに職場のなかでは異質で、ある時期までいて、ある時期にはいなくなっているというかんじで、従来の感覚からすると、労働組合の対象からはおよそ遠いというのである。



いま非正規の人たちはどこで労働組合に出会うのか?

 非正規雇用の人々は、どこで労働組合に接近しているのだろうか?

 3年で組合員が10倍になったある労働組合の話をきかせてもらったことがあるけども、そこは駅頭でずっと宣伝をしていたという。「あなたにはこんな権利があります」といって、残業代の未払いや派遣のさいの禁止事項などのビラを、雨の日も風の日もまいて、ハンドマイクで宣伝し続けたという。
 そうすると、「いつも宣伝しているアレ」ということで、心にとめる人が出てきて、けっこう若い非正規の労働者が相談にきたりするようになるのだという。
 そして解決すると、それがクチコミの評判になって……というふうらしい。

 「解決するといなくなってしまう」という労組側の悩みもよく聞くが、ここの労組は3年間に辞めた人は3人しかいないという(それもすべて定年か、正社員化による転籍)。

 こうした経験は、戦後の「正社員型」労働運動がまるで知らなかったやり方である。
 非正規雇用の人たちが労働組合を活用すること、労組の側がそれにこたえるということは、実はようやく始まったばかりなのである。まだそれは挑戦されていない分野だ。



労組とサヨはもともとの強みを生かすとき

 もともとサヨの強みとは、テレビや大新聞が流す情報では得られない、生々しくリアルな情報と要求をとりあげることによって、地を這うように草の根で結びつくことにあった。
 コンベアの上を「ビラが流れていく」というプロレタリア文学みたいな状況が、血が沸き上がるほど興奮する状況であったのは、そこには会社やマスコミ、あるいは権力が伏せている生々しいことが書かれているからなのだ。しかし、ビラに書かれていることが紋きりになったり、リアリティを失えば、その興奮はなくなってしまう。(この機能は、現在インターネットの中でおこなわれている。2chはそのだらしない劣化コピーといえなくもない)。

 一人ひとりのレベルで、法律やルール、権利をしらせ、労働組合の活用を呼びかけること――このもっとも愚直な方法を倦まず弛まずやる以外に、この分野で労働組合運動やサヨが蘇生する道はない。そして、それに血道をあげるべき歴史の地点に、今いるというわけである。



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