30年後の日本


第7回 ブルジョアジーの秘かな憎しみ

野村総合研究所 山田澤明+齋藤義明+神尾文彦+井上泰一
『2010年の日本 雇用社会から起業社会へ』



動物園のサルにたとえられる若者

2010年の日本―雇用社会から起業社会へ 先にみたように、フリーターやニートというものへの苛立ち、ある意味で「憎悪」にも似た感情を隠さないのがこの本、野村総研の『2010年の日本』(東洋経済新報社)である。
 “飽食の時代に、フリーターやニートは、やる気を失いダメになっている”――この若年観がこの本には抜き難い。

 そして、若者は、動物園のサルにたとえられていく。

「〔旭山動物園を再生した〕小菅さんによれば、餌を皿に載せて動物に与えれば三〇分もしないうちに食べてしまい、後はやることがないから寝ているだけになる。これは一見親切に見えて、実は動物にとって不幸なのだという。……〔中略〕……おそらく餌を皿に載せて差し出し、あっという間に食べ終わってしまう食事は、観客がつまらないだけでなく、動物自身にとってもつまらないものだったのではないか。そうやって楽をしているうちに、野生の能力は失われていき、寝てばっかりいるダラダラした存在に成り下がっていく。このことは豊かさの中で、無気力に陥る若者が増えたことと無縁とは思えない」(p.79)

「さて『能力展示』とは動物園だけに限った話なのだろうか。動物園と動物の関係は、会社と社員の関係や、社会と個人の関係にもダブるものがある。すなわち、安易に糧が与えられてしまえば生きる能力はしぼんでいく。生活の上で依存できるパラサイトな環境があれば、それ以上のことを敢えてしようとする意欲と忍耐力が失われていく」(p.81)

「フリーターはだらしがなく、ゴミを散らかしっ放しにするからだ」「そうしたフリーターの習性」(p.92)

 くり返しになってしまうが、財界は苛酷な労働力の「流動化」と徹底した差別化・グループ化を戦略とし、これまでのような正社員主義・終身雇用制を解体した。
 若者が「使え」なかったり、世間知らずだったりすることは、昔だって今だって、そう変わるものではない。高度成長期には、高卒者にも大卒者にも一応「正社員」という道が開かれ、将来設計が成り立ち、そのなかで教育・訓練を受けてきたのである。
 すなわち、社員教育=社会人教育のコストを企業が支払ってきた。
 そのコストを切り離し、いいように「使い捨て」する存在にしてきた側の責任は不問にし、こういうことを言い募る「シンクタンク」とやらの「無責任」さこそ問われなくてはならない。

 それを、「楽をして」「豊かさの中で」「寝てばっかりいるダラダラした存在」などということに怒りさえ覚える。著者たちはそのセリフを、業務請負という形態で携帯電話の組み立て工場で働いている「フリーター」たちの前で言ってみればいいだろう。



「クリーンな言語世界」

ゲーム理論を読みとく  「ゲーム理論」を批判したある本の冒頭で紹介されるエピソードだが、ある女性政治学者がアメリカのある大学の「防衛技術センター」で研修を受けることになった。彼女がそこにいるメンバーに感じた違和感を、その本はこう記している。

「彼らはほぼ全員が白人男性で、個人的に見れば、知的で上品でユーモアがわかる、魅力あふれる人々である。しかし、彼女は彼らの使う専門用語が気になって仕方がない。第一打(ミサイルによる奇襲攻撃)、対抗力(報復能力)、限定核戦争、クリーンな爆弾(放射能を撒き散らさない核爆弾)、外科的にクリーンな打撃(正確無比な爆撃)、付随的ダメージ(軍事目標の爆撃等で『付随的に』人命が失われる)、等々。ことばの背後には正視できないほどの現実――核による大量虐殺、黒焦げの死体、人々の苦痛――があるはずなのに、その現実のイメージから奇妙に隔離されたクリーンな言語世界に彼女は違和感を禁じえない。/このクリーンな言語世界は、抽象概念を使いこなしているという感覚と、核兵器の犠牲者ではなくその使用者であるという立場によって支えられている。日常語とこの防衛知識人たちのことばは、別の世界に属している」(竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく――戦略的理性の批判』ちくま新書p.7〜8)

 この本はそのあと、ゲーム理論という言語体系のもつ「合理性」が、その言語体系への違和感を抑圧してしまうという話をするのだが、ゲーム理論うんぬんの前に、この部分にはシンクタンク、とくに支配側のそれに身を置く者のメンタリティがよく出ていると思う。



旭山動物園の真意は?

「旭山動物園」革命―夢を実現した復活プロジェクト ちなみに、動物園を再生して日本一の集客をしたことで有名になった小菅正夫は、自著『〈旭山動物園〉革命――夢を実現した復活プロジェクト』(角川oneテーマ21)のなかで、たしかに「動物も人間も『自分らしさ』が大切」(小菅前掲書p.18〜19)というむねのことをのべ、「動物も人間も、『自分らしさ』を発揮できる環境はなにものにも替え難いということである。/おそらく企業などの人間組織でも同じことが言えるのではないか。会社でもそれぞれの人の得意分野によって仕事が割り振られ、イキイキした社員がたくさん活躍する会社になれば、組織が活性化する」(p.19)と書いている。
 しかし、それ「だけ」を小菅はストイックに述べているのだ。

 野村総研の本があげたようなサルの求餌行動の話も出てくるが、若者が豊かだからダメになるのだなどという安易な比喩をそこで小菅はおこなっていない。
 むしろ、展示の工夫について「これらは、私たちが『学術研究』をしっかりしているからこそ、成し遂げられたことである。独自の展示の仕方の裏には、こうした分厚い専門知識・研究の成果があるのだ」(小菅前掲書p.64)と書いたように、サルの展示にしても、動物の一つひとつのケースには動物の具体性に応じた緻密な方法があるのだ、ということを小菅は指摘した。この本においては、「能力の展開」という一般論以上の類推は、人間との間では、小菅はしていないはずである。

 小菅の本は、基本的に動物園の経営の革命の話と、動物の能力の話をきちんとわけている。
 ところが、野村総研のこの本はその両者が途中で渾然一体となっていくのだ。

 また、小菅の本のほうでは「動物の側になって考える」「動物から教えられる」などといった章をたて、動物にたいする謙虚さが伝わってくるのにたいして、野村総研の本のほうは、明らかに「自分」はそこにいないグループであるところの「人間」(たとえば「若者」)を動物に喩えるという傲慢さしか伝わってこない。



起業社会になるだって?

 野村総研の本は、「モチベーション」の問題を扱った後、「社会資本の創造的破壊」「ユビキタスネット社会の深化」を論じる。
 後者は『ウェブ進化論』みたいな話。
 前者は、高度成長期から現在までに造り続けた社会的インフラのストックが更新と重なり、2030年ごろには更新や維持管理の費用が捻出できなくなるという事態を描く。これまで整備=投資に集中してきた発想をあらため「ストック」という考え方をし、「減築」という方法や、官でも民でもない「公」が小規模な投資や管理をしていくという提案を行う。

 最終章は「雇用社会から起業社会へ」。この本のサブタイトルでもある。
 まー早い話、企業組織に雇われ養われている「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ♪」的発想をやめろよ! ということである。「『自分が自分のボスになる』という言い方があるが、会社に勤めていても新しい事業を始める、あるいは、組織の変革をすすめるという主体的な人が増える社会」「起業家精神(アントレプレナーシップ)がより発揮される社会」(p.204)に変わることを説教する。

 本書は「起業社会の担い手」という項をおこして「多様」(p.205)であるというその担い手のイメージを紹介する。

●新規に会社や事業を始めるベンチャー
●大企業でもM&Aで新しい事業を「起業」、またはダメ事業を「再生」
●非営利組織
●LLP(有限責任事業組合)という専門家の事業共同体
●独立の専門家

 労働力が3つのグループに振り分けられ、大多数が「ロボットと末端の労働力」に位置づけられる社会で、多数の人はどうやってこの「担い手」になれるというのだろうか?

 そのことに、著者たちはうすうす気づいているのであろう、「カリスマだけが起業家ではない」(p.235)「『起業社会』と言っても、すべての人が新しく会社を始めるというわけではない」(p.204)などと必死でいいわけする。

 しかし、「一般に起業家というと、何か特別の人ではないか、非常にとんがった人ではないかと思われているが、本当にそうなのか」(p.234)という問いをたてたところに書いてあることは、まったく要領をえない。せいぜいその項に書いてあることは、「必ずしもとんがった人が起業家に向いているというわけではない」(p.235)というだけのことである。

 結局それは「リーダーの要件」(p.235)についての話でしかないのだ。



「起業家」とは労働法の保護を失った労働者

 いや。

 資本の立場から国民にむけて「起業家精神」を吹き込むことには、資本にとっては意味がある。

 たとえば「個人請負」。
 2003年に名古屋で「軽急便」ビル爆破事件がおきたことことを覚えているだろうか。
 本来、「輸送労働者」として雇われ、「車」という生産手段も、会社が所有するものを使い、労働者はそこから労賃をうけとるというのが資本主義システムである。そのかわり、労働者は労働時間、労賃、解雇規制、社会保険など労働法によってさまざまな権利を保障され、保護されている。

 しかし、「個人請負」は、労働者に法外な金を出させて生産手段を使う「権利」を背負い込ませ、あらゆる労働者保護を解除する。労働者は「起業家」となり小さな資本家となる。ゆえに賃金を払ったり、労働時間を気にしたり、社会保険料をおさめる義務は会社にはいっさいなくなるのだ。もちろん「小さな資本家」になった「労働者」にとって、「もうけは自分のもの」のはずだが、そのような対価を得られる保障はどこにもない。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-21/15_01.html

 労働者と何も実態がかわらないのに、「個人事業主」という扱いにして社会保険や労働時間の義務をいっさい免れるなどという悪質なケースも後を断たない。

「益田さんが応募したK社は雇用契約ではなく、「個人請負」契約でした。K社は、B印刷の下請けで「製版点検」業務を請け負っていますが、B印刷の現場で働いているK社の社員は二人だけ。益田さんら大半が「個人請負」契約です。
 益田さんの時間給は千六百円。残業手当も一時金も有給休暇も退職金もなく、労災保険も社会保険も厚生年金も雇用保険にも加入していません。
 『休むときは、カレンダーに事前に記入して、早い者勝ち。休んだら無給なので、休みは取りません』と益田さん。
 とりわけ不満なのは、土日が出勤になっていること。しかも、日曜の朝七時ごろに会社に電話して、その日休めるかどうかが初めてわかります。
 年間約二千六百時間働き、年収四百二十万円。ところが、月約九千円の通勤定期代は自己負担。年間で十万円以上です。
 妻と三歳の息子との三人暮らし。『いつまで続けられるか自信がありません。右目がかすみ、痛みもあるけど医者にいくのが怖い。入院したら入院費が払えません』」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-05-28/05_01.html

 最近は「セールスレップ」という「働き方」も出てきた。
 これは「独立の営業マン」で、会社側は在庫をもつだけでよく、販売員にたいしては販売手数料を払えばよい。労働時間管理や賃金保障、社会保険義務からも解放されるのである。おまけに営業所をもつコストも削れる。セールスレップにとっては「自分の裁量で働ける」(長時間労働OK)、「成果に見合った報酬」(売れなければゼロ、契約も打ち切られる)という「メリット」があるのだ。
http://www.jri.co.jp/consul/cluster/data/seihanbutsu/column-01.html

 なるほど! これなら「1億総起業家」という話も夢ではない。ただし「悪夢」だがな!