30年後の日本


第8回 あえてシンクタンク的手法を嗤う

金子勝 イラスト/ヤマザキマリ
『2050年のわたしから 本当にリアルな日本の未来』



なぜシンクタンクの予想は大きく外れるのか

2050年のわたしから 「いまの世の中、『○○年に日本の財政はバランスする』とか「XX年に日本経済は何%の成長をしている』とか、たくさんのシミュレーションという『未来の予測』が出されます。多くの人々は、それを見せられると、『そうなるのかあ』と妙に納得してしまいます」(金子勝・ヤマザキマリ『2050年のわたしから』p.113)

 ところが、このシミュレーションは大きく外れるようになった、と金子は言う。

「たとえば、2004年の年金制度『改正』は、当面の年金財政を維持するために、政府は未来の予測をするシミュレーション結果を出しました。そこでは、保険料の引き上げと給付水準の切り下げを行うことが最も『現実的』に見えるように、もっともらしい数字が並んでいます。しかし、出生率、経済成長率、運用利回りなど、シミュレーションの前提になる『未来の予測数値』をちょっと動かしただけで、その結果は失敗の悪循環を招くことになってしまいます」(p.114)

 さらに、意図的に都合の悪い因果関係は省いている、と金子は批判する。

「保険料をただ引き上げてゆくだけだと、企業は保険料の拠出負担を負わないですむフリーターやパートなどの非正規雇用者をますます雇うようになり、それが年金の空洞化を進めて、やがて年金財政を破綻させてしまうかもしれません。しかし、そういう問題は意図的に外されています。そこにあるのは、ただの希望的観測です」(p.114〜115)

 データを複雑に組み合わせることで、逆に現実から遠のいていく。
 あるいは、現実を隠蔽するために、データを利用する。



極端さが生むリアリティ

 レーニンは『帝国主義論』の序文にこう書いた。

「社会生活の諸現象は非常に複雑なので、任意の命題を確証するのに事例や個々の資料をいつでも好きなだけ探し出すことができる」(フランス語およびドイツ語版への序文、大月p.12)

 まさに、シンクタンクでプロレタリアートをサルにたとえている人々は、「任意の命題を確証するのに事例や個々の資料をいつでも好きなだけ探し出」してきて、自らの都合のいい「現実」を描き出している。

 レーニンは、「この客観的立場を描きだすためには、たんなる事例や個々の資料をとりあげるべきではなく……〔中略〕……ぜひとも、すべての交戦列強と全世界の経済生活の基礎にかんする資料の総体をとりあげなければならない」(同)という方法をもちいて「資本主義世界経済の概観図」(同p.11)を描いた。

 金子が選んだ方法はそれとは逆だった。

「この本では、非常に簡単なシミュレーションで未来を予測することにしました。それは1990年代から今までのトレンドの平均をとって、その傾向を単純に未来に向かって延長するだけの簡単なものです。ところが、そうすると、とんでもない結果が導かれてしまいます」(金子・ヤマザキp.115)

●閣僚に占める世襲議員の割合:2020年に100%
●労働組合の組織率:2050年ごろに0%
●女性の平均寿命:2050年ごろに98歳
●フリーター比率:2050年に70%
●国民年金納付率:2030年ごろに0%……

 なるほど「とんでもない結果」である。
 しかし、この結果はある種のリアリティをもってくる。フリーターが若者のなかで7割、国民年金の納付率がゼロ……容易に想像がついてしまいそうな「未来像」がそこにないだろうか。

「この本来『ありそうもないシミュレーション』が、とても不気味な現実味を帯びてくるから不思議です。それは『日本のこわれ方』を暗示しているからかもしれません」(同p.115)



だれが「革命」をやるのか? という問題

 この本は、「鈴木高志」「岡野まゆみ」という1985年生まれの事実婚夫婦が2050年に65歳をむかえるという想定で書かれている。ちょっと行政っぽい「わかりやすさ」と「行儀のよさ」であるが、「岡野まゆみ」が「メガネ」で「ボブカット」で、少し萌えるので許す

 この本は、ぼくがとったのと同じように、現在の傾向を「延長線」的にのばしていくシナリオを描いたあと、「そうではない希望のシナリオ」を描く。

浪費なき成長―新しい経済の起点  これは内橋克人の『浪費なき成長』や『もうひとつの日本は可能だ』と似たようなアプローチである。そこに描かれている「希望のシナリオ」は内橋にも重なることが多い。
 『2050年のわたしから』で描かれる希望のシナリオは、憲法9条の活用、地方経済の内発的発展(自律的循環)、農業の蘇生、非正規雇用と正規雇用の格差是正……などといったもので、おおむね首肯できるものだ。これらについては、ぼくもあとでふれることになるだろう。

 ただ、「どうやってそれを変える力が生まれてくるのか?」――早い話が、革命をおこなう勢力はいったい誰なのか、という問題にはリアリティが乏しい。

 野村総研の描く「革命」――実質的には「反動的打開」であるが――では、担い手は「起業家」「起業家精神の持ち主」たちである。「ホリエモン」とか「村上ファンド」とか(笑)。
 これにたいして、金子の描く「革命」は、「静かな投票者の反乱」(p.78)というものである。そのモデルは韓国の汚職議員落選運動だ。あるいは「静かな消費者の反乱」(同)である。企業にたいする社会的規制力の発端を消費者運動に求めたのである。
 そして、平和の問題では、自民党の若手タカ派政権に対抗しての「ハト派連立政権」というのが、金子のシナリオである。

 うううむ、と唸ってしまう。
 とたんに抽象的になっているような気がする。
 「投票者や消費者として静かな反乱を起してきた人々は、これまで名前も姿もよく見えなかったが、彼らは徐々に表に出てくるようになった」(p.92)――この「名もなき民衆の革命」というイメージは金子の青春時代の革命像の焼き直しではなかろうか。そしてそのネガフィルムである高度成長期の大衆社会論、「顔のない大衆」というイメージにも通じている。

 ぼくの知り合いで若いサヨ女性が、ある権威あるサヨ学者が「これこれこういう女性の人権が尊重される社会を」という講演をしたのを聞いたあとで、「……いったいそれを誰がやんの……」とつぶやいた。
 彼女にしてみれば、「革命勢力」不在(不明)の革命論に不満があったのだ。
 どういう担い手がおこなうのかを明らかにしない、あるいはリアリティのない革命論では、やはり説得力に欠けてしまう、というわけである。

 果たしてそういう作業がぼくにできるかどうかわからないし、結句金子とそうかわらなくなるのかもしれないが、無謀ながらそれを後で「シナリオB」を描くときに考えてみたいのである。