小島アジコ『となりの801ちゃん』



 ぼくのリアル身近には「腐女子」がいない(except隠れ腐女子)。知っているのはネット上の腐女子のみなさんばかりだ。なので、腐女子がリアル生活においてどんな生態、思考様式をしているのかは、想像するしかない。

 以前、杉浦由美子の『オタク女子研究 腐女子思想大系』について感想を書いたことがあるけど、どうもネットレビューをみるととりわけ同じ陣営にいるはずの腐女子たちから集中砲火をあびている。
 アマゾンのレビューをみれば集中砲火のおおよその主張はわかるが、反論側の正確な腐女子像というものがあってそこからのズレや誤りを指摘するというものではない。誤記などをのぞけば、せいぜい「思想大系とか研究とかいうけどこれはエッセイである」「腐女子の一断面、あるいは一類型にすぎない」という「批判」であり、それはまあそうなのかなと思うし、そういうものと思えばそんなに目くじらたてんでも、と思う。ヤマダトモコが毎日新聞のコラムで今年(06年)を回顧したなかでこの本についてふれていたが、取り上げ方は表題が与える期待値との落差についてだった。

 ちょっと話がそれちまった。
 えーと、杉浦の話をしたのは、リアル腐女子の思想や生態というものをぼくは知らないし、杉浦の本も読んだがそれはあくまで腐女子のある特殊形態なのであって普遍的腐女子というものを知らない、ということを言いたかったため(いやヘーゲルにいわせれば特殊は普遍なのだが)。

 なので、腐女子というもののイメージは、ネットでちらほら見る腐女子を自称している人々のブログくらいしかない。
 ぼくがいちばん系統的にネット上で「接して」いる腐女子は、ウェブコラム「漫画偏愛主義」を書いている朝日新聞記者・松尾慈子で、ほぼ毎回BL(ボーイズ・ラブ)作品の紹介。彼女のコラムを読んでいるとなんとなく腐女子というものの生態や思想がみえてくるような気になってくる(ちなみに今回は三浦しをん『シュミじゃないんだ』をとりあげていて、まさに併せ読めば腐女子の生態を感じとることができるのだろう)。

 いずれにせよ、リアル腐女子が身近にいないので、バーチャルなものから得られた「妄想体腐女子イメージ」しかない。それを臆せずに披露してみると……。
  • 全体として知性的
  • (腐女子ライフが)きわめて隠遁的、プライベート的
  • 虚構への耽溺とは逆に、現実感覚が辛辣(たとえばリアル男性にたいしても)
  • 非依存的

 (あくまで当方の脳内イメージでございますので、マジにお怒りになられませんようくれぐれもお願いいたしマス。)このような勝手な「腐女子イメージ」がぼくの脳内にあるがゆえに、この小島アジコ『となりの801ちゃん』を読んだとき、自分の脳内イメージとの微妙なズレが気になって仕方がなかった。「この腐女子は実在するのか」と。

となりの801ちゃん 本書は、「僕は28歳、オタク会社員。付きあっている彼女が腐女子でした」(オビ)とあるように、自分の彼女の腐女子っぷりを1コマないし4コマの漫画で紹介したものである。もともとブログで描いていたものを出版化した。(漫画・絵柄をみてみたい人はこちら

「ちょっと変わったカップルの実録ラブストーリー!!」(オビ)
「本書は事実をもとに、一部表現を誇張して描いたノンフィクションです」(目次の註)

とあるから、「実在」なんだろうけど、なぜぼくがその「実在」性を疑うのかといえば、ぼくの脳内イメージとズレているからであり、ひとことでいえば、801ちゃんが「カワユス」だからである。

 上述のとおり、ぼくの腐女子イメージには「かわいい」という庇護的なニュアンスはほとんどない。なのに、本書の主人公、801ちゃんはヲタ男であるぼくが萌えてしまうほどにカワユスなのだ。

 801ちゃんの実体は、表紙の緑色のキャラ、すなわち愛・地球博のキッコロみたいなものなのだ(京都の商店街のキャラクターが発祥でもともとは賀茂茄子が原形)。言葉で説明するとアホみたいだが、社会的体裁をすべて捨象した、やおい的な欲望に燃えた実体というわけである。
 しかし普段はその実体を隠している。
 この実体を隠すために「擬体」を着ているのだ(表紙参照)。家で彼氏といるときには実体モードでいるのだが、お外にいくときはショートボブ、ガーリーな服に身をつつんだ「擬体」スーツを装着するのである。
 まず、この「擬体」が造形としてかわいすぎる。

 たとえば、彼氏(チベット/チベ君)が「『〜でござるよ』ってきたら あとに何て続ける?」と問うと、「え? 普通に薫どの〜じゃないの?」と受けてしまう801ちゃん(「僕の世代は“ニンニン”でした」の解説つき)。
 あるいは、801ちゃんを漫画のネタにしていることがバレて、代償として指輪を要求されるのだが、チベ君が「……あの……かわりに…コミケで買い放題…じゃ ダメ…ですか…?」と問い返すと「……。それこそボーナス飛ぶよ?」とやはり無表情に反応。
 日常の人々の感覚とズレまくるのを普通にスルーする801ちゃんの無表情ぶりが特にかわいい。

 ボーナス出たから好きな漫画を買ってあげるよというチベ君にたいして、あれかこれかと楽しみながら悩む801ちゃん。両方買ってやろうというチベ君にたいして、

「バーロー!! 買う金はあっても置き場がねえ!!

と嬉々として腕をふりながら叫ぶ801ちゃんのカワユサよ。

 そして、腐女子実体に戻った時の801ちゃんの欲望全開モード。
 10月にクールビズが終了し、チベ君がスーツを着て801ちゃんの前に登場すると、801ちゃんは「バシュ」などという音とともに擬体をつきやぶって萌え狂ってしまう。

「ギョヘ――! スゥツゥ!!
 スーツゥ!! スーツや!!
 ええのう!! たまらんのう!!
 グェッヘッヘッヘッヘッヘェー!!
 男前が3割増やないか!! 
 萌えっ!! 萌えっ!!」

 そしてチベ君のまわりを舐め廻すようにまとわりつくのだ。
 ほとんどセクハラオヤジである。


 思うに、男ヲタのぼくからみて本当にカワユスであって、それが実在性に疑念をいだかせるのである。
 いや、作者がぼくと同じ男ヲタであり、その愛情が投影されて独特の歪みを造形に与えたという解釈もできるんだろうけど、むしろ、これは男ヲタからみての「理想的なヲタ女性」という造形のような気がする。

 p.111に「長い休みがとれたら旅行もいいけれど 100時間くらいぶっつづけでアニメ大会したいよねー」と801ちゃんが言い、チベ君がホホそめて「ねー」と同意する1コマ漫画がある。そこには「オタップル。」というタイトル的な解説がついている。
 そこにみられるように、もし、801ちゃんのようなオタク女性がパートナーとしていたなら、彼女のオタク領域はあまり理解できなくても、非常にしあわせな共存ができそうである。ヲタ男性にとって、モテ系女性といっしょになることのほうが、むしろ文化的地獄だといえる(その意味で「電車男」的幸福はまさに現実にはありえそうにはない)。

博士の奇妙な思春期「セクシュアリティの男女差を問うことは、『萌え』の男女差を問うことだ。そこには歴然とした差異がある。たとえば多くの男性おたくは、ヒロインの造形、つまり姿形の可憐さに『萌える』。あるいはヒロインのおかれた状況、物語の設定などに『萌える』。……〔中略〕……それでは女性おたく、すなわちやおいの人々は、何に『萌える』か。そもそも彼女たちは、あまりこうした表現を使用しない。しかし榎本〔ナリコ〕氏によれば、やおいの人々は『位相萌え』なのだという。……〔中略〕……『位相』とはすなわち、関係性の位相を指している。ある少年もの漫画作品において、男同士の友情や確執といった関係が描かれるとしよう。彼女たちが熱く注目するのは、まさにこの関係性なのである。そこに描かれた微妙なしぐさ、視線、せりふ等々の断片から、こうした関係性をいかに恋愛、すなわちホモセクシュアルな関係性の位相に変換するか。これこそが、やおいにおける普遍的テーマにほかならない。……〔中略〕……ペニスの位置と方向性が定まらなければ、男性はみずから欲するものとすら向き合えないのだ。……〔中略〕……女性が何かを欲望する際には、みずからの主体のポジションなどどうでもよくなる。ひたすら対象に没頭し、みずからを空虚にしてのめり込む。こうした主体の位置の可変性は、たとえば対象への同一化に対して存分に発揮される。やおい作品ではしばしば男性同士の性行為が描かれるが、このとき作り手、読み手のいずれも、性行為において攻める側、受ける側のいずれにも同一化できるのだという。いきおい作品への愛の深さは、男性おたくのそれをしばしば上回る」(斎藤環『博士の奇妙な思春期』日本評論社、p.27〜28)

 こうした腐女子像からすれば、801ちゃんはかなり腐女子としての正しい造形でありつつも、やはり「萌え」によって対象を語るという不自然さを残している。それが男ヲタである作者のバイアスなのか、そういう腐女子もいるのか、ぼくにはよくわからないけども、とにかく、「801ちゃん」というのは、実在腐女子というより、「男ヲタクによって理想化された腐女子像」としてよくできているといわねばならない。

 ところで本書に出てくる「隠れ腐女子の暴き方」はなかなか秀逸。
 まわりに腐女子疑惑のある人がいたら「攻めの反対は?」と、しれっと聞いてみよう!(ただしツワモノ腐女子には効かないのでご用心)




宙出版
2006.12.30感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る