佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』



通説的なアダム・スミス像への批判


 アダム・スミスといえば、今の新自由主義の元祖のように思われている。
 保護主義的な貿易で金銀を稼ぎ出すことが富を稼ぐことであると説く重商主義を批判し、自由貿易を説いた人、小さな政府にして政府は経済に介入せず、市場原理に任せれば神の見えざる手によって需給バランスがとれ、適切な資源配分が行なわれる——こうした主張をした人と思われている。

アダム・スミスの誤算 (PHP新書―幻想のグローバル資本主義 (078))  佐伯啓思はこのスミス像を批判する。
 スミスが生きた時代は世界規模での貿易が広がり、そこから金銀という国際通貨=富を稼ぎ出す、一種のグローバリゼーションが広がっていた。加えて、財政革命という形で、無制限な銀行券や国債の発行が行なわれ、それが投機の対象となっていた。いわば、国境を超えたマネー経済が荒れ狂っていた時代であった、と佐伯は描き出す。

 今の時代にそっくりではないか、というわけである。〈スミスが目の前にみていた経済が、現代のわれわれの面前で繰り広げられている市場経済と、ほとんど変わりがない〉(p.191)。

〈貨幣に価値の根拠をおいた経済は、つねに市場の相対性や市場の条件によってその価値が不安定に変動するという意味で「不確かな価値」をもっているといってよいだろう〉(佐伯p.123)

〈貨幣や信用は、土地とは異なって自己増殖する。貨幣が貨幣を生み、信用が信用をうみだす。こうして貨幣的利得は、一種の「想像上の富」を増殖させるのである〉(p.161)




市場経済の「確かな基礎」を考える


 佐伯はこのような貨幣的な富を〈ヴァーチャル〉な富、〈浮遊する富〉などと呼んだ。「浮遊」て(笑)。佐伯はスミスの重商主義批判の核心とは何かと問い、〈彼は、浮遊すると身をうみだし続ける市場経済の「不確かさ」を問題にしたかったのではなかったろうか〉(p.176)とのべる。佐伯は市場経済の「確かな基礎」を何に置くか、ということを問題意識とし、そのことをもって「何によってグローバリゼーションに対抗するのか」ということをスミスから学ぼうとしている。それが本書の課題なのだ。

 市場経済においてモノの価格は需要と供給を通じた市場価格として揺れ動く。この市場価格の変動は、賃金・利潤・地代の〈いわば正常な値〉である「通常率」によって定まる「自然価格」に引きつけられている。
 これは経済学でいうところの「均衡価格」ではないのか? まさしくこれは市場経済における価格メカニズムではないか?
 佐伯はこの問いに疑問を投げかける。スミスは均衡の話などしていないではないか、と。〈自然価格はそもそも需給によって定義されていないのである〉(p.46)

 佐伯によれば、たとえば賃金の体系なども、職業ごとによってちがい、それは社会的な意味や承認と結びついている。だとすれば〈利潤や賃金、地代の「自然率」が市場で決まるものではなく、社会的な条件、歴史的な条件によって「自然に」決まってくる〉(p.51)ものだと仮定できるんじゃないかと考えをすすめるのである。

 そして、スミスがここでいうところの「自然」「自然的秩序」とはどんな意味か、佐伯はそれをずっと調べていくのだ。

 佐伯は、スミスがそこで見いだしたのは「土地と労働」だという。〈富の根源へと遡れば、労働生産物にゆきつかざるをえないのだが、この「根源的な」労働は、どこから価値をうみだすのかといえば、土地に働きかけるからというほかない。土地に働きかける労働こそが、最初の価値創造的労働であろう。つまり「土地と労働」こそが価値の根源なのであり、貨幣はその後で獲得されるにすぎないということになる〉(p.121)。

〈「土地と労働」に根を張った経済は、市場でどのようにその価値が変動しようと、それ自体の確固とした価値(使用価値といってもよいだろう)をもっているので、その観点からすれば、「確かな価値」をもっているといえよう〉(p.123)

 動産である貨幣とちがい、不動産である土地は、人をそこに縛り付け、その土地に対する責任を生じさせる。しかもそれは個人をこえた、先祖代々の家の観念と結びつく。ひいてはその土地・家を守るために命を投げ出す愛国心にまでつながっていく。

 おお、自然(的秩序)、国富の基礎、道徳——スミスをめぐる問題はすべて解決され、市場経済の確かな基礎もここに置かれた。しかも、そこには伝統や愛国心といった保守主義がどっかりと座っているのだ。まさに保守主義者である佐伯の面目躍如たるものがある。

 つまり、スミスは重商主義批判はしたけども、それはナショナル・エコノミスト、ナショナリストとして批判したものであり、市場経済を認めたうえで、その基礎に「土地と労働」という「重り」を置いたというわけである。市場は全くの価格メカニズムにまかされているのではなく、その根底には社会的な心情や道徳が反映しているというのだ。

 「こwwwれwwwwはwwww無wwww理」というレスでもつきそうなスミス理解かもしれない。
 佐伯もそういう批判をずいぶんと恐れているようで、〈私は、ここで別に、スミスについての「正しい」解釈を提示しようというわけでは全くない。スミス研究者と、「適切」な解釈を争うというわけでもない。私には、そんな能力もなければ関心もない〉(p.31)と予防線をはったうえで〈ただ、私にとって、どうしても無視することのできないある面を取り出そうと思うだけである〉〈だから、ここでは、スミスの多様で豊饒な議論をそのものとして味わうのではなく、ある種の観点から、あえて通説とは異なった観点から、あるアスペクトのもとに私なりにスミス像をスケッチしてみようと思う〉(p.31〜32)と述べている。

 たしかにスミスの実像としてこれが正しいのかどうか、ぼくにはよくわからない。だが、内田樹がマルクスについて〈マルクスを読んで「マルクスは何が言いたいのか?」というふうに訓詁学的な問いを立てるのは、あまり効率のよい頭の使い方ではない。それよりはむしろ、「マルクスを読んでいるうちに、急に・・・がしたくなった」というふうに話が横滑りをし始めることの方がずっと楽しいことだと思う。〉と述べているが、こうした読み方として受け取るのがいいのかもしれない。
http://blog.tatsuru.com/2008/05/23_1649.php

 とくに、市場経済というのものは価格メカニズムだけと考えているむきには、その根底で別のものがワークしていることに思いを馳せるうえではこうした読み方は大切だろう。




価格と価値の関係


 これは「価格と価値の問題」として考えることもできる。

近代経済学の解明〈上〉第1巻その系譜と現代的評価 (岩波文庫)〈パレートの選択の理論においては、ワルラスの一般均衡理論の出発点となったような極大満足説の痕跡はまったくなくなって、限界効用説は完全に放棄されているのでありまして、そういう意味においてかれの実証主義は、ワルラスより徹底的であったということができます。パレートからいうならば、効用が経済の本質であるとか、あるいは交換の原因であるとかいうような考え方は、これは形而上学的であって、そういう意味において、限界効用説は非経験的なものとして否認せられなければならないのであります。これが、伝来の価値論に対するパレートの態度の一面でありました。それは、限界効用説の完全な否定であります。しかし伝来の価値論は、限界効用説だけではありません。そのほかに労働価値説もありました。そしてパレートは、この労働価値説をも否定するのです。パレートは、この労働価値説も、限界効用説と同じように、経験科学的でなく形而上学的だとみています。……それですから、パレート流の一般均衡理論の考え方からすれば、およそ価値論というものは、あらゆる意味において駆逐せらるべきものである、ということになるのです。この点において、ローザンヌ学派の経済学は、オーストリア学派やケムブリッジ学派やマルクス学派の経済学とは根本的に異なる性格をもっています。ローザンヌ学派の学者にとって必要なものは、ただ価格の関係だけであり、価格関係という、客観的に把えうるところの関係の間から、一般的な均衡の理論を作り上げるというところに経済学の任務があり、そこにこそ理論経済学の主要内容がある、とこういうふうにかれらはいうのであります〉(杉本栄一『近代経済学の解明』上p.187〜188)

 価格はたしかに需給のメカニズムで動く。
 しかし、たとえば自動車:消しゴムの価格比がだいたい100万円:100円くらいに落ち着き、その逆はありえないという現実をみれば、根底で労働価値説がワークしていると考える他ないとぼくは思う。
 スミスが言ってきたように、富とは貨幣ではなく、財とサービスであり、それを生み出すものは労働である。まあ実際には労働以外のもろもろの「オトナの事情」も入ってきて価値が定まるんだろうけど、大ざっぱにみて投下労働量によって価値が決まり、価格はそれを中心に運動するものだと思っている。
 それが実体経済とよばれる分野での姿だ。

 ところが、金融経済、マネー経済の分野は、価値から離れた価格の独自運動があまりにも猛烈な勢いであるために、価値にそったところに落ち着くまでにあまりにも多くの人間の生活が犠牲になってしまう。

 ではその対策をどうするのか、という具体論はまた別の問題なのだが、いずれにせよ、市場経済というものは「価格メカニズム」しかないという視点からはこういう問題の把握はできない。

 価格の背後には価値があり、そこには価格メカニズムとは別の、労働や社会といった要素が基礎をなしているのだ。
 
 ちなみに、佐伯はスミスとマルクスの労働論を比較して、前者は土地というものに拘束された労働を考えたけど、後者は抽象的人間労働などといってそこをすっ飛ばしてしまったと批判している。
 土地に拘束された労働が生み出すものという視点から、人が慣れ親しんだ場所での経済活動こそ「自然」なのであり、資本はまず国内に投下されねばならないというふうになるはずだ、それが重商主義批判にもなるんじゃないかまったくもう、と佐伯は述べる。
 なんかねえ、佐伯を読むたびに「なるほどねえ」とか思ってしまう自分がいるのが恐いですよ。





『アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)』
佐伯啓思 PHP新書078
2009.2.7感想記
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