NHKアニメ「電脳コイル」



ネットでの評価を受け取るときのぼくの感情


 ぼくの本が書店で並び始め、ネット上でも評がチラホラ出るようになった。
 「批評とは賛美や憎悪ではない。良き批評は常に新しい『読み』を開いてくれる」などというきれいごとを言っている場合ではない
 ホメるレビューを書いてくれたらありがとうありがとうありがとう、ケナすレビューを書きやがったらこの野郎地獄に堕ちろ! 精神のジェットコースターを味わうのだ。少なくともこの本についてはぼくはレビュー「される」側としてその責め苦を甘受せねばならない。

 パソコンをつけてネットという亜空間に「自分」をつなぐ瞬間、たしかに世界がかわる。そして「それはリアルじゃない」「バーチャルだ」というたぐいの言説がいくらあろうとも、(ぼくについてのことであろうがなかろうが)ネット上に発せられた「言葉」に舞い上がったり、深く傷ついたりする。ネットの世界は幻影ではない。
 そんな初歩的なネット礼賛みたいなことを言っていていいのか、と思う人もいるかもしれないが、いいのだ。

 ネット上の言葉を介してつながった感情は、絶対に「虚妄」のものではない。前のエントリーでも書いたけども、ぼくはネットによって「社会へのつながり」を感じたほどであった。
 ぼくに対する言及でなくとも、たとえば「はてなブックマーク」の「人気・注目エントリー」を眺めているだけでも、自分の持っている価値観が批評にさらされ、気持ちが浮き上がったり沈んだりする。
 モノによってはぼくは周りが見えなくなってしまうようなのめり込みをしてしまうことがあるだけでに、ネットにつながると、そこに非ネット空間(すなわち「現実空間」)とはまるでちがった特有の空気、雰囲気、世界「感」を感じてしまう。




ネット空間にいるときの感覚をどう再現するか


 花沢健吾『ルサンチマン』は、バーチャルの世界にいる感覚を「現実的皮膚感覚」に変換した漫画として有名だが、それ以外にもぼくが以前評したことがある『電車男』の各種漫画版は「ネット掲示板」の空気をどう漫画に変換するのかということを競い合っていて興味深かった。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/densya-otoko-watanabe.html
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/densyaotoko-douke.html

駅から5分 1 (1) (クイーンズコミックス)  最近読んだくらもちふさこ『駅から5分』は作品ごとに人物がつながっていく短編集で、このなかのepisode 4はやはりネット掲示板に自分が居る感覚を漫画に変換したものだった。
 自分の姿と空間の感覚(部屋としての感覚)だけが奇妙に鮮明で、他者はまさに「言葉だけ」、もしくはノッペラボーのように抽象化されている。
 雑誌で読んだ一番最初のときは、「下手な前衛漫画」(そんなもんあるのか)みたいでなじめなかったのだが、結末がわかって読み返すとなかなか考え抜かれた描写だと思うようになった。
 単に「リアル/バーチャル」みたいな区分けの問題ではなく、「いま自分がネットという空間にいること」の独特な感覚をどう表現するのか、という問題なのだ。むろん、パソコンの前にいる人間を描けばそれでその描写が成立するというものでもない。ネットをしている自分を、「パソコンの前にいる自分」というイメージでしか思い描けないあなた。あなたはまだネット中毒もしくはネット廃人になっていません。よかったですね!
 その点でこのくらもちの描写は気が効いていたのである。

 ぼくはNHKアニメ「電脳コイル」を視て、思ったことの一つは、「自分がバーチャルな空間にいることのリアル」をどう映像にするかということだった。




電脳亜空間にいる感覚をアニメならではに再現


電脳コイル (1) 通常版  「電脳コイル」は次週(07年12月1日)で最終回だ。(以下、ちょいネタバレあり)
http://www3.nhk.or.jp/anime/coil/index.html
http://www.tokuma.co.jp/coil/

 「電脳メガネ」をかけると、現実風景に重なるようにバーチャルなものが視て触れられるようになるという、近未来の話。ネット社会をデフォルメしたような物語である。主人公は大黒市の小学生たち。

 物語のわりと初めの方に、学校で転校生のユウコをいじめるために、男の子たちが電脳世界で激しい「戦争」をしかけるシーンがある。
 弾丸をうちこんだり、バリアめいたものでふせいだりと、視覚的な楽しさにくわえて、ネット上の中傷合戦や炎上をビジュアル化してみるとこんなふうになるのかなあと思いながら視ていた。先日話題になった「炎ジョイ」(サイトの炎上をあおるためのサービスで、たちまち激しい非難をうみ、あっさりサービス中止に追い込まれた)も、こういう「楽しみ」を想定していたのかもしれない(笑)。

 そして、登場人物たちは傷つく。
 バーチャルだから「虚妄」、現実には何もないことなんだ、という大人の説教は通用しない。
 前にも書いたとおり、ぼくもメーリングリストの相手の言葉に傷つき、現実の仕事を1日休まねばならなくなってしまったことがある。
 実際には、ネットにおいて言葉を媒介にして、現実よりもはるかに先鋭的で「ピュア」な感情の交流(激突)がおこなわれており、それを「虚妄」だということは決してできない。そのために人が死んだり、倒れたりしているのだ。

 本作でも電脳の自分とリアルの自分が傷つくことが区別されているようで区別されなくなってしまう。生身の体と電脳の体が分離してしまう、まさにその現象を「電脳コイル」と呼ぶのだ。それは単に「現実と仮想の区別がつかなくなる」という意味ではなく、生身の体の「仮想」であるという関係を切ってしまうこと、電脳の体が生身の体のようなリアルさを独自に持ち始める、という意味にとれる。
 主人公のヤサコが自分に生まれた「悲しみ」の感情は「虚構」なのだと自分に言い聞かせようとしても、それはどだい無理な話なのである。物語でも、イサコやヤサコは傷つき、「亡くなった」少女もいる。

 このアニメでは、その痛みや自己乖離感、攻撃や防御が見事に視覚化されている。漫画で描いた場合、ここまでネット世界の空気を再現し、なおかつ誇張できるか疑問に思った。
 士郎正宗『攻殻機動隊』はこうした漫画の走りだとされているが(ぼくはアニメの方は視たことがありません)、昔漫画で読んだとき、まだネットが大衆化されていない時代だったこともあってか、「電脳コイル」ほどの皮膚感覚を得ることはできなかった。

 さて、こう描くと、いかにもこのアニメのもっとも核心的なテーマにのみ反応してぼくがアニメを正座しつつみていたような印象があるのだが、そんなことありませんから




結局小学生の恋愛がみたいだけかよ


 「電脳コイル」というアニメには、「バーチャルとリアル」とか「都市伝説」とか「ホラー」とか「謎解き」とか「いじめ」とか「インターネット」とか「メガネっ子」とか「ツンデレ」とか「おにいちゃんがすき」とか「サイバーバトル」とか「攻めと受け」とか「ジブリっぽい」とか「エヴァっぽい」とか「ガンダムっぽい」とかいろんなタグが埋め込んである。
 好きな読みをおこない、好きな視線を投げかけて、自分の好きな文脈で楽しめるよう、かなり人工的・意図的に。

 もともと「萌え」は、作品を複数の文脈や視線で再解釈して楽しむことに一つの起源があるけども、最近は人工的にこういう複数の視線や読みを促せるように人工的にタグを埋め込むことも本当に多くなった。それでシラケてしまうことも多いんだけど。
 最近のアニメにハマッてみて、あらためてこういう意図的・人工的なタグの集積の大きさを感じる。

 ぼくが「電脳コイル」全26話中25話までこの作品を熱心に視ていたもう一つの理由は、小学生ラブだから。
 もとい。これでは語弊がある(笑)。
 「小学生の恋愛」があるから。

 もちろん、たとえば『放浪息子』のように作品中でそれが大きな比重をしめるわけではない。ハラケンという同級生の男子へのヤサコの思いが出てくるシーンは微量だ。しかし、その関連シーンが出てくるたびに胸がきゅぅぅぅんとなってしまう。
ふしぎの海のナディア DVD-BOX  NHKアニメだとたとえば「ふしぎの海のナディア」を視ていたときも、準主人公のジャンが主人公の少女ナディアに寄せる好意がいつ発露されるか——早い話、「いつ告白すんのかなー」とか「いつキスすんのかなー」とかそういう期待で胸がいっぱいだったのだ(最近こんなことばっかり書いているな>俺)。

 とくにハラケン(関係ないが「ハラケン」というとどうしても「原健三郎」を思い出してしまう)の「ヒョロ眼鏡」風貌が「ハラケンは自分である」という重ねあわせをすることができて、ヤサコが「好き」だと言ってくれるたびに自分が言われているような気持ちになってうれしい
 そんなことがうれしい、男30代後半の冬の日。
 死んだ少女・カンナに囚われるように思いを寄せているというハラケンの設定も、深淵のマッドさ、深い影がある感じがして、ぼく自身の幼少期を美化するにはもってこいの形象である。
 どう考えても小学生はこんなに賢くもないし、こんなに陰影が深いはずもないと思うのだが、それがまた虚構の醍醐味というわけですよ!

 もうひとつ。「エヴァ」(「新世紀エヴァンゲリオン」)には放映後1年くらいしてビデオを借りてハマりまくったのだが、そのとき、シンジやアスカの心象風景にはまったく共感できないというか、自分と重なるようなものがなくてピンとこなかった。
 しかし「電脳コイル」に出てくる記憶の心象風景はいかにも「千と千尋」っぽくて、ぼくの心の中の「なつかしさ」に訴求してしまう。
 とくに京子の夢で「ぼんやりしたさみしげな夜店」の列はアレであった。
 「エヴァ」のように、「捨てられた」とか「ママ、私をみて」とかは全然ひっかかりがないのだが、「電脳コイル」のような見せられ方をしてしまうと甘酸っぱいものがこみあげてきてしまって、目が離せなくなる。

 ぼくにとって「謎解き」とかは、もうホントにどうでもいいことのきわみのような要素である。話の進行に遅れない程度についていっているだけで、「謎が謎を呼ぶ展開」になるたびにややこしくなるだけだからウゼェとしか思えない。大筋のことだけ分かってりゃいいや。

 ぼくは電脳空間の空気に浸る楽しさを感じつつ、少年少女の「愛」のみを、よだれを流して待ち続けていたのである。


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2007.11.26感想記
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