5周年企画 『資本論』第一部を読む



 このサイトを開設してついに5年目をむかえる。

 記念企画としてマルクス『資本論』第一部を読む、ということをやってみたい。
 いま、若いサヨクといっしょに勉強会をやっていて、なぜかそのチューター役をつとめている。といっても、ぼくは『資本論』の専門家でもなんでもないし、詳しくもない。いわばただのドシロウトである。
 ぼくは、学生時代には『資本論』を通読することができず、社会人になってすぐに入院する機会があり、そこではじめて読み通すことができた。左翼仲間と読破競争をやっていたのだが、ぼくは次々ぬかされてしまった。くやしかったね。他人が読了したのを聞くと、「おめでとう」なんて言えるはずもなく、ちくしょう! と叫んだものであった。

 ただし、全三部あるうちの第一部については大学1年のときにサークルで読み、以後何度か読んでいる。それでもドシロウトであることにはかわりない。
 そのドシロウトがあやふやなチューターをつとめるさいに、なにをポイントにして教えようとしているか、あるいは、どのような水準の理解のままやろうとしているかを、文字通り「ご笑覧」してほしいというコーナーである。



新日本出版社版(新書判)をテキストに使う



 『資本論』そのもののテキストは新日本出版社の新書判を使う。
 岩波のは原ページがないというマヌケさがある。
 あと、ぼくが学生時代に読んだのは大月書店の全集版だったんだが、「物神的性格」が「呪物的性格」になっていたりと訳語の調子で苦労した記憶がある。
 新日本版は「共産党系」ということもあってか、多くの人が無視している版である。まるでそれをとりあげると自分の学者としての資格にかかわるかのように(笑)。しかし、日本初の集団訳であり、たしかにわかりやすい(大月版も実際には決して岡崎ひとりの訳ではないのではあるが)。原文と区別される形で入れられた注も、読了を手助けするものになっている。これがいい。
 同社の上製版は、さらに草稿研究などの最新到達が反映されているというが、新たに3万5000円も出せないので、とりあえず新書判っつうことで。




学者の入門書はわかりにくい



『資本論』全三部を読む〈第1冊〉代々木『資本論』ゼミナール・講義集  サブテキストとして、次の3冊を用いる。
 ひとつは、不破哲三『「資本論」全三部を読む』(新日本出版社)。
 前にも書いたけど、『資本論』にかぎらず一般的に、学者の書いたものというのは、わかりにくいものが多い。
 いちばんよくあるダメパターンが、入門書のいちばん最初だけがやたらとていねいで、そこが終わると急に不親切になるというものだ。たたきつけたくなる。しかも、その最初の「わかりやすい」部分に書いてある「わかりやすい」こととは、たとえばサブプライムローンの「サブ」と「プライム」の意味だったりして、どうでもいいことである。
 そうでなければ、最初からいきなりひどく難しい。「入門」する気が失せる。

 その点、不破のこの本は、実に正統な、そして役に立つ入門書である。
 まず、わかりやすい。
 論より証拠。『資本論』の本文が始まる一番最初の解説の部分を読み比べてもらおう。




伊藤誠と不破哲三を読み比べる



 まず、不破の文章だ。

「『第一節 商品の二つの要因——使用価値と価値(価値の実態、価値の大きさ)』は、商品についてのもっとも基礎的な分析です。
 まず重要なことは、この節の冒頭にある次の文章です。
『資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる』(『資本論』〈1〉五九ページ、〔1〕49ページ)。
 この文章は、たいへん凝った文章です。ここで『われわれの研究は、商品の分析から始まる』と述べているように、『資本論』の初めの篇である第一篇は、商品経済の研究であって、『資本』というものは、まだ出てきません。たまたま顔を出すこともないわけではありませんが、だいたい『資本』ぬきで市場経済を研究するのが、『第一篇 商品と貨幣』の主題なのです。
 では、ここでの研究対象は、資本がまだ存在しない社会、資本主義以前の社会なのかというと、そうではありません。いまの文章で、マルクスは、ここで研究する社会とは『資本主義的生産様式が支配している諸社会』——資本主義社会だということを、明確に述べています。つまり、資本主義以前の社会ではなく、資本主義を、商品の生産と交換、市場経済という面からとらえて研究する、それが第一篇の研究対象なのです」(不破1、p.100〜101)

 以上が不破である。次に、伊藤誠の『「資本論」を読む』(講談社学術文庫)のやはり冒頭部分の解説文章を紹介する。

『資本論』を読む (講談社学術文庫)「すべて偉大な著作は冒頭の一句が大切だといわれる。資本論の冒頭にはつぎのような文章がおかれている。
〈資本主義的生産様式が支配する社会の富は、「膨大な商品集積」〔マルクス(一八五八)〕としてあらわれ、個々の商品はその富の基本形態としてあらわれる。したがってわれわれの研究は、商品の分析から始まる〉(〈1〉七一)
 ここでは、第一版『序文』で『近代社会の経済的運動法則をあきらかにすることが、この著作の最終目的である』(〈1〉二五)と述べているところを受けて、『資本論』全巻の考察対象が資本主義社会にあることをマルクスは明示している。ついでこの資本主義社会では、商品が富の基本形態としてあらわれると規定する。実際、資本主義の歴史的特徴は徹底した商品経済社会を形成するところにある。
 そこで、商品はたしかにこの社会の富の基本形態をなすのであるが、しかし、商品は資本主義社会の内部のみに存在するものではない。それはまた、スミス(一七七六)のいう人間に本来的な『交換性向』に由来する自然的な経済形態でもない。古くから『商品交換は、共同体のはずれで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で始まる』(〈1〉一六一)のであって、人類史上、社会生活に外来的な経済形態として広く存在していた。こうした史実の理論的了解もまた、商品経済とそれにもとづく資本主義社会の歴史的特性を理解するうえで不可欠な認識となる」(伊藤、p.28〜29)

 いかかであろうか。
 不破の方が断然わかりやすいのではないだろうか。しかも不破と伊藤は、『資本論』冒頭の市場経済が、資本主義下での市場経済か、超歴史的な市場経済かという点で対立しているのであるが、少なくとも紹介した部分を読むかぎりでは、不破の方が簡潔なうえに、説得力がある。




的場昭弘と不破哲三を読み比べる



 不破の本はわかりやすいだけでなく、労働者むけの解説書のような卑俗さに流されない。たとえば、的場昭弘『超訳「資本論」』(祥伝社新書)のやはり本文冒頭の解説部分を紹介しよう。

超訳『資本論』 (祥伝社新書 111) (祥伝社新書 111)「『資本論』は、まことにあっさりした文章から始まります。
〈資本主義的生産様式を支配している社会的富は、「巨大な商品のかたまり」として現れ、この富を構成しているのがこの商品である。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる〉
 すでにマルクスは序文で語っていたことなのですが、資本主義社会の細胞は商品である。だからこの商品を分析することで資本主義そのものがわかるというわけです。そしてその商品はまず、『具体的に有用な価値』をもつもの、そなわち『使用価値』をもったものとして出現することを確認します。しかしここで、この使用価値を扱うわけではない。使用価値は商品につきものですが、本質ではないからです」(的場p.52〜53)

 的場の文章も語りかけるようなわかりやすさのある文体であるが、やはり学者的なペダンティズムが随所に出ている。そして、「わかりやすさ」を強調するなかで「使用価値は商品につきものですが、本質ではないからです」というふうに言ってしまう。
 これにたいして、不破は、

「商品のもつ二つの側面(使用価値と価値)のうち、使用価値は、日常生活の上でもわかりやすい規定ですが、価値の方は、科学の目で分析しないと見えてきません。だから、マルクスは、価値の規定の分析に大いに力を入れたのですが、そこから、“経済学では価値だけが問題で、使用価値は問題にならない”といった早呑み込みをする人もいます。これは、たいへんな勘違いです。『資本論』の商品論をきちんと読めばわかるように、マルクスは、商品を価値と使用価値という二つの側面から分析しているのであって、使用価値を無視したり、この規定を、経済学の上で意味のない無用なものとして扱ったことなど、一度もないのです」(不破1p.111)

と、使用価値の規定の意義をうすめようとするような態度にわざわざクギを指すのである。不破の文章がわかりやすいくせに、卑俗に決して流されないというのはたとえばこういうことである。また、不破の本は全編に国際的な最新のマルクス・エンゲルスの草稿研究が反映されているのだが、そういう難しさはあまり感じさせない。
 しかも読み進めるとわかるが、単に入門書にとどまらず、エンゲルスの第二部・第三部編集方針を批判し、恐慌論などを中心に本来マルクスが何を意図していたかを積極的に読み直すという野心的な研究書にもなっているという驚くべき構成なのだ。
 ゆえに、不破の『全三部を読む』はもっと評価されてよい「入門書」である。
 「なんか『資本論』のいい入門書ないっすかね」と聞かれることがあるが、ぼくは不破のこの本(全7冊)をすすめる。それを聞いて政党幹部の書いたものじゃなくてもっと学術的なものはないのか、みたいな態度をされるときがあるが、それこそ悪しきアカデミズム。

 さて、そんなふうに書いた伊藤誠と的場昭弘の本もサブテキストにしていく。
 これはこれで面白さがあるのだ。
 たとえば伊藤の本は、日本の政府の統計を使ってマルクスのあみだした再生産表式を読むとどうなるか、などの話題が入っていて興味深い。現代日本での搾取率なども統計から読み解いている。
 的場の本は、やはり「わかりやすさ」が捨てがたい。不破が総ページ数にして1000ページほどを費やして1部を解説しているのにたいして、的場は300ページ余。極端に言い切ったりすることでむしろわかりやすくなったりすることもあるのだ。

 他にも別の解説書などを適宜使っていく。




10回ほどの企画にする予定



 この企画のエントリは不破の講義の回数に準じてやっていくので、月1回として、合計でだいたい10回くらいをメドにしていく。1年がかりでやっていく企画になる。
 勉強会で困ってしまったことや、もりあがったこと、苦労したことなどをエッセイ的に書いていくつもりでいる。
 『資本論』もしくはその解説書を読んだことのない人、マルクス経済学をまったく大学で学ばなかった人にはいくぶん退屈な企画かもしれない。というか無理に読まなくていい。
 ちょっとかじったことのある人がニヤニヤしながら読める——そんな企画にしていきたい。







不破哲三『「資本論」全三部を読む 代々木「資本論」ゼミナール・講義集』(1〜7冊)新日本出版社
伊藤誠『「資本論」を読む』 講談社学術文庫
的場昭弘『超訳「資本論」』 祥伝社新書
2008.6.12記
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