岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』


 あるMLで、ぼくの「フリーター漂流」についての解説の感想がのっていて(ぼくの解説についてではなく、おそらく番組への感想であろうけど)、“自分より下がある、という安心を与えるもの”などという感想があったのを見た。

 苛酷な搾取にさらされる請負労働者の実態をみて、「自分より下がいるんだ」と思うメンタリティについていろいろと考える。

「この人には、見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見棄てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに。私たちは思っていた。神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。……私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、屠り場に引かれる小羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命をとられた。彼の時代の誰が思いめぐらしたであろうか。私の民の背きゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」

 後世のキリスト教徒が、イエスの預言であると理解するこの部分は、旧約聖書の「第二イザヤ」の預言、通称「主の僕の歌」である。

 預言者イザヤ(第二イザヤ)が出現するまで、ひとびとは「終末論」的世界観に生きていた。すなわち、岩田の本書によれば、「やがて到来するであろう正しい裁きによって不公正と悪業は処罰され、いま受けている苦難が繁栄と幸福によって報われるはずだ」(p.107)という世界観である。
 だが、第二イザヤの出現とともに、この終末論へ、打撃が加えられる。
 終末論による「救い」はない。

「第二イザヤの描く『苦難の僕』は、不正を受けても悪業をはたらかれても、されっぱなしのまま、復讐をしない。それでどうなる、というわけでもない。その苦しみがいつか報われる、と言われているわけでもない。しかも、この苦しみは他者のために忍ばれている。他者の咎のために、自分が犯したのでもない咎のために、苦しみを引き受け、ついには死ぬのである。/ここには、悪業を裁き、悪業に報いる、という発想はまったくない。ただ、苦しみを引き受けつづけるだけである。……キリスト教徒はこの『苦難の僕』のうちにイエスの姿を見て、神自身が人間の罪を背負い、苦しみ、死んで、それによって、人間を受け入れたのだと理解している。こう理解された神は、もはや裁く神ではなく、人間の罪を背負い、人間の身代わりになるまで人間とともに苦しむ神である」(p.108〜109)

 「神」とは、他者のことであると考えると話が早い。
 他者とは、自分の気に入った人、好きな人、といった「了解可能な人」ではない。それはもはや自分自身にとりこんでしまった一部であり、究極のところ、そのたぐいの人に親切にしたり同情したりするのは「自己愛」にすぎない。

 ヘブライの信仰は純化しキリスト教へと発展していくが、イエスの教えの本質は、この「他者への愛」がある。自分の了解とはちがった部分を山のようにもち、自分の思い通りにならない「他者」は、私を超越しており、私にたいして絶対的である。神とは他者である。イエスはその思想を教えるために、有名な「善きサマリア人」のたとえを話す。
 強盗に遭い道に放置されていた半死半生の人に対し、ユダヤ教の司祭は知らん顔で通り過ぎる。これにたいして賎視されていたサマリア人は、彼をていねいに介抱し銀貨まで与えた。
 「愛とは自分の好きな人に親切にすることではない」「そういうことなら罪人でもやっている」「かかわり合いになったら厄介を背負いこむかもしれないと思われるような人について、近づいていって一緒に苦しみを背負うこと、それが愛である」(p.118)――こうイエスは告げているのだ、とこの本の著者・岩田は言う。
 そして、賤視されているサマリア人だからこそ、瀕死の人を救えたのは、「疎外された人間」同士だからである。「愛はそのような人間同士のあいだで生まれる。なぜなら、他者の苦しみを感受し、それを共に担いうるためには、自分自身が苦しむ者でなければならないからである」(p.120)。
 とおりすぎたパリサイ人のように、いくら道徳的に高潔でも、「正しくても」、愛がなければ何の意味もない、とイエスは言う。

 愛だろ、愛っ。

 ヘブライの信仰、キリスト教、そして現代ではレヴィナスへとひきつがれていくこの「他者」に出会うということへの思索においては、他者を徹底的に自分から切り離す。他者に自分をみてしまう、了解可能なものにしてしまうことを厳しく戒める。自分の了解可能なものにとりこんでしまうことこそこが、「普遍化」へのあやうい一歩であり、そのお化けが「全体主義」であった、と岩田は警告する。岩田の警告の対象のリストには、マルクス主義もふくめられている。
 レヴィナスにとって、私と他者は、たったひとつ、神の被造物であるという一点で連帯しており、それゆえに私は他者の苦しみを引き受けねばならないのである。

 苛酷に搾取されている請負労働のフリーターをみたとき、彼/彼女が自分にとって気に入ろうが気に入るまいが、あるいはどんなに彼/彼女に非があろうがあるまいが、その苦しみを自分のものとして引き受けること――これがレヴィナスの態度である。

 世界では悲しみにみちたことが起こりつづけているなかで、「私」がその痛みを切り離しつづける。そのなかでは、たしかに、レヴィナスの方法は有効かもしれない。

 ぼくは、請負労働のもとで苛酷に搾取されるフリーターに、ぎりぎりのところでやはり「自分」をみる。ここまで強い他者性を前提にしなければ連帯できないということはない。
 イザヤの預言は、私と絶対的に切り離された他者にたいしてではなく、やはりそこに自分とつながっている普遍的ななにかを見いだしているからこそ起きる連帯感ではないのか、と思う。

 すなわち、請負の苛酷な労働に苦しむその姿の中に「自分」をみることもあれば、彼/彼女の労働によって自分の生活や日本の経済が支えられてしまっているという負の連関であったり。彼/彼女の悲惨は、絶対的な深淵をのぞかせているのではなく、あそこで苦しんでいるのはひょっとしてぼくだったかもしれないという思いや、彼/彼女の生活を変えることが自分たちを解放することにつながっているのだという思いで、ぼくらは連帯するのではないかと思うのだ。

 早い話、イエスとレヴィナスは考えすぎなのではないか、ちゅうことなんだが。



 本書は、なかなかに面白いヨーロッパ思想の入門書である。
 本書のエッセンスは、「はじめに」に、すべてつまっている。ここを読めば本書の骨格がわかる。

 すなわち、ヨーロッパ思想は(1)ギリシアの思想と、(2)ヘブライの信仰、の二つを大きな源泉としている、ということである。

 ギリシア思想のエッセンスは(イ)人間の自由と平等、(ロ)世界に法則と秩序を見いだそうとする理性主義、ヘブライの信仰のエッセンスは(イ)アニミズムを否定した唯一の超越的神が天地を創造したという世界観(ヨーロッパ自然科学の源泉)、(ロ)神が自己の似絵として人間を創造したのは神が愛だからであり、愛は他者を求めるのだということ、(ハ)イエスは暴力や復讐ではなく徹底的な赦しと愛でこたえよと教えたこと、である。
 ヨーロッパ哲学はこの二大源泉から活力をくみとって展開されていく、と岩田は言う。

 ギリシアの思想を集大成するのはアリストテレスであるが、ぼくが読んでいて一番重要だと思ったのは、パルメニデスの主張だった。岩田によれば、こうである。

「『思惟することと存在することとは同一なるものに属する』という有名な(パルメニデスの)断片三は、このこと、すなわち『理性によって把握されたもののみが真に存在する』ということを語っているのである。この洞察もまた、ヨーロッパ近現代思想を貫通する超越論哲学の基本原理となった『思惟と存在の共属性』という思想の礎となった決定的主張であった」(p.48)

 しかし、これは人間観に適用された場合、危険なものとなる、と岩田は考えているようである。
 なぜなら、人間を類的普遍者として一括する思想をはらんでいるから。
 これにたいし、ヘブライの信仰の流れは、さきほどみてきたように、神を媒介として、一人ひとりをかけがえのない「絶対者」と扱う空気をふくんでいる。

「神が唯一、絶対なる者であるように、その似姿である人間も、一人一人が唯一、絶対なる者なのである。/このことの意味は、いかなる分類原則にしたがうにせよ、人間を類的普遍者として一括してはならないという点にある。(人間とは自由な存在者であり)『自由な者』であるということそれ自体が、そのような存在者には類的普遍者などというものはありえないということことを含意している。……このことを無視して、人間を理想によるにせよ、思想によるにせよ、宗教によるにせよ、イデオロギーによるにせよ、類的に全体化して一括統制することが、二〇世紀に荒れ狂った全体主義なのである。一人一人がみな異なった絶対者なのだ」
(p.97)

 岩田は、ヨーロッパ思想の最後にレヴィナスをもってくるが、そこで彼の思想を次のようにのべている。

「理性としての私が認識という態度で世界とかかわるとき、私はあらゆるものを普遍概念によって整理統合し、私の張りめぐらせた意味連関の網の目の中へ秩序づける。それによって、私は存在者を自我のうちに取りこむのである。この取りこみによって、私は認識されたものを道具化する。……理性は認識しえないものを、すなわち、根本的に自己とは異質なものを認めない。理性とは同化の力であり、全体化の力であり、それによって自己を貫徹する力であるからである。/だが、この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。もちろん、自分の思いどおりにならない他者をさまざまな暴力によって排除し抹殺することはできる。しかし、そのような殺人は全体化を完成したのではなく、むしろ、全体化が不可能であったことを証しているのである」(p.237)

 岩田が人間に理性主義をかぶせ、その普遍化をたくらむものとしているなかには、ヘーゲルやマルクスも当然入っている。「類的本質」といえば初期マルクスをぼくらは思い出す。そして、そのような思想淵源がソ連の全体主義的なありようと結びついてイメージされれば、マルクス主義がこの危険リストに入れられていることは間違いないのだ(また、本書ではマルクス主義は終末論の世俗化として非常に低い価値しか与えられていない)。
 また、人間の孤独とかけがえのなさについて思索したキルケゴールは、そもそも同時代のヘーゲルがそういうことをちっとも言わず、たえず理性と普遍のことばかりをしゃべっていたことに失望し、その哲学を開いた。「全世界歴史を説明しつくすほどの理論体系を構築したとしても、自分自身がその中に住まなければ、それは雨露をしのぐあばら家ほどの価値もないのである。キルケゴールの目から見れば、ヘーゲル哲学は弁証法の概念の網のうちに全世界をとらえようとしたが、その網の目からは実存(Existenz)が抜け落ちているのである」(p.210)

 むちゃくちゃに極端にいうと、ヨーロッパ哲学は、こうした理性主義的に世界を法則や秩序の「普遍」によって把握しようとする流れと、それに反対し個別的なものへのこだわりの流れとの闘争でもあった、というふうに岩田の哲学史は読める。
 唯名論と実在論。理性主義と経験主義。社会の哲学と実存の哲学。
 もちろん、こんな単純ではないし、岩田は、ギリシアの思想(理性や普遍の思想)が、デモクラシーや近代科学へと結実していく流れを高く評価している。
 しかし、こと人間に関しては、このような把握を許さない、と考えているようだ。
 そこには、ヘブライの信仰の流れを組む実存の哲学が必要だと考えているように、ぼくには思われた。

 ぼくは、ヘーゲルやマルクスこそ、個別と普遍の正しい統一を導いた哲学者だと思っている。
 また、たしかにヘーゲルはそのムダな体系性ゆえに、自分の暮らしていたプロシア君主制を歴史の最終段階だとみる「終末論」におちいった。
 マルクスはそのヘーゲルの有害な人為的体系を破壊し、歴史の無限の発展を説き、まさに人間の自由やかけがえのなさが、社会のどのような発展のなかで開花するのかを説いた哲学者だと考えている。


 まあ、マルクス論議はここではいい。

 ギリシア思想とヘブライの信仰はたしかにヨーロッパ哲学の二大源泉であることは疑いない。
 本書はそのとき、まず最初の見取り図を手に入れるときには、大いに役立つにちがいないと考える。実存と理性を対立軸に描く哲学史はやがて乗り越えられていくとは思うのだが、まず出発点にするには、なかなかにすぐれた参考書の一つだと考える。
 思想史を学ぶ初学者などは最適かもしれない。ぼくをふくめて。

 本書は「SPA!」誌で、03年新書大賞第一位を獲得した。