マイケル・ムーア「華氏911」


「誰に向かって言うか」で訴える言葉はまるで違う
イラク戦争を支持する米国民に向けられた宣伝映画
この映画におきる日本人的な不満〜その1
この映画におきる日本人的な不満〜その2
すぐれたプロパガンダはすぐれた芸術である



■■■「誰に向かって言うか」で訴える言葉はまるで違う■■□■

 父親と自衛隊のイラクへの派兵について論じあっていたとき、ぼくが、イラクの人たちがどれほど多く殺されているかを話していてもあまり動じたふうはなかったのだが、父親の反応がまったくかわったのは、「そもそも自衛隊とは日本の国防のためにいるのであって、若い自衛隊員の命をアメリカの石油権益の人柱のように使っていいのか」という論を、こちらが述べたときだった。
 タカ派で有名だった自民党の箕輪登元郵相(元防衛次官)がイラク派兵の違憲訴訟をおこした論理も、「自衛隊法が定める専守防衛の理念に反する」というものだった。

 国防のための軍隊を、それ以外に使うな。
 日本人の命を、ムダに捨てさせるな。

 これは、日本ではすぐれて「保守的」な論理だと思われている。
 じじつ、ぼくがこの種の議論をあるMLで紹介したことがあったが、嫌悪感や限界を指摘する意見がいくつかよせられた。自衛隊という暴力装置を「国防」というラインで容認してしまうこと、日本人という「民族」「国籍」の利益から問題をおこそうとするナショナルな臭いが、平和運動にかかわってきた人の一部には、たえきれないのだろう。専守防衛とか日本の国益といった文脈は忌避され、「日本人と同じ命が、イラクで失われている。そんな戦争、それを支える派兵でいいのか」――むしろこうした論調で一部の平和運動はすすめられてきたはずである。

 ここでぼくが言いたいのは、そのどちらの論調がすぐれているか、ということではない。
 ごく平凡なことではあるが、訴えかけるターゲットによって、その肺腑をえぐる切り込みかたは、かなりちがっている、ということなのだ。
 少なくとも、うちの父のような、靖国神社参拝賛成の、「田舎の保守」といった人たちをターゲットに映画をつくる場合、いわゆる平和運動をやってきた人たちにむけた映画とは、やはり違った映画のつくりにならざるをえないのではないか。

■■■イラク戦争を支持する米国民に向けられた宣伝映画■■□■

 マイケル・ムーア監督「華氏911」は、はっきりとプロパガンダ映画である
 【プロパガンダ/propaganda】「宣伝。特に、ある政治的意図のもとに主義や思想を強調する宣伝」(『大辞泉』より)。この辞書の定義のとおりの映画である。ただし、プロパガンダは、石原慎太郎がよくやっているような「デマゴギー」=「政治的な目的で、意図的に流す扇動的かつ虚偽の情報」(前掲書)とは同義ではない。
 ムーアは、実に明確な意図をもち、それにむけてこの映画の全瞬間を動員している。
 だから、「華氏911」は人を説得しようという構造を明確にもっている。
 だれにむけてか?
 それは、「平和を願う世界の市民」ではなく、「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」にむけてである。

 たとえば、ブッシュ陣営と思われるケリー(民主党大統領候補)にたいする、ネガティブCMを見るがいい。

 ケリー「彼ら(米兵たち)はレイプし、耳をそぎ、首を切り落とした」
 (場面がかわる)
 退役軍人「彼は過去に我々を裏切った。どうして今、彼に忠誠を示すことができるだろうか」

 これがケリーへのネガティブキャンペーンだというわけである。「ベトナム戦争の非人間性を告発した若き日のケリー」という映像は、アメリカ国内では攻撃材料たりうるのだ。



■■■この映画におきる日本人的な不満〜その1■■□■

 ぼくの友人や知り合いたちが「華氏911」を観て口々に高い評価を与えていたが、にもかかわらず、実際にはいくつかの不満が残っていたようで、それは次の二つに要約できた。

(1)「ボウリング・フォー・コロンバイン」ほどじゃなかった(笑えなかった)な。
(2)イラクへの残虐な攻撃や抑圧の話は、いちおう出てきたけど、少なすぎるんじゃないか。


 (2)から考えてみよう。
 この映画は、一般の反戦映画ではなく、米国民を説得するための映画なのだ、ということを今一度想起していただきたい。
 この映画の情緒的なクライマックスは、なんといっても後半の出征兵士の遺族(親)の映像であり、息子を失った母親の訴えを十二分に時間をとって見せる。よく知られているように、アメリカでは戦死者の棺の列を放映すること自体が規制された。911事件のときは、ツインタワーで亡くなった人たちの「個人の物語」「遺された人々の物語」をメディアで流すことがさかんにやられたのだが、これが逆転した場合は、まったくタブーになってしまう。
 「戦死者とその遺族の物語」に焦点があたってしまうことは、「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」の肺腑をえぐる“危険な物語”だからである。
 もちろん、多少は放映されているのは承知しているが、それはメインストリームにはならない。少なくとも911のときとは比べ物にならない。
 また、この映画は、まずブッシュ家とサウジアラビア王室の利権的なつながりの話がえんえんと入る。
 ムーアは、「テロリストはアメリカのほうじゃないか」という論理からは迫らない。「911事件を、オサマ・ビンラディンというサウジアラビアとつながりの深い人間がおこした犯罪だとしたら、なぜオサマの家族をすぐさま出国させてしまったのだろうか」というところから入る。
 テロからの安全という点で、まったく失格じゃないか、米国人の安全よりもブッシュ家の利権が優先してはいないか? というアプローチは、「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」に何とか迫ろうという工夫である。
 911の第一報に接した後、視察に訪れた学校の一室で、ただ独り放置され、子どもたちの授業のすぐ横で所在なさげに絵本をずっと読み続けているブッシュの映像も、「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」にとっては、衝撃的なものである。
 また、ムーアの故郷フリントのさびれよう、そして軍隊に志願せざるをえない貧困を克明に追っていく様も、「アメリカ人の今まさに目の前にある貧困」と戦争のつながりを明瞭に描こうとするためである。目前の貧困と戦争という両者は、切り離されている。日本でもこれはよくある。「平和運動もいいけど、明日のおれの食い扶持をどうしてくれるのか、そっちのほうが深刻だよ!」という、倒産しかけた中小企業のおっさんの叫び。
 イラクの空爆や攻撃の残虐な映像や、夜中にクリスマス・ソング「サンタが街にやってくる」をかけながら、米軍がイラク人の家に押し入って拉致していく映像も、「私たちと同じイラク人の命の尊さ」という一般論を言いたいのではなく、「米軍はイラクのフセイン独裁からの解放者である」というアメリカにおける支配的なプロパガンダにたいする、はっきりとした対抗のプロパガンダである。
 日本で“いつものように”平和運動をしている身からすれば、(2)のような印象をもってしまうことはありうる。しかし、この映画はそのようにはつくられていない。「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」に宣伝するための映画であり、映画の多くの要素はその目的にむかって動員されている。

■■■この映画におきる日本人的な不満〜その2■■□■

 (1)もまたしかりである。
 戦争というテーマは、ある種の米国人には、ひどく厳粛なものである。
 たしかに、アメリカ人でないとわかりにくいパロディやジョークを随所にちりばめてあって日本人はそれをすぐには理解できないということもあるだろうが、それを差し引いたとしても、前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」やムーアがケーブルテレビで流していた、「警察署の前でサイフと拳銃の違いを図で講義する」といったような“笑いの毒”は後景に退いていると言っていいだろう。
 哄笑の渦、ということとはちがった作品になっている。
 ぼくの知り合いの息子さんは、ムーアが以前つくったケーブルテレビでの番組のトーンを過剰に期待していったらしく、本作をみてかなり肩透かしを食ったらしい。
 だが、戦争によるアメリカ国民の死、などといったテーマを、「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」の肺腑をえぐるやり方で迫ろうと思えば、どうしてもトーンは切り替わらざるをえないのではないか。
 私のつれあいは、ちょうど911のときアメリカにいたのだが、優しかった米国人の同僚たちは一気に苛烈な「愛国者」に変貌した。つれあいは、ブッシュがテレビで訴えるさまが、どうしてもサルにしか見えなかったのだが、そんなことをいえば不謹慎といわれそうな空気が支配していた。つれあいは、911の話をしている最中、別のことで口をすべらしたさいに、米国人の同僚に、「これはまじめな話なんだからね!」と怒られたのである。「ブッシュを支持し、強いアメリカをのぞみ、イラクでアメリカは崇高な使命を果たしていると信じている、多くのアメリカ国民」にとって、アメリカが大義のためにおこし、息子たちの命を捧げてまでいる戦争には、かなり慎重な取扱が必要となる。
 もちろん、ムーアの毒が一切影を潜めたわけではなく、「華氏911」のなかでもアイスクリーム屋の車を運転しながら、そのスピーカーをつかって、愛国法という名の自由抑圧法を読んでいない議員たちに、条文を読み上げて聞かせてまわる、というシーンや、テロリストと疑われて治安当局のスパイを送り込まれたある平和団体の、実に平和な「テロリストぶり」を皮肉るあたり、ムーア節は健在である。
 しかしやはり、それはあくまで控えめなタッチである。
 「ボウリング・フォー・コロンバイン」であつかった題材、すなわち銃によって人が死ぬというのももちろん深刻な事態ではあるが、やはり国家全体を狂躁と陰鬱のなかに引きずりこんでしまう「戦争」とは次元がちがうのだ。

■■■すぐれたプロパガンダはすぐれた芸術である■■□■

 「華氏911」は、外国の人間がみても十分に「楽しめる」ようにはできていて、それがこの作品の水準の高さではあるが、中心ターゲットはアメリカ国民、「アホでマヌケなアメリカ白人」である。そしてそのためだけに向けて創られた、紛れもないプロパガンダ映画なのである。
 ムーアは、アカデミー賞のドキュメンタリー部門からの撤退を表明したが、それはテレビ放映された作品は対象外になるからで、ムーアは、この映画を是が非でもテレビで流したいという「プロパガンダへの執念」をみせたのだった(eiga.comより)。

 「華氏911」にたいして、日本の論壇の主流は、「プロパガンダ映画」という「非難」を投げつけた。小泉首相もまた「政治的に立場が偏った映画は、あんまり観たいとは思わないね」とのべた。
 この国では「プロパガンダ映画」とか「偏向映画」というのは、芸術である映画、あるいはドキュメンタリーである映画にとって、「死」を宣告されるような“決め”の言葉である。
 いや、さらに言えば、作り手の側が、「プロパガンダ映画」を隠れて意図した場合、あるいは、うっすらとそんな要素を自覚してしまっている場合、こう言われることは何よりも恐ろしいと思っているのだ。
 したがって、日本では「笑いによる権力風刺」という古典的で、歴史も伝統もあるはずのスタイルは、極端に土壌が痩せ細り、ほとんどろくな作品が育っていない。新聞の一コマ漫画はその典型で、せいぜい政治指導者の間柄を男女関係にたとえて揶揄したり、質の悪い駄洒落にひっかけたり、政治指導者の顔をカリカチュアライズするといったことに終始している水準である。とくに、朝日新聞で描いていた小島功のそれはA級戦犯ものだ。本質的に、「笑いによる権力風刺」という文化を忌諱しているのである。

 日本では、「笑いによる権力風刺」ということは、すっかり泥臭いものとして扱われている。
 だからこそ、「プロパガンダ」などとレッテルを貼られると、もうそれだけで震え上がってしまう。かといって、ぼくは「やはり日本はダメなのだ」と賢しらに言って、欧米崇拝をしたくはない。センスのいい笑いの毒を、今日ここから育てていけばいいのだ。

 平板で総花的な、凡々たる「全面」性よりも、研ぎ澄まされた熱狂的な一面性がしばしば人を魅了するというのは、芸術でも宣伝でも同じである。すぐれたプロパガンダは、すぐれた芸術だ。

 プロパガンダ映画万歳!
 二度も見に行ってしまった。


2004.10.1感想記
華氏911公式サイトはこちら
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