相田裕『GUNSLINGER GIRL』

 今回は「虚構」と「現実」、その「ユートピア/ディストピア」についての感想を書く。これは「虚構」について。(「現実」についてはこちら)  

※以下の感想には一部ネタバレがあります。


 本作品は、〈外傷〉のない、〈空虚〉=無根拠な美少女たちが、テロリストたちを相手に苛酷な戦闘を繰り広げる話で、典型的な〈戦闘美少女〉の形象である。

 身体障害者となった少女たちに、義体による加工をほどこし、銃を与え、テロリストを抹殺させる任務を追わせるというのが、あらすじである。体を改造するさいには、麻薬による洗脳をおこない、「フラテッロ」(兄妹)とよばれるチームを組む男性担当官への「条件づけ」、つまり命令への忠実さを植え付ける。
 作品の中心にすわるのは、少女たちの担当官への「愛」であり、銃と戦闘の知識を教えながら、ぬいぐるみの贈り物や、同伴旅行といった、男性担当官たちの武骨な「愛」も表現される。

 〈戦闘美少女〉という造形にくわえ、少女を監禁して奴隷的に飼育し、その少女に愛してもらおうという、ある種のおたくの欲望を再現した、まさに「おたくのユートピア」としてこの作品はある。セックスの直截な表現は一つもないが、このような作品の世界観がいたるところで負のエッジを効かせながら、先鋭的に再現されつづけているのだ。
 この作品は、マンガだけでなく、テレビアニメとして放映されている(「子どもの輸出」を「子羊の輸出」と言い換えるなどの細工がネット上で話題になっている)。斎藤環のところでも指摘したが、それがただちに現実への越境をしないにしても、こうした欲望が、頻発する少女監禁・拉致事件のすぐそばに立っている欲望であることに、もっと自覚的であるべきだと思う。


 相田は、この世界を、少女にとっての〈救済〉として描く。

 これは、エロゲー・ギャルゲーではお馴染みの世界観で、相田が斯界の出身者だと聞けば、それもうなずける。(※1)
 じっさい、少女たちにとって、不幸とは唯一、男性担当官への愛がむくわれずに、その愛が成就しないということのみであって、みずからがおかれた世界や果たしている任務については、一切が不問に付されている。

 世界とは、どのようにも変革のきかない、苛酷きわまるもので、そのなかでの〈幸福〉とは、もはやこのような形でしか与えられないのだ、という命題を、相田は、悄然あるいは諦観的にではなく、堂々と示す。世界をそのように示すことこそがリアルなのだという大もとからの錯覚――しかし、ある種の人々にはリアリティとして感じられてしまう錯覚――がここにはある。少女たちを管理している政府諜報機関が「福祉公社」だというのは、物語上の偶然ではない。ここでは、外的世界の変革にとって、欠くことのできない福祉や人権といった思想が根底から嘲笑され、侮蔑の対象となっている。
 世界が苛酷なものであり、少女たちのつらさも、ときには示されるのだが、それぐらいのギリギリさのなかでしか、リアリティのある幸福は描けないという発想は、この作者に牢固として抜きがたい。それは、「痛みを伴わなければ改革ができない」――自らを痛めつける改革だけが真に効く改革なのだという、時代の妄想にも似ている。

 そして、これ自体は瑣事ではあるが、相田は世界をそのように造形しておきながら、みずからのルサンチマンをこっそりと裏口から招き入れて、鬱憤晴らしをやるのだ。
 撲滅すべきテロリストの造形がそれである。
 たとえば『鉄腕バーディー』(ゆうきまさみ)のような抽象的悪ではなく、本作品での「悪」の対象は、だらしなく現実に越境している。撲滅対象の中心は、イタリア北部の分離運動・反グローバリズム運動(「五共和国派」)であり、ときどき、「赤い旅団」といった現実に存在するテロ集団の名前まで登場し実際に殲滅される。犯人として、「アルバニア人」というこれまた具体的民族名をもちいることも、同様の無遠慮さである。(※2)ある種の2ちゃんねらー的な排外主義と「サヨク」や「市民運動」への怨念を充満させている。吐き捨てるようにテロリストの撲滅を命じるジョゼの顔をみるがいい。



吐き捨てるように命じる。(『GUNSLINGER GILR』2巻より)

 それは余談。本題にもどろう。

 任務(テロリストの暴力的絶滅)の性格はまったく問われることなく、任務を果たすことのみが称揚され、愛の代償として表現される――この思想ほど貧困で、また、あやういものはない。

 石原慎太郎が都知事として「2015年の新東京人」というモデル像を描いてみせたが、そこでは、“「使命感」や「責任感」をもった愛国的人間が”いて、そんな人間にふさわしいように都市をデザインしてあげようというまことにありがたいお殿さまのお慈悲が示されている(『危機突破戦略プラン2000』)。そこでは、一体、何にたいする「使命感」であり、「責任感」なのか、ということは、一切しめされない。企業戦士として独占資本の利潤追求のための「業務命令」への使命感や責任感かもしれないし、アメリカの戦争にすすんで協力し参加するという石原流の使命感や責任感かもしれない。世界をうたがい、使命と責任の内容を問う知性こそ必要なのであって、抽象的任務を果たすことを称揚する世界観ほど危険なものはない。

 『きけ わだつみのこえ』では、出陣する学徒兵は、いったい自分が何のために死ぬのか、ということに煩悶しつづけている。天皇のために銃をとるのか父母のためか、と悩む者、「悠久の大義に身を委ねる」と自らを欺く者、などである。そして、よく対比としてもちだされるのが『戦没農民兵士の手紙』で、ほとんどの手紙には、自分が御国のために死ねること、天皇陛下のために死ねることを「これほど嬉しいことはありません」というむねで表現する。

 天皇と御国への愛のために、喜んで侵略戦争で命を捨てようという戦没農民兵の悲惨は、ヘンリエッタやリコの、担当官への愛のためにいつでも死ぬという思想と、選ぶところはない。



 おたくのユートピアを、客観の鉄槌で粉々に打ち砕いてみれば、露呈するのは、少女にとってのディストピアでしかない。そしておたく自身にとっても、実は荒涼たる現実世界が広がっているだけなのだ。

 世界は変えられるのだ、というメッセージを信じない以上、実は救済されないのは、おたく自身である。


※この感想は「ユリイカ 詩と批評」2003.11月号の佐藤心氏の評論を参考にさせていただきました。

※1 ぼくはMac派なので、エロゲーはしませんし、できません。だから、体験的には知りません。
※2 「赤い旅団」については具体的知識がないので詳細に言及はできませんが(なぜアナキストがそこに属しているのか不思議ですが)、一般的にぼくは、左翼を名乗る者であろうとも、テロリストにたいしては、市民の共同で包囲し、警察によって取り締まり、法によって裁かれるべきだと強く考えており、実際に、テロを撲滅するために、世論で包囲し法で裁けという運動もしてきました。

相田裕『GUNSLINGER GIRL』1〜2巻(以後続刊)
メディアワークス 電撃コミックス
2003.11.15記
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