池田昌昭『JAL123便 墜落「事故」真相解明』

 墜落機のボイスレコーダーはいつ聞いても恐ろしい。
 なかでも、「危機」の時間が長かった123便のボイスレコーダーは、記憶に焼き付いてしまうほどだ。

 ぼくがはじめてそれを見たのは当時の新聞だったが、最近改めて読む機会があったのは、山崎豊子『沈まぬ太陽』を読んだときだった。日航の暗部を壮大な人間ドラマに重ねて暴いたこの名著のなかで、簡易版のそれが全文紹介されており、そのときのパイロット、乗客の気持ちをおもんばかった。

 ぼくは、この墜落事故に少し興味をもち、当時の新聞記事や論評、関連文献などを読んでみた。
 いちばんまとまった全体像をしめしていたのが吉岡忍『墜落の夏』で、新聞報道の中では、意外にも『赤旗』が多面的で詳細な情報を伝えている。

 この事故は、事故調査委員会の正式報告などによれば、大要、つぎのとおりである。圧力隔壁が金属疲労を原因として破壊され、それがもとで機内が急減圧に見舞われる。圧力の変化により垂直尾翼などが損壊し、機は激しいフゴイドとダッチロールをはじめ、制御が基本的に不可能になる。富士山を通過したころ、車輪を降ろしたために急降下を始め、群馬山中で山にぶつかる――。

 だが、この報告には批判が多く、乗員組合などのメンバーでつくった対抗報告では、「急減圧」がほんとうにおきたのか、という点に焦点があてられる。
 急減圧が起きると、機内は真っ白な霧が長い時間続くはずだが、これは一瞬でおさまっている。なにより、急減圧のもとでは、他の事故例では、鼓膜が破れるほどの衝撃をうけるのだが、生き残った乗客はそういう事態が起きなかったことを証言している。
 このため、実は真相は「圧力隔壁の破壊→急減圧→垂直尾翼の破損」ではないのではないか、という疑念がずっとついてまわっている。

 最近、新たな見解や推論が次々と出ている。

 本書は、そのなかの一つなのだが、残念ながらキワモノのたぐい、いわゆる「トンデモ本」の一つになってしまっていると思う。

 いや、実は、筆者の見解は、それほど悪いとは思わない。筆者のように立論するにたる状況証拠はあるのではないかと思う。そのことはぼくは問題にしていない。問題は、筆者・池田の叙述の仕方にあるのだ。これまでまともな出版物でみたことのないような記述と推論がえんえんつづくのである。

 筆者は、最初に垂直尾翼の破損があったとふんでおり、それは圧力隔壁の金属疲労などではなく、自衛隊の訓練標的機ファイヤー・ビー(無人のリモコン操縦)が近くを飛んでいて、それがあたったのではないか、とみている。

 ここまでは、まともな推論だといえる。

 池田がこのあたりではさまざまな傍証を連ねて叙述しているように、この見解は池田の孤立したものではなく、いくつかの似た指摘がある。つーか、池田はその引き写しといってもいい。外側からの力が加わった(つまり何かに衝突した)のではないか(回収尾翼の検証の結果の判断)、回収された破損機体の中に航空機には使わない塗料や部品が混じっていた、乗客の一人が映した写真のなかに右側後方に飛んでいる物体が写っている――などが根拠になっている。

 このあたりは読ませる。

 だが、どうやら、池田はこれくらいの材料を集めた時点で、書きながら推論をすすめるという驚くべき所業をやってのけているようなのだ。そして、そのまま出版物にしてしまっているのである。
 たとえば、標的機を発射したとおぼしき護衛艦の兵装を解説しているなかで、「ソナー」という言葉が出てくる。
 すると、次のページで池田は突然、こう叫ぶ。

「そうだ。『ソナー』で閃いた。
 もしかして、自衛隊は相模湾に沈んだJAL123便の垂直尾翼の残骸、そして標的機の残骸を既にすべて回収してしまっているのではないか」

「手探りで、手探りで進んでいる。 真実よ! 教えて欲しい!」


 「真実よ!」てアンタ……。
 思いをめぐらしていることを、そのまま書く――これはものすごいことだ。
 いや、たしかに、読者と同じように筆者の推論の進行をそのままのせるという手法が、これまでにもないわけではない。
 だから、まあ、ここまではよしとしようではないか。

 ところが、さらに雲行きがあやしくなるのは、次の叙述だ。
 ボイスレコーダーから、謎の飛行物体との衝突が起きたとされる時間の再現をする箇所である。

「何だろう。小さいがかなり速度がある」。
「何なんだろう。通常の飛行機ではないようだ。小さいから戦闘機か」。
「戦闘機かどうかわからない」。
「とにかく接近してくる」。
「なんだかぶつかりそうである」。
「こちらに向かってくる」。

 これは、ぜんぶ池田が推測した操縦士の会話にすぎない。
 ところが、この「ぶつかりそうだ」式の会話がえんえん地の文と会話文でくり返されるのである。
 推察にすぎない架空の会話をえんえんとくり返す。これでかなりげんなりする。

 自衛隊の解説をしている箇所でもなぜか「強大な武力を持つからこそ、人間の熱い心を持った武人集団であるのである」などと意味不明の部分がゴシックで強調される(他にも類似箇所多数)。

 さらに池田の推論はすすみ、「自衛隊の不始末で民間飛行機が落ちたとなると雫石事件のようになるから、証拠を消してしまわねばならない」という論理が自衛隊に働くとみて、「自衛隊による撃墜説」を提唱するのである。

 いや、くり返すが、その結論にケチをつけているのではない。

 この池田の論理の導き方と、無根拠ぶりに驚き呆れているのである。
 池田は、撃墜説の証拠として、地上からの目撃証言と、墜落機体の見た専門家の証言をあげる。
 目撃証言は、バリバリという轟音が墜落直前に響いたことと、二度も閃光が走ったこと、それとオレンジ色の閃光だったこと、などである。それだけだ。墜落機体をみた証言については、「これは普通の飛行機事故ではない」という医師の証言だけである。ここから大胆にも、池田は自衛隊の撃墜説へと「墜落」していく。

 そして、またもや、池田のわけのわからない説教がまじる。

 「しかし『天網恢恢疎にして漏らさず』である。天が張り巡らした網の目は粗いが、悪人や悪事は必ず引っ掛かる。天の網が粗いとし、どんな悪事をしても見つからないとしても、天は見逃さなく、天道はまことに厳正なのである」

 ことわざ辞典じゃねっつーの。
 きわめつけは、第5章で、自衛隊が撃墜をするまでの「小説」というか「戯曲」が挿入されている。全20ページがまるまるそれに費やされるという異常な企画である。最後は、自分が遺族の一人になったようなつもりで「架空の手紙」を書いている。もはや言葉もない。

 この本は、ドキュメントやノンフィクションの書き手の「欲望」というものを、反面教師的に実によく示すものとなってしまっている。ライターは周到に集めた事実のほかに、推論や演説をぶちたくなる衝動にかられる。また取材の対象に過度に思い入れて喜怒哀楽を激しく表現したくなることもある。
 池田は、なんの抑制もなく、それをすべてやってのけてしまったのだ。
 「禁欲的な文章」という言葉があるが、池田はその正反対なのである。
 書き手としての欲望のおもむくままに書いてしまった。

 この本は、123便事件のまじめなノンフィクションとして売られており、紀伊国屋などの大手書店はもちろん、最近、ぼくは地方都市の本棚でも見かけた。
 シリーズも3巻まで出ており、売れ行きが好調だったのではないかということをうかがわせる。

 池田の著作歴をみると『認識論としての弁証法的唯物論』『唯物論と観念論――唯物論「改作」にたいする批判的覚書――』などというものも入っている。

 お前が唯物論を改作しているんだろ、といいたくなる。


 ちなみに、ぼく自身は、事故調査委員会の急減圧の問題に疑問をもっているし、自衛隊の標的機激突については無視し得ない仮説だと思っている。