JRマナーポスターからのJ子ちゃんの消滅

JRのマナーポスターから、「J子ちゃん」(左参照)が消滅した。
実はそれはずいぶん前のことだ。
J子ちゃんとは、そのマナーポスターのなかに登場したイラストの女子高生キャラクターだった。
といって、たとえばその当時、すこしは話題になったガングロとかそういうことではなく、ルーズソックスとミニスカートという点だけに女子高生的記号をまとっているほかは、とりたててフツーの女子高生だった。
カラフルなキャップをかぶった、古典的な子ども然とした弟もついていた。たしか「マモル」だったのではないか。
「マナー向上委員会」などという女子高生らしい生意気な組織をたちあげて、ポスターのなかで乗客や利用者のマナーをぶったたこうというのだ。不遜な試みといっていい。

しばらく、J子ちゃんは車内や駅でのマナーについて、きわめて常識的な注意を呼びかけていた。たとえば、「ホームのそばでふざけるとあぶないよ」とか「ケータイ、めいわくだなあ」とか。

くわしい期限はわからないが、1年ほどで、J子ちゃんは消滅した。

驚いたことに、つぎのシリーズでは、まったく同じ髪型と顔で、こんどは「J子ママ」と、その子「マモル」という人物配置でマナーポスターに登場してきた。
駅や電車でそのポスターをみながら、ぼくは「あのJ子ちゃんも子どもを生んだのか」とわけのわからない感慨におそわれていた。
あいもかわらず、常識的なマナー批判をポスターのなかでくり返している。暴力行為をしている2人を、不安げにそのコマの外から見ているという、それはそれでなんだかシュールなポスターだったりしたが。

「女子高生J子ちゃん」が「J子ママ」にかわったとき、JRには、「やはり女子高生にマナー批判させるのはなんとなくそぐわない」という判断が働いたのだろうとおもう。社会的には女子高生は良くも悪くも破戒的なイメージをもたれている。JRはそのような存在が一般利用客のマナー批判をすることの大胆さに、あらためて気づき、震え上がったにちがいない。
けっきょく、J子ちゃんには常識的な批判しかさせなかったのだ。
そうなれば、J子ちゃんは女子高生である必然性はどこにもなくなる。
そして社会的には良識と常識の敷き居をまたいだ子育てママさんにキャラ替えしたということが、手に取るようにわかる。

しかし、おもえば、女子高生という、一般社会ではマナーにたいしてもっとも反逆的とみられている(あくまで「みられている」のであって、実際にそうだというわけではない)階層が、「マナー向上委員会」をつくって、一般乗客を批判するという試みは、目もくらむような革命的な試みだったはずである。
そして、そこには、文学的な逆説とか、自省的な告白とか、きびしいリアリティとか、そんな新しいマナーポスターが生まれたりしたかもしれないのだ。
たとえば、酔って線路に落ちそうになっているオヤジを、J子があざ笑ったり、大音量でヘッドフォンをかける男子高校生のコードをハサミで切ったあと、車内で無意識にケータイをかけようとしたJ子が仕返しをされて、ケータイを捨てられるとか。

マナーを大所高所から教えるというポスターが多く、しかも「茶髪の若者」を典型的なマナー違反者として攻撃しているものも少なくない。それはだれにむけてつくられているポスターだろうか、とおもう。オジサンたちが、じぶんの倫理を確認して、ポスターの前で満足そうに、フーンと鼻息を出すためのものだろうとおもう。オジサンのなかで自己消費されていくものでしかない。

ところで、なんでもかんでもマナーにするのはやめてほしいなあ。
とくに営団地下鉄。応募方式で一般からポスター図案を山のように募った結果、マナーの種類が収拾のつかぬほどに自己増殖している。
なかでも、電車のなかで化粧するのをマナー違反とするポスターは最悪。たしかに見ていて気持ちのいいものではないが、別に迷惑なわけではないぞ。


(2003.8.13記)