「JUDY」2007年9月号を読む




Judy (ジュディ) 2007年 09月号 [雑誌]  「JUDY(ジュディー)」は小学館から出ている月刊女性漫画誌である。子育て主婦層をふくめ、20代末から30代全般にかけての女性をターゲットにしたと思われる雑誌だ。「ヲンナを楽しむ!コミック誌」がキャッチフレーズだが、随所に「大人のンナ」「ンナの本音」と、「ヲタク」にならった「ヲ」表記をしているのは何故(笑)。

 雑誌自体はたぶん初めて読んだと思うが、一読して感じたのは、非常に倫理的な縛りが強いということだった。
 少なくともこの号は、どれも結末が前向きに明るく、作品中では読者層の倫理観に逆らわないようにしている配慮(意識的にせよ無意識的にせよ)を強く感じた。

 青年誌を読んでいると、アナーキーさがむしろ売りだったりするし、奔放さやダルさを感じるのだが、それと比較すると奔放さやダルさ、ユルさがあまりなく、貞操とか結婚の幸福、家族とかそういう積極的な価値観を称揚していることが強く感じられるのだ。
 誤解しないでほしいが、それは「説教くさい」という意味ではない。おそらくこの雑誌の読者層にとっては自然な形で作品と溶け合っているのだろう。ただそれはぼくのような異物がこの雑誌を読んだときには奇妙な違和感となって残るのである。

 論より証拠。実際に作品をみてみよう。




倫理的罪悪をひきおこさないための設定のアクロバティックさ


 読者の倫理観と欲望の稜線にそって作品を造形した結果、おそろしくアクロバティックなものにしあがったと思えたのは、湊よりこ「あの人のいる電車」であった。

 表紙にあるこの作品紹介のキャッチコピーが「女子高生のように恋をする主婦」であることから、ぼくの勝手な憶測が始まる。
 主婦層の一部が女子高生時代のような「ときめき」が日常に欲しいという欲望を持っている——まずこういう出発点をおくことができる。「レディス・コミック」的な、とろけるようなセックスの欲望でないことに注意をしてほしい。すなわち日常を完全に否定した妄想ではないのだ。
 自分には夫や家族がいてそれは大事にしたいと思っている。また、不倫という自分にハネかえってくるような「凶悪犯罪」は犯したくないとも考えている。日常の主婦生活、パート生活のなかでの、管理できるほどのちょっとした「ときめき」を得たい——ここに重要な欲望の核心がある。

 職場にかわいらしい「オトコノコ」(20代中葉ぐらい)がいるとか、PTAで出会うあの先生ステキねとか、そういうたぐいのものである(余談だが、読者欄でPTAの行事で教師がセクハラのような交流行事をもつのはかんべんしてほしいという投稿があった)。

 しかし、その男とセックスしたりキスしたりする関係を実際に望むわけではないのだ。
 この作品には次のような独白がある。

「あなたと深みにはまりたくない
 キスを望んだり
 あなたに抱かれたいわけじゃない
 だってその先には何もないから…」

 この台詞は、問題の本質を端的に表している。
 実際にセックスしたりキスしたりする関係が始まってしまえば、おそろしく面倒な泥沼がその背後にはあるだけである。そのことを日常の中でおこしてしまうことを考えるだけで「うんざり」するのだ。

 主人公の29歳の女性・咲は、夫がいるのであるが、出勤する電車のなかで出会う同世代のサラリーマンの男性にときめいている。電車のなかでの9分間の「逢瀬」を一方的に楽しむのである。自分の脳内で十二分に管理できる小さな「ときめき」こそ、必要なのだ。
 そして本作はその「ときめき」を脳内にとどめず、現実の交流にまで発展させ、セックスやキスまでいかないギリギリのところまで最大限ふくらませる。虚構としての本領発揮といえよう。
 お互いにふとしたきっかけで、万葉集なんか交換しあっちゃったり、電車のなかで手を触れあうところまで行ってしまうのである。キスはしていない! セーフ!

 これだけなら、そう珍しくない漫画である。

 だが、これだけでは、「夫や家庭を置き去りにしてアバンチュールに狂っている主婦」みたいになってしまう。
 湊は、その後ろめたさを消すために、まず夫に倫理的背反を先にやらせる。「夫は浮気相手と旅行中に交通事故に遭った。1年以上も私を裏切っていた」。そして事故によって夫は「脳障害」を負い、おもちゃで遊ぶ子どものような存在になってしまったのである(ちなみに主人公夫婦に子どもはいない)。
 たとえば、夫が浮気し放題、あるいは暴力をふるうだけの存在であったらどうだろうか。「ならさっさと別れりゃいいじゃん」となってしまう。この設定の一つの妙は、すでに愛情がなくなった夫ではありながらも、なおかつ「家族」という愛情共同体を裏切ってはならないという十字架を主人公に背負わせていることである。すでに愛情がなくなった夫ではあるが、それを「介護すべき」存在にしてしまうことでこの絶妙なバランスを失わせないでいるのだ。

「私にとって あなたはもう夫じゃない
 でも情というか… 母親のような気持ち
 あなたの浮気のことはもう恨んでないよ
 結婚指輪は一生外さないけど」

 咲の独白である。夫が倫理的裏切りをしていたのに、家族としての責任から別れずに介護をしつづける——この設定によって、咲は倫理的優位性を確保する。
 もし咲夫婦に子どもがいたらどうなるだろうか?
 その場合は、咲は「いつ別れてもいいのに別れない」という十分な倫理的優位を確保できなかったに違いあるまい。

 すでにこの段階で倫理的罪悪を引き起こさない設定が幾重にも施されているのである。これがぼくが冒頭に言った、「読者の倫理観と欲望の稜線にそって作品を造形した結果、おそろしくアクロバティックなものにしあがった」という意味である。
 しかし、さらに本作は、厳重に設定を積み上げる。

 電車の中で数分の「恋」を楽しんでいる男と「結ばれて」しまうという結論にしたらどうなるだろう? 夫には愛情はない。夫は十分に背徳を重ねてきた——もう十分ではないか。咲が夫と別れて新しい人生を踏み出すことに何の問題もないはずだ。普通、読者はそう思うのではなかろうか。
 しかし、結ばれてしまえば、「介護が必要になった夫を捨てて新しい男と結ばれた女」ということになる。いかに倫理的管制高地を確保したとはいえ、なんだかなあという結論ではなかろうか。
 逆に結ばれなければ、ストーリー上の不自然さが残る。

 結論にきて、この作品は重大なアポリアを抱えることになるのだ。

 そこで作者・湊が考えたことは、電車の男・敦志に「妻子」がいるのではないかと咲に「誤解」させることだった。
 本当に妻子がいたことになれば、不倫になってしまう。
 敦志という男の魅力も半減だ。
 ならばと、作者は、敦志を姉と同居させた。そして、敦志の妻を、「育児ノイローゼで子供を置いて出て」いった存在にしてしまい、敦志はシングルファーザーで姉と同居しているという設定に落とし込んだのである。
 咲は、敦志が娘・姉とお出かけしているのを偶然に見てしまう。
 咲は自分が不倫にふみこむわけにはいかない、と考えてこの恋の進展をあきらめるのである。

 結局、咲は、敦志がフリーであることを最後まで知らずに別れることになる。咲は来世できっと結ばれたいと願ってこの話は終わるのだ。
 むろん、以上に書いた作者の「意図」についてはすべてぼくの邪推である。作者・湊よりこが本当にどう思ったかはわからない。

 いかがであろうか。
 ぼくは、作者が少なくともこの作品において、まず「不倫」という矩を決して越えさせまいとひどく執着していることに驚愕した。さらに読者の倫理を刺激しないように設定をアクロバティックに組み立てていることにまた驚いたのである。
 そしてぼくは、それは読者層の価値観や倫理に極力奉仕するものとしてこれらの漫画群があるのではないかと強く感じたのだ。




読者の倫理や価値観への忠勤


 他の作品についても、「読者層の価値観や倫理に極力奉仕する」という点では、冒頭に述べたように、どれも前向きで明るく、その多くは「愛情というものの価値は至高である」という結末である。
 藤原にこ「結婚相談中」は、彼の母親の反対を押し切って結ばれ、その母親とも和解する話であるし、上杉可南子の「ロマ男にカ・ン・パ・イ」もはじめは酔ってセックスしただけの勘違い野郎を疎ましく思い、会社のデキる上司と結ばれる寸前までいくのだが、やはり真実の愛にめざめてその勘違い野郎を選ぶのである。

 「読者層の価値観や倫理に極力奉仕する」という点では、赤石路代「市長 遠山京香」は今回はいっそう露骨だった。
 型破り痛快女性市長の物語であるが、今回は市長の娘・ありすが学校でいじめに遭う話だった。しかも給食費未納がそこにからむ。
 ありすをいじめる悪の同級生は、給食費を未納にしており、しかも、親が意図的に未納にしているというものだった。「あんなもん一人や二人払わなくたっていいんだよ ほかにもいるしうちばっか言われるこたないんだ」。

 給食費未納を班の学習テーマにしようとしたありすに、その同級生は反感をもち、いじめを始めるのだ。しかし、給食費未納を学習するうちに、同級生自身も疑問を持つようになり、ついには親に抗弁するという、涙なくしては読めない展開(いろんな意味で)
 給食費未納は倫理的悪であり、親の倫理的悪は「いじめ」という子どもの悪へと継承される——それを啓蒙によって解体するという、おそるべきナイーブさがここにはある。

 未納問題は文科省の不十分な調査でさえ、「経済的理由」による未納が3分の1もいる。そのことはここでは捨象されている。
 学校給食はそもそも「学校給食が児童及び生徒の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与する」(学校給食法第1条)とされたもので、教育的効果にとどまらず、国民生活の基礎をなすものであるという重要な位置づけをされている。近年これにくわえて食育基本法が定められ、その前文で「子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも『食』が重要」とされ、食育は「生きる上での基本」とまで定められているのだ。
 憲法26条2項で「義務教育は、これを無償とする」と規定されていることとあわせて考えれば、給食は重要な教育の一環であり、義務教育ではそれを無償の対象としても何らおかしくないはずである。「学力世界一」であり何かと教育先進国として取り上げられる機会の多いフィンランドは無償であるし、日本でも無償にしている自治体はある。
 「遠山京香」にはこのようなメタな視点はない。父母のなかにある不公平感にのみ依拠して、未納は一方的に糾弾され、「啓蒙」される対象であるだけなのだ。主婦をふくめた読者層に極力奉仕するというこの雑誌の真骨頂がここにある。




なぜフリーターのままでいさせなかったのか


 湊よりことは別の意味で、結末のアクロバティックさが面白かったのは小野佳苗の「山口さんちの事情」であった。トビラに、「人もうらやむ3高夫 35にして幸せな結婚にすべりこんだ……つもりでした」とある。

 T大卒のエリート社員・ケンタをつかんだはずだったのに、子どもができたとたんに夫は自由にあこがれて企業を辞め、フリーターになってしまう。
 このご時世、自由にあこがれて「一流」企業をやめてフリーターになる、というのもどうかと思うが、ハウスメーカーのデザイン部につとめて年収600万円もある主人公はひいこらいいながら働くのだった。
 ある日、ピザ屋のバイトをしているケンタを見かけてしまい、エリートに戻る気がないケンタを主人公は叱責する。ケンタはエリートに戻ると決意するのだが、主人公は自分のわがままを反省し、「いいよもう エリートなんかに戻んなくても」とケンタの今を受け入れるのである。

 35歳の女性で600万円もとれるというだけでも(ぼくの年収のン倍)、なぜそれを手放したいと思うのか不思議である。
 しかし、とにもかくにも主人公はフリーターであるケンタを受け入れ、「あたしが頑張るっ!! 二人ならこんな日本でも家ぐらい買えるわよっ」と奮闘を決意するのである。

 まあ、ここまではいい。
 小野はさらにこの後に一つの後日談を用意している。

 ケンタは、自分の才能をいかしてネットで起業し、大もうけをするのである。主人公は小さいながら「夢の社長婦人ママ」となるのである。いわば「勝ち組フリーター」というわけであろう。
 しかし、なぜ作者・小野は、ケンタを非正規雇用のまま、あるいは単なる主夫のままにしておかなかったのであろうか。
 決意をした主人公への「ごほうび」としてのプレミアムなのかもしれないが、「フリーターのままではイヤ」、「分別もないヒモみたいな男を拾ったというのでは許せない」というのが作者と読者のホンネではないだろうか。ラストにこういう刻み込みを入れてしまい、倫理的に「全き」ものにしてしまうというあたりが、ぼくは他の作品とあわせて強烈に印象に残ったのだった。

 ぼくが読んだのは今月号だけなので、早急な結論を下す訳にはいかない。
 が、少なくとも今号を読む限りでは、政治漫画が絶対的にポリティカル・コレクトネスを外さないのと同じような意味で、倫理的罪悪を犯すことを許さないのだと思った。そしてそうした作品を読むことは決して単純な「硬直」なのではなく、読者層にとってはある種の快楽なのだと知ったのである。 






小学館
2007.8.19感想記
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