松竹伸幸『レーニン最後の模索』



左翼仲間のレジュメを見て思うこと

 左翼仲間がマルクス主義を組織内でどう教えるのか、レジュメを見せてもらったり、実際に自分が聞いたりすることがある。

 ほとんどの人の話には、資本主義の胎内に未来社会の萌芽が宿り、それが育っている、という点についての言及がない。あってもそれはせいぜい資本主義が生産力を爆発的に解放している、という点くらいだ。

 マルクスが社会主義というものを自然史的な必然性でとらえたのは、資本主義が矛盾に満ちたエネルギーによって自壊するという点にではなく、まさに次の社会を準備するものが資本主義の胎内に育っていることにそれを見たからである。株式会社、協同組合、資本主義的国有企業、銀行などといったものがその具体例となる。
 それだけではない。
 工場法のような資本を規制するルールや、生産の社会化の進展が経済を社会的に管理する物質的基礎をつくりだすことをマルクスは見据えていた。

 だからこそ、ぼくも『理論劇画 マルクス資本論』を直す際にそのことを強調したものにしたし、そもそも門井版の旧著は工場法をめぐる闘争をかなりのページを使って書いていた(今回の新版でもこれはそっくり活かさせてもらった)。マルクスは『資本論』のなかで工場法の成立を〈新しい社会の形成要素〉(新日本版3分冊、p.864)と呼んでいたのだ。

 なのに、ぼくがいる左翼組織の面々は(幹部連中についてはよく知らないが)このことへの関心が非常に薄い。社会主義の話になると、「そんな時代はいつ来るかねえ」とため息をつき、「生産手段の社会化というのはイメージがわかない」「いやいや、そんなものをイメージしてはいけない。それは青写真論だ」とかいう話にすぐなる。

 ちょっと知っている人は、マルクスの共産主義イメージは協同組合なのだ、とか言う。

 こういうのって、どれもおかしい、とぼくは思う。
 新社会の萌芽はすでに資本主義の中に育っているのだ。それをきちんと見据えてそれを育てていくことこそ、共産主義者ではないのか? 社会主義の物質的な基礎のみならず、制度的な萌芽さえもないのに、革命をしました、過渡期が始まりました、じゃあ一つひとつ作っていきましょ、みたいな話になるわけないじゃないか。いくら国民の合意で社会主義に進むとはいえ、いまある制度とは別のものから出発して、そこから政治的合意をとりつけて徐々に作っていくなんてできっこないのである。そういう考えだから、「未来社会は協同組合だ」などということが平気で言えるのである。

 過渡期はかなり長くなるとマルクスは考えていたらしい、ということも、悪用されてこうした妄想に拍車をかけている。過渡期はむちゃくちゃ長〜いんだから、その間にはかなり制度やしくみの根本改造とか、協同組合みたいな新しいシステムを社会全体につくることも出来るだろうと考えてしまうのである。

 松竹伸幸『レーニン最後の模索』の書評の話のはずなのに、なんでこんなグチみたいなことをえんえん書いているのかというと、松竹の本書における、ぼくにとって最も刺激に満ちた部分、というか共感することしきりの部分というのは、実は「補論」として載せられた「ソ連崩壊は国際政治をどう変化させたか」という一文であり、そこで書かれていることは、「あなたはぼくの生き別れの兄さんでは」と思わしめるほどに共通した問題意識を感じたからである。
 そして、そのことこそが、実はレーニンの実践を今振り返る、左翼の側の態度や構えに通じているのである。




ヨーロッパ経済に社会主義の方向はないのか

 松竹はこの補論で、タイトルのとおり、ソ連崩壊が国際政治にどうプラスの変化を与えたのかを検証していっているのだが、なかでもヨーロッパ資本主義をどうみるか、という点で、ソ連流のヨーロッパ資本主義観の呪縛から離れてヨーロッパを社会主義の萌芽が育っている(かどうか)という場所としてとらえ直せ、と松竹は主張していることがぼくの目を引いた。

 ヨーロッパに社会主義の方向性が生まれているかどうか考えようという問い自体が、狂気の沙汰のように思えるかもしれないと松竹は断った上で、

〈だが、まずはっきりしていることは、もし日本の社会主義的未来というものを真剣に考えるなら、真っ先に研究すべきはヨーロッパだということである〉(p.164)

と断じる。

〈資本主義の矛盾とか、危機とか、そういうものから社会主義の必然性を説くような、一面的な立場であってはならない〉(p.165)

〈そうではなくて、資本主義が発展している場合、そこには、社会主義のメルクマールである生産手段の社会的所有という角度からみて、「これは萌芽的な形態だ」と思えるものが生まれているはずなのだ。「物質的な諸要素」とはそういうことである〉(同前)

 そして、マルクスが協同組合や株式会社、資本主義的国有企業、カルテル、トラストなどに注目していたことをあげている。

 そして、

〈社会主義というのは、生産手段が私的に所有されているという現在の形態ではその目的を実現できないと考え、株式会社などを、社会的所有に移していくことだ。現在は、従業員や消費者、地方自治体への責任を果たすということにとどまっているが、それらの当事者(現在はステークホルダーと呼ばれている)が所有者にもなっていくということだ。
 どうやったらそれが実現するのか。ステークホルダーが株主になっていくのか。あるいは取締役会などにステークホルダーが参加し、利潤獲得という原理と同時に、従業員や消費者、地方自治体の利益を守るという原理を調整していくことになるのか。私にはみえてこないが、それは、そういうことが問題になる世代が考えることなのだろう〉(p.170)

と言っている。社会主義においての具体的な形態はたしかに今からあれこれ青写真を描いてもしょうがない話なのだが、ステークホルダー論、企業の社会的責任論という回路が実は社会主義への萌芽を準備しているものではないかという目が必要になるのだ。

 これはぼくの考えていたこととまったく重なる。なーんていうと、松竹の価値を低め、ぼくが不当に偉ぶっているように見えるのでそんなふうにはいわない。松竹は、ぼくの思っていたことをはるかに何倍も豊富化してここで述べているのだ。

 ただ、ぼくは社会主義について勉強会を開いて講師役のようなものを務めるときは、必ず資本主義の中に育っている物質的基礎についてかなり語り、これまで労働時間規制、社会保障制度、温暖化抑制の地球的枠組みなどを紹介することにしている。加えて、松竹の指摘するスーテクホルダーなどについて論じる。今ぼくらが「派遣切り許すな」といって大企業の雇用に対する社会的責任を果たさせる運動をしているのはそうした未来へつながっているのだと話している。
 だからまあ松竹の言っていることに、少しは似ているわけですよ!

 松竹はさらにふみこんで、ヨーロッパは革命無しに多くの達成をしたともいえるが、〈同時に、そう考えると、ヨーロッパでは、ロシア革命のようなかたちの革命はなかったけれど、別のかたちでは革命があったという理解も可能である〉(p.167)という大胆なところにも踏み込んでいる。

〈主権在民で選挙をくりかえすことが、そして自分たちが選んだ政権に対し、圧力をかけつづけてきたことが、主権を行使してきたことであり、事実上は革命を代替していたのだともいえるのではなかろうか〉(p.167〜168)

 それは改良主義ではないか、構改派ではないか、という議論もあろう。ぼく自身はヨーロッパの社会民主主義政権がやってきたことをどう評価するかずっと考えてきた。ぼくは今のところ、あれは革命ではなく改良の積み重ねでそこまできたのではないか、と思っていたのだが、こういう考え方もできるのか、というふうに驚かされた。
 いずれにせよ、社会民主主義とマルクス主義を理論的絶対対立のもとにとらえるソ連流の解釈からはもう自由であってもいいのだから、そこも含めて再検討されてしかるべき問題だろうとぼくは思う。




目の前の現実と格闘するという姿勢

 資本主義がゆきづまっているのではないか、と考える人は少なくない。しかしそのオルタナティブは「よもや失敗して滅亡しつつある社会主義ではあるまい」と多くの人は考え、ハナから選択肢にも入れない。そのことが、解決の選択肢を狭くしているのだが。

〈いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではなかろうか。
 もちろん、その際の社会主義というのは、七〇年代に考えられていたものとは違うものだろう。何よりも、目の前の資本主義の現実と格闘し、そこから生まれた選択肢でなければならない〉(p.175)

 こう松竹は主張する。〈何よりも、目の前の資本主義の現実と格闘し、そこから生まれた選択肢でなければならない〉——ここにこそ松竹が本書で主張したい核心があるといえる。

 松竹は補論ではなく、本論(ネップ論)の最後のあたりで次のように述べている。

〈現在、ポスト資本主義の道を探っていくうえでも、資本主義の枠内での改革をめざしていくうえでも、大切なことは目の前の現実である。その現実のなかに、新しい社会への要素があるのかないのかを見極めることが、変革を成し遂げるうえで不可欠なのである〉(p.128)

 松竹は、マルクスやレーニンが協同組合を強調したからといってそれをくり返すことは愚かしいことだというむねのことをクギをさす。松竹によれば、マルクスの近くやレーニン時代のロシアではたしかに協同組合の発展は身近な現実だったが、二次大戦後の資本主義の現実では協同組合企業はみるべき発展をしなかった。むしろ株式会社が急速に発展し、株主となって発言すること、社会的投資をすること、などその社会的規制こそが「企業の社会的責任」概念とともに大きなテーマになった。

 資本主義の目の前の現実の中に次の社会の要素を見出し、そこと格闘していくとはそういうことではないのか、と松竹は言いたいのだ。そこまでは松竹は言っていないが、ぼく流に解釈させてもらえば、協同組合企業うんぬんに熱中する前に、株式会社を民主的に規制するしくみを考える方がはるかに現実的に社会主義を考えることではないかということだ(協同組合企業の現状の運動が無駄だとか、そういうことを言いたいのではない。念のため)。

〈革命後のレーニンの経済建設の事業からまなぶべき最大の問題の一つも、そこにある。レーニンは当面する矛盾、問題を解決することに全力をあげ、成功も失敗もふくめて真剣に総括し、そのことによってあたらしい政策の実施にふみだしていった。ネップ自体が、こうした実践との格闘のすえに誕生したものであるが、ネップを成長させる力も、いかに現実の問題にとりくみ、解決するかというところにあった。レーニンの言明をいくつか紹介し、解釈するだけでは、レーニンの精神ともかけはなれているといわなければならない〉(p.128〜129)
  
 本書は、第1章が「革命前後の時期」、第2章が「戦時共産主義」、第3章が「新経済政策」となっており、レーニンがどうやってネップにたどりついたかを大まかな軌跡でたどりながら、そこに反映した、レーニンがめざす社会主義(過渡期)像の揺れを描いている。
 だからといって、それは昔話でも、一般的な歴史研究でもない。

 目の前の現実と格闘することで過渡期経済から社会主義にいたるまでの道をどう実践的に切り開いたのか、その姿勢に学べ、と松竹は言いたいのであろう。
 レーニンがネップへと到達する思考の軌跡は一種のブレイクスルーであり、それは弁証法の見本そのものだといってよい。思考の劇的な飛躍をそこで共産主義者は学ぶことができるだろう。
 自分の旧来の「理論」が迫りくる現実の前に、粉々に打ち砕かれる。そのときに凡人であれば、現実にただ追い立てられ、現実を追認するだけの現実の奴隷となってしまうにちがいない。それは単なるプラグマティスト、あるいはオポチュニストである。レーニンをそのような人物とみる(少なくともこの時期のレーニンをそのように評価する)見方は少なからずある。
 しかし、最終的に「管制高地」と表現される経済管理の方式へと実っていくのをみれば、レーニンがただ現実に追われていただけではなかったことがわかる。本書のp.120〜122にはレーニンがどのような地点に到達したかが俯瞰的に描かれているので、それをみればよい。

 ネップにいたるまでのレーニンの過渡期像がどう揺れているかについては、個人的に知らないことが多く、いろいろ勉強になった(とくに革命前後の時期)。しかしまあ、そういう関心の持ち方は、ぼくのようなひとにぎりの変態マニアック人間にまかせておけばよい。

 大事なことは、レーニンの姿勢を学ぶことであろう。




内政干渉論と中国論も刺激的です

 補足。
 補論の「ソ連崩壊は国際政治をどう変化させたか」は上記のような論点以外にも実に刺激に満ちている。2点あげておこう。

 一つは、内政干渉論。
 ある国の人権問題について何かいうとそれは内政干渉だと言ってきたのは、ソ連であった。ソ連の崩壊で、国連などが他国の人権状況についてあれこれ勧告したりするのがやりやすくなったという話。

〈はっきりいって、各国の問題点を言葉で批判し、問題にすることは「干渉」ではない〉(p.141)

〈ソ連は、言論で他国の問題点を指摘することまで、なにか国際政治の原則を犯すものであるかのような、そんなゆがんだ見方を世界にもたらした。いまでもそういう考え方が社会主義者の頭の中に残っているなら、ソ連の呪縛から抜けだせていないのだ。一刻も早く払拭する必要がある〉(p.142)

 松竹は明示していないが、ぼくはとっさに中国の国内問題に言及することを想起した。松竹は国際司法裁判所の話をひいて、言論での批判は内政干渉でも何でもないことを明確にしている。

 もう一つは、中国の評価である。くわしくは読んでほしいが、社会主義的視点からかなりはっきりと書いてある。

〈ある国が社会主義として魅力があると思われるためには、社会主義のメルクマールである「生産手段の社会化」が、その国の発展を保証していることが実感される必要がある。ところが中国は、生産手段の社会化をどんどん後退させてきた。その過程で、経済発展をなしとげてきた。だから、ふつうに見れば、社会主義を放棄することで発展したということになるのである。……生産手段の社会化をくずしているのだから、社会主義といえるのかどうかということも、本当は難しい問題なのだ〉(p.163)

 松竹は、中南米とちがって、アジアで社会主義が魅力あるものとして映らない原因の一つに、中国の存在をあげている。

 ここらあたりは大いに議論されてしかるべきものだろう。






松竹伸幸
『レーニン最後の模索 社会主義と市場経済』
大月書店
2009.5.28
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