エドワード・ゴーリー『おぞましい二人』




ネタバレがあります

 娘に読むために買ってきた絵本の一つだ。
 んなわけねーだろ。

 いい漫画がないかなと近所の本屋をうろついているうちに、いわゆる面陳してある本書に出遭ってしまった。
 ゴーリーの本は何冊か読んでいるので、驚きはしないつもりだったが、読み終えて恐ろしく重いものを引き受けさせられてしまった。こういう比較をされて双方が迷惑かもしれないが、宮崎事件について書いた吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋)を読み終えたときの重さに酷似している。もっとも吉岡のそれは数百ページもあるルポだが、本書は60ページほどの、しかも1ページあたり十数文字しかない絵本なのだ。

おぞましい二人  それは1965年にイギリスで発覚した殺人事件をモチーフにしている。荒野(ムーア)に4年にわたり5人の子どもを殺して埋めた2人の男女がいたのである。

 本書はその事件のルポではない。殺人の翌朝の朝食について、ゴーリーが必死で再想像/創造したという訳者の解説をみてもわかるとおり、本書は事件をもとにしてつくられたフィクションである。

 二人の生い立ちから出会いまでの短いページのなかで淡々と紹介されるエピソードは、度肝をぬくようなものは一つもない。しかし本屋での春本の万引きや、安物雑貨屋での客への小さな小細工をほどこすことであるという、成人までの間に紡がれる話を読む時、訳者がいうような〈みじめな生い立ち〉とまでは思わぬものの、そんなところにしか小さな歪んだ愉しみしか見出せない、あまり幸福そうではない人生を思い浮かべる。

 だからこそ、二人が出会ってからお互いの嗜好に〈一目で悟った〉瞬間のおぞましい幸福感はわかるような気がしてしまうのだ。
 事件にむかうまでに二人がその幸福感をどう表現しようか模索する姿が次に描かれるが、それをうまく表せない空しさのようなものが伝わってくる。

 事件自身の描写から発覚、裁判にいたるまでのそれも、淡々としている。精神異常と判決が下されたあと、〈二人は同じ車で病院に連れていかれたが、その後二度と顔を合わせることはなかった。〉と書かれて部分に釘付けになる。

 連合赤軍事件を何となく思い出してしまう。
 なぜかといえば、連合赤軍というのは逮捕まで固い結束感をもっていた集団であり、そのなかで同志感情や恋愛感情などもあったはずだろうが、公判が終わり判決が出た後は死刑だからもう二度とお互いには会えないからである。連合赤軍は公判で内輪もめしたそうであるが、いずれにせよかつては固い「絆」のようなもので結ばれていた人間がもう二度と会うこともなくなる瞬間というのは一体どんなものだろうか、そしてそのあとお互いにどんな気持ちでお互いのことを牢獄で考えるのだろうかと強く想像してしまうのである。

 だが本書はそのあと牢獄で二人がどんな気持ちで過ごしたのかということには何も書かれていない。女性の方(モナ)がどんなふうに閉鎖病棟で過ごしたのかを、またしても抑制の効いた筆致で、書いているのを読んでまた衝撃を受ける。

〈モナは著しく衰え、生涯の大半、ひたすら壁の染みを嘗めて過ごした。〉

 どうしてこんなことを書くのか。
 ぼくらはこのモナという女性に憎悪を募らせるわけにもいかないし、殺された子どもにとって何か浮かばれる話でもない。社会の誰の溜飲をも下げさせない、一級の救いのなさだ。
 宮崎勤がスター気取りのまま処刑された、という事実を聞く方がまだ憎悪の対象とできるだけに、わずかに「救い」がある。
 実際の事件で投獄されている囚人はまだ生きているというのだから、ゴーリーは現実を超えて救いのなさを窮めたということができよう。

 やりすぎだ。
 事実というものはここまで救いがなく、解釈や理解をこえた重さを持っているとでもいうのだろうか。これほどまでにあらゆる救済から解放されてしまったのでは、ぼくたちは生きていけないではないか。人を重い気持ちにさせるのもたいがいにしてほしい。ぼくらは社会とか親とか、もっと「何かのせい」にすることができるはずだ。そう叫ぶことが 何かみっともないようであってもそう叫ばざるをえない。

 そう思いつつ、またページを最初から繰っている自分がいる。




エドワード・ゴーリー
『おぞましい二人』
柴田元幸:訳
河出書房新社
2009.6.16感想記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る