マルクスブームは来ているか?
コンプリート・バージョン



 ソフトバンククリエイティブの「ビジスタニュース」に「マルクスブームは来ているか?」という一文を寄せました。
http://bisista.blogto.jp/archives/1214685.html

 実は編集の方に送った時、さらに長い5000字バージョンをつくって、どちらがいいかを決めてもらったのですが、メルマガということもあり、全体は3000字ほどに収めた上記のものになりました。
 5000字バージョンにはこの間のマルクス解説本のブックレビューの性格を持たせたので、5000字バージョンも公開したい気持ちになり、ソフトバンククリエイティブの担当の方に承諾をいただき、公開しようと思いました。ただ、補正しているうちに、8000字近くにふくれあがってしまったのですが…。




 大きな本屋にいくとマルクス関連本が並べられていて、ちょっとしたブームなんだな、とわかる。『資本論』の売れ行き自身も例年の数倍という話も聞く。

 ぼくは、最近学生とよく接する機会がある。そこでのマルクスの関心の高まりは確かに感じることがあるのだ。ある左翼系団体で今年の新入生に興味のあるものに○をつけてもらったデータがあるのだが、「『資本論』を読みたい」とした新入生は回答者の実に3割にものぼった。佐伯啓思が「私のまわりを見ても、マルクスに関心を持つ学生がこの1、2年でかなり増加した」(産経)とのべていることはあながち誇張ではない。

 にもかかわらず、多くの人にとっては「マルクスブーム? なにそれおいしいの」といったところだろう。「『蟹工船』の次はマルクス」とささやかれたこともあるが、小林多喜二の小説『蟹工船』のときのように40万部増刷、例年の100倍の売れ行き、流行語大賞のトップ10に…というような広がりやふくらみが甚だ弱い。

 「マルクスブームは来ているか?」という問いの答えを言ってしまえば、「本格的なものは未だ来らず」というのがぼくの答えである。

 主に3つの理由をあげたい。




『資本論 まんがで読破』の罪は大きい



 一つ目は、粗悪本が出回ったことである。

 おそらくマルクス本のなかでもかなりの売上をしめたものの一つに、『資本論 まんがで読破』(イースト・プレス)がある。あのホリエモンも自身のブログで紹介している。『資本論』を漫画で描いたというふれこみで、同社の広告をみると外国のメディアから取材が殺到したようである。しかしこの中身はただの「お金をめぐる物語」であって、『資本論』でもなんでもない。しかもどうして剰余価値(もうけ)が生まれるのかという、『資本論』のなかでも核心をなす問題が、ピンハネ=不等価交換によって生じるという説明がなされており、マルクスが絶対にやってはいけない説明として非難した説明の仕方そのものになっているのである。

 この本は相当に評判が悪かったのではないかと勝手に推測する。同社はただちに『続・資本論』を出し、こちらではある程度マトモな『資本論』解説の漫画になっていた。事実上の「改訂」であろう。

 『蟹工船』ブームでは、イースト・プレスの「まんがで読破」シリーズは大いに貢献した。書店のフェアでは小説本体とあわせて、必ずならんでいた。おそらく小林多喜二の本体を読まず、この漫画版を読んで了とした人はかなりの数にのぼったのではないか。イースト・プレス版は、多少弱点があっても中身はちゃんと『蟹工船』だった。しかし、『資本論』はまったく『資本論』ではなかったのである。今から述べる「第二の理由」もあって、「まんがで読破」シリーズは影響も大きく、したがって罪が重いといえよう。

マルクスの逆襲 (集英社新書 494B)  三田誠広『マルクスの逆襲』(集英社新書)もマルクス解説本としてはひどい。「大貧民が救済されるためには、貧富の格差がない社会を実現しなければならない。それは、私有財産がまったくない社会、共産主義社会でなければならない」(p.26)とかもういい加減にしてほしい。テキスト解説本ではないので、もうこれは三田解釈のマルクスだと思って観念する他ない。





『資本論』本文を読むにはマルクスの文章は難解すぎる



 二つ目は、まあ言うまでもないことだけど、マルクス自身の文章が難しすぎる、という至極単純な理由による。『資本論』を手にとったものの数ページで挫折をしたという経験は少なからぬ人が持っているように、マルクスそのものを読み通すのが至難なのだ。『蟹工船』のわかりやすさ、読書としての興奮を考えると、比べ物にならぬほどである。

 現在巷間にあふれている「マルクス本」は、このマルクスの難解さを「やさしく読む」ということにむけて書かれたものが圧倒的に多い。「だいたいお前が解説と構成をした『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)からしてそうではないか」と言われそうだが。

 こうした解説本では、学者ではなく、学者以外の職業の人々が解説したもののほうがわかりやすく書けている、というのは皮肉なところだ。『マルクスる?』(マトマ商事)を書いた木暮太一は広告代理店のサラリーマンだし、嶋崇『いまこそ『資本論』』(朝日新書)は大衆誌の編集者である。『マルクスる?』は学生時代のテスト対策として作成したものが元ネタというだけあって、ぼくは画期的なわかりやすさだろうと思う。木暮は最近では『図解 これならわかる! マルクスと『資本論』』(青春出版社)というブックレットの監修者になったばかりでなく、有料動画にまで登場してマルクスの解説をしているほどだ(下記は無料部分)。

http://business.nifty.com/articles/store/special/10douga/#06

 木暮や嶋の上記の本は『資本論』の中身をかみくだくことに焦点があてられているが、『資本論』第1部の「レジュメ」「コンメンタール」のようになっているものも次々出てきた。的場昭弘『超訳 資本論』(祥伝社新書)や伊藤誠『『資本論』を読む』(講談社学術文庫)はその典型だ。この他、土肥誠監修『面白いほどよくわかるマルクスの資本論』(日本文芸社)や久恒啓一『図解資本論』(イースト・プレス)なども出ている。

『資本論』を読む (講談社学術文庫)  このうち伊藤の本は率直に言ってかなり難しい。ぼくのまわりで『資本論』に挑戦しようとしている初心者をイメージすると、伊藤本を読みこなすのさえ困難を生じる。

面白いほどよくわかるマルクスの資本論―計画主義経済の利点とその問題点 (学校で教えない教科書)  これにたいして、土肥・久恒の2著は第1部の純粋なレジュメと解説である。第1部の基本論点をもれなく拾おうと思えばかなりイイのではないか。土肥本は「労働日」の章の悲惨な労働、「工場主とボヤール」など『資本論』第1部のエピソードをかなり細かく網羅している印象をうけた。参照文献で『理論劇画…』が挙がっているのはちょっと嬉しい。

図解 資本論 ただ、さっきも述べたように、はじめて『資本論』の骨格を、わかりやすい言葉で理解してもらおうと思うと、初めにあげた木暮・嶋の両者にかなうものはなく、ここまで細かい論点の提示が必要かは疑問が残る。大学のゼミなどでは最適ではないかと思った。

 

 漫画で解説する試みは、「まんがで読破」シリーズやぼくがかかわった『理論劇画…』を除けば、弘兼憲史『知識ゼロからのマルクス経済学入門』(幻灯舎)、阿部はるき作画『漫画 資本論 俺たちの90日戦争』(株式会社サンガ)がある。

 どちらも的場が監修者だ。

知識ゼロからのマルクス経済学入門 弘兼本についてはすでに別のところで違和感を表明したが、価値や労働力商品の説明にのこる「不正確」さがどうも気になる。恐慌の説明も「物が売れない時期に生産をし続けると『恐慌』になる」とタイトルをつけているが、マルクスは「繁栄」の真っ最中に恐慌が準備されることを繰り返し指摘しており、こうした「通俗的」解説部分も首を傾げてしまうところだ。

漫画 資本論―俺たちの90日戦争 『俺たちの90日戦争』は全共闘世代のオヤジが派遣切りに遭った現代の若者たちに『資本論』を講義するという体裁の話で、後半では派遣ユニオンの関根秀一郎などが実際に登場し、闘争をどうすすめるかを具体的に描いている。現代の労働者に実際に役立つ書として改造を試みようとしたその志やよし、というべきである。しかし、『理論劇画…』のことを完全にタナにあげて言うのであるが、全共闘オヤジ・織原がえんえん解説をしているグラフィックが続くのはつらいのではないか。しかも説明は難解である。あと、織原がいかにも全共闘経験者にありがちな「マッチョ男権家」っぽい感じが個人的には嫌いである(ある意味リアルなわけだが)。

 

 漫画にせよ解説本にせよ、「マルクスの難しい『資本論』をどうわかりやすく解説するか」ということに焦点があてられている。

 マルクスの難解な文章を読むうちに、ひとは「読めない俺はアホではないか」という悩み、「読める」学者を尊敬してしまうというアカデミズム崇拝のコンプレックスを抱いてしまう。

 しかし、そのようなコンプレックスから解放してくれる本も現れた。

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」  池上彰は『高校生からわかる「資本論」』(集英社)の中で「学生時代には、『「資本論」が読み進めないのは自分の力がないからだ』と思っていたのですが、今になって読み直すと、単にマルクスがわかりやすい説明をしていなかったからだと思うようになりました」と結論づけている。

 そして、池上は自著のなかでマルクスの晦渋加減について、「またわけのわからんことを言ってるね。こういうのは無視していいですからね。これは、趣味でこういう表現をしているので」などと、マルクスの文章の難しさは無意味な難しさであることを吐き捨てるようにして断じている。

 わかりやすく伝える技術を売りにしている、NHKの週刊こどもニュースの「お父さん」役で有名だった池上ならではの言い分である。

 ただ、戦後直後、活字に飢えた人々が、難解で有名な哲学者・西田幾多郎の新全集の発売を待つために3日前から行列をつくり、それが200人にも及んだとか、東大本郷で週刊ベストテン入りをした著者ランキングをみると、昭和30年代は見事にマルクスがトップに来ているとか、そんな歴史的な逸話を聞くと(永嶺重敏『東大生はどんな本を読んできたか』参照)、難しいからといって絶対に売れないということはないようにも思える。




2008年恐慌をマルクスから説明する人の少なさ



 ぼくが「本格的なマルクスブームは未だ来らず」と思う三つ目の理由、そしてこれが一番重大な理由だと思っているものは、現代の最も根源的な資本主義の病理の一つである「恐慌」についてマルクスの見解であるとするものが「定まっていない」ということにあると見ている。

 マルクスブームが始まったのではないか、と思われていたのは2006〜07年くらいからだろうと思うのだが(出版物が多く出始めたのはその直後)、この時期は日本で「格差と貧困」が大きな問題になってきた時期でもある(実はマルクスブームは海外でも見られるのだがここでは度外視する)。

 この「格差と貧困」をマルクスが説明してくれるのではないか、という期待がふくらみ、その声に応えて多くのマルクス本が出版されたのではないかとぼくは見ている。

 マルクスは『資本論』を書いた、とよく言われるが、実際にマルクスの生前に出版までこぎつけたのは3部あるうちの第1部でしかない。マルクスはくり返しこの第1部の改稿を試み、自分の満足するものに仕上げることに余念がなかった。しかし余念がなさすぎて、盟友エンゲルスが「早く後の巻に取りかかれ」と忠告したにもかかわらず、2部、3部を出版する前に死んでしまった。

 今回マルクス本で出版されているものにはこの第1部までを解説しているものが目立つ。そして「資本主義的蓄積の一般的法則」と呼ばれる部分であるが、生産力を巨大に解放して物質的には未曾有のものがつくられるはずの資本主義のもとでなぜ「格差と貧困」が生まれるのかを、堅牢な論理のもとで説明しているのが、第1部である。

 だから、「格差と貧困」を説明してくれる人としてマルクスを読むと大変スッキリするのだ。

 ところがである。

 それ以前にもすでに兆候はあったが、2008年秋におきたリーマン・ショックを本格的な契機として世界的恐慌が始まった。「派遣切り」や「生産休止」などが次々起きるようになった。

 この「恐慌」の説明主として、マルクスは果たして適任者であろうか。

 恐慌の分析こそマルクスの得意テーマ、自家薬籠中のもののように考えてきた人にとっては、意外かもしれない。

 前述のとおり、マルクスは2・3部の刊行をせずに死んだのだが、あとには2・3部のための準備のためのメモが膨大に遺された。エンゲルスは、稀代の悪筆であったマルクスの「象形文字」のメモと暗いランプのもとで格闘したために、すっかり目を悪くしてしまったほどだ。

 マルクスの恐慌論の中心は実は2・3部に収められているのである。

 ところがたとえば「恐慌」みたいなタイトルでまとまって論じている箇所はなく、現行の2・3部の各所で論じられていることになっているうえに、遺されたメモを扱ったエンゲルスはマルクスの意図を十分にくみきれなかった。採用しなかった原稿のほうに大事な部分があったり、恐慌にかかわる信用を論じた部分では、膨大な「注」を本文に組み込んでしまったり、研究のための議会報告書の抜粋を載せてしまったりしているのだ。

 これではわけがわからないもので仕上がるはずである

 「格差と貧困」についての説明は、今回出たマルクス本はかなりそろっているのだが、恐慌をマルクスはどう説明したか、という点になると驚くほどバラバラだ。「格差と貧困」を論じた主舞台である第1部はマルクス自身が何度も改訂したのに対して、エンゲルス編集の『資本論』2・3部が上記のような状態で刊行されているのだから、このバラバラぶりは無理もない。

 こういう原稿の状態であるが、それでも「マルクスは生産と消費の矛盾を恐慌の原因として論じた」というのが有力な定説の一つになっている。利潤を求めて爆発的に解放される生産力にたいし、貧困に沈められている労働者大衆の消費の狭さが恐慌の究極的な原因なのだ、と。

 しかし、「2008年の恐慌は金融恐慌」であり、それが実体経済に波及した」と考える論者が多いから、実体経済における恐慌について論じたマルクスの恐慌論本体にはあまり出番がない、とひそかに思っている論者が少なくないのではないかとぼくは見ている。

 そうすると、今回出たマルクス本の多くが2008年恐慌についてはほとんど論じないか、マルクスが信用や貨幣について論じた部分をあれこれ使って、もっと直裁にいえば、マルクスの言及に“ひっかけて”今回の恐慌を論じるというものが圧倒的多数である(ぼくの解説した『理論劇画…』もこの範囲のものであると見なされても仕方がないだろうが)。もしくは「資本主義の矛盾」ということだけでマルクスとひっかけるだけで、マルクスを事実上離れて2008年の恐慌を論じるものさえある。

 たとえば、木暮が監修した『図解 これならわかる!…』は「『資本論』から08年金融危機を考える」というコラムをのせ、今回の恐慌を『資本論』第1部第三章にかかれている「支払手段」としての貨幣の役割から説明しようとしている。たしかにマルクスは貨幣のこの機能を「恐慌の可能性」として説明している。しかし、それはこのコラムが書いているような「恐慌の必然性」ではない。マルクスはミル批判をするなかで、恐慌の可能性から恐慌を説明するやり方を厳しく批判しているのだ。

 

 イースト・プレスの『続・資本論』も信用論のなかで恐慌を論じ、信用の連鎖の破たんとして恐慌を説明している。

こんな時はマルクスに聞け―いったい世の中どうなっているんだ!『資本論』から世界を見る  高島康司『こんな時はマルクスに聞け』(道出版)は、第1部の要領のいいまとめとしては使えるものの、後はほとんどマルクスを離れているといって過言ではない。いちおう「マルクスの『資本論』では…」といったようなフックはすべてのところにちりばめてあるのだが、実際には「マルクス経済学」的な用語と解説をしているだけで、これでは「マルクスに聞いている」ということにはならない、というのがぼくの感想だ。

 

マルクス『資本論』入門 (KAWADE道の手帖)  あと、河出書房新社から出ている「KAWADE道の手帖」シリーズの『マルクス『資本論』入門』での恐慌の説明(長原豊)は正直さっぱりわからない。学者の悪文が全面開花している。

 「さて、〈恐慌とは、何か?〉──恐慌とは資本の周期的な自己批判である。それは社会の全面において激発する。これだけのことです」(p.79)という規定を読んで意味がわかる人はほとんどいまい。後に続く解説を読めばわかるだろうと思って読むのだが「このキー・ワード〔「周期」性・「全面」性・「激発」性〕を意識し、みずからを外部なき円環運動として樹立することを夢見る資本、『自己』にナルシスティックに言及することだけを動力として円環する資本という側面を強調して言い換えれば、恐慌とは、資本が『自己(しほん)』に対して『全面』的で『激発』的な批判を強いられる『周期』的運動の一局面なのです」(同前)。さっぱりである。さらに続く。「敢えて、こうも言ってみます。すなわち、恐慌とは、資本にとっては寝覚めの悪い夢からの周期的覚醒、あるいは資本の無意識が鮮明に語る繰り言的な譫言(うわごと)です」(同前)。

 オマエの説明こそ「ナルシスティック」で「繰り言的な譫言(うわごと)」だ、と断ぜざるを得ない。

 

 

 マルクスの恐慌論そのものから2008年の恐慌を論じたマルクス解説本はほとんど存在しない。

 日本のマルクス学派は宇野弘蔵という経済学者の影響が強いのだが、宇野が組み立てた恐慌論はマルクスの様々な見解を組み立ててつくりあげた独自のもので、マルクス自身の恐慌論とはいえないものである。

マルクスは生きている (平凡社新書 461) マルクスの恐慌論本体をもう一度マルクスの原稿を精査しなおすことで復元しようと試み、それを解説本レベルにわかりやすく描き直し、なおかつそれで08年恐慌を論じている、唯一といってよい試みは不破哲三『マルクスは生きている』(平凡社新書)であろう。

 マルクスの恐慌論には、(1)恐慌の可能性——物々交換ではない市場経済では売りと買いが分離しているので、どれだけ売れるか分からずにモノをつくるのでそれが恐慌を起こす火種となる(2)恐慌の原因——利潤を求めて過剰な生産がなされ、搾取によって貧困に押しとどめられた労働者大衆の消費が矛盾する——という二つの柱がある。しかし、不破によれば、それだけでは恐慌の説明にならない、という。

 不破は現行の『資本論』には失われた環(ミッシング・リンク)があるとみている。マルクスが書いていないのではなく、マルクスは草稿に書いているのだが、エンゲルスがそれをうまく反映しなかったというのである。その失われた環とは、恐慌が現実のものになるメカニズム——恐慌の運動論である。

 資本主義の市場のもとでは需給法則が働くので、モノをつくりすぎたと思ったら普通は資本は撤退する。恐慌の場合、それがなぜ修正不能のところまで不均衡が累積してしまうのかが説明されなくてはならない、と不破は主張する。

 そして、その不均衡を累積させる運動メカニズムを、マルクスは『資本論』の各種草稿で論じている、というのが不破の研究の結論なのだ。それを一言でいうと、「架空の需要」が積み重なっていくということである。

 不破は草稿研究を通じて、マルクスがどのように恐慌論を組み立てようとしてしていたかを忠実に復元しようとする。

マルクスと『資本論』〈1〉再生産論と恐慌(上) そして、不破は08年恐慌の発端であるサブプライムローンの問題を、「架空需要の累積」として説明し、マルクスの恐慌論の本体から説明するという挑戦をおこなっている。『マルクスと『資本論』 再生産論と恐慌』(新日本出版社)などで『資本論』のテキストクリティークを積み重ねてきた不破ならではの成果であろう。

理論劇画 マルクス資本論  いまマルクス派に圧倒的に不足しているのは、08年恐慌をマルクスそのものから説明する試みである。しかもそれはマルクスのあれこれの言及にひっかけて論じるのではなく、マルクスの恐慌論そのものを復元し、それと現実との距離をきちんと計ることなのだ。

 本稿の最初の問いに帰れば、マルクスブームが本格的なものになるかどうかは、その努力にかかっているのだろうとぼくは思う。









2009.12.14記
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