ジョー・サッコ『パレスチナ』



 パレスチナにかんする「映像」をしばしば見かける。
 たとえばイスラエルの侵攻や報復攻撃によって負傷した住民たち。
 救急車をはじめとする住民の激しい混乱。

 「映像」というもの、あるいはもっと端的にいえば「事実」というものは別に撮影者の思い通りであるとは限らない。というか絶対的にそうではない。
 だいたい「コレだ!」という映像が撮れたにしても、それはあくまで「だいたい」なのであって、撮影者の「思い通り」であることはない(ただ、思惑をこえるからこそ事実の生々しさが浮かび上がる場合があるわけだが、それはここではおいておこう。問題は「思い通り」かどうかなのだ)。

 そして一つの映像画面には、本質以外の雑多な情報が実に数多くつめこまれている。
 たとえばイスラエル軍に撃たれたパレスチナの少年が病院に運び込まれる映像。
 少年は必ずしも苦痛に満ちた表情をしているわけではない。
 遠くや周りで騒いでいる大人もいるが、事態をのみこめずに普通の顔をしている大人もいる。談笑している人まで入ることもある。
 概して「平凡な」映像では、雑多な情報の前に、本質がぼやけてしまっていることが多い。
 パレスチナ問題に限らず、映像によるルポが、ボヤけた印象を残してしまうことがあるのは、このためである。文字で書かれたルポの方が、はるかにクリアに事態の本質を伝えることが少なくない。

 映像が事実に強く拘束されるのにたいして、漫画は驚くほど自由だ。
 その気になりゃ、安倍晋三にストリップをやらせることもできるし、ブッシュを銀河系の外れで宇宙遊泳させることもできる。筆一つで。

 つまり、自分の中にある「心象風景」を思いっきりふくらませて、その本質だけをクリアに描き出すことができるのだ。しかも、文字よりも強いインパクトで。

パレスチナ  本作は1991〜92年にパレスチナに滞在したアメリカ人漫画家による、ルポルタージュだ。

 この漫画では、まず、今述べたような漫画の自由自在さが最大限に活かされている。

 たとえばこうだ。

 イスラエルの側でパレスチナとの連帯を表明する「ピース・ナウ」の集会が描かれる。集まった無数の人々の顔は、穏やか……無表情に近いものがある。それは均整のとれた精神をあらわしているようでもあるが、どことなしに当事者としての切迫性の薄さの表現のようでもある。
 サッコが集会で出会って話をきいた男の顔もまさにその中の典型的な一人の表情として描かれている。どことなく穏やかで、切迫感がない。男は軍の一員であり、〈おれはシオニストで強いイスラエルであってほしいと思っている 強いからアラブの連中たちはおれたちを海に追い出すのをあきらめ、いま話し合いをしようとしている〉などと平然と言ってのけるのだ。
 〈自分たちが映っているテレビを見ようと家にむかう〉というサッコの言葉のとおり、集会という「ひと仕事」を終えて帰っていく「ピース・ナウ」の人々の穏やかな顔を描く。

 直後に、近くでおきたパレスチナ人たちの「ミニ・デモ」。
 こちらは表情がまるで違って描かれる。
 目をむき、今にもかじりつきそうな歯を露にし、叫んでいる。

〈午後じゅう聞いたデモの声より、この2分間でデシベル(音量)があがっていた まるで自分たちの生命がかかっているように叫んでいた〉

 両者の切迫感の差を、映像はこれほど的確にはとらえきれないだろう。
 サッコの漫画は自らの心象風景を見事にデフォルメし、事態の本質を映像以上にクリアに読者に伝えている。

 奇妙なアングル、わざと狂わされたパース――こうした手法によってもサッコは、何かを捨象し、何かを誇張する。
 たとえば、ヘブロンを闊歩するイスラエルの青年たち。サッコは彼らのもった銃を大きく描いて、彼らの顔を下からの見上げるようなふうにとらえ、銃に依存した彼らの傲岸不遜さ、未熟さ、青臭さを見事にとらえる。
 あるいは、ぬかるみ、水たまり、そしてぬかるみに汚れた靴を誇張して描く。そのことによって、整備の放置されたガザの「情けない光景」が読む者に迫ってくるのだ。

 逆に、ガザの難民キャンプを、まるで屏風絵のように見開きいっぱいに描いたものもある。そこには、本質を伝えるどころか、一見「雑多な」情報ばかりがつめこまれているようにも見える。
 しかし逆なのだ。
 巨大な水たまり。
 あふれるゴミ。
 泥だらけの車。
 トタンに石をおいただけのバラック……。
 そうした一つひとつが、この街の貧しさを浮き彫りにするために全力で奉仕しているのである。これは雑多な映像ではなく、きわめて本質的な絵なのだ。

 まさに、漫画のもつ自由さを、サッコはフルに活かしている。


 しかし、これは同時に危険もはらんでいる。
 そのことについて、漫棚通信ブログ版は、まったく的確にこう書いている。

〈ルポや報道においてマンガの特徴はどこにあるか。リアルや臨場感では映像にかなわない。緻密な論理構成は文章にかなわない。しかしマンガにおいて風景や登場人物の外見・表情は、一度作者の眼をとおったものが再構成されたものです。……その結果、マンガでは作者が注目させたいものに読者を誘導し、読者の感情をゆさぶることが可能になります。/これがマンガの利点でもありますが、制作側にはより高い倫理が求められることになります。コミックス・ジャーナリズムは他メディアのジャーナリズム以上に、プロパガンダに堕する危険性をはらんでいるからです。/その点、本作品は著者のすぐれたバランス感覚によって成功していると考えます〉
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_4c1f.html

 そう。
 たとえば、『ゴー宣』をもちだすまでもなく、漫画は政敵を豚のように描くこともできるし、自分の同盟者を「高潔な闘士」のように描くこともできる。
 自由であることを裏返せば、どんどんタガをはずして自分の欲望どおりにデフォルメしていこうとする気持ちに抗えなくなるという危険をはらんでいることでもあるのだ。もちろん、サヨだって他人事ではない。

 しかし、本書は、漫画の自由さを最大限に活かしながらも、それにふりまわされる一歩手前で、実に絶妙な均衡を保っている。


 そのもっとも「見事な」表現は、イスラエル官憲による拷問の描写だろう。とくに「おだやかな圧力2」にでてくるガッサンのケースだ。

 官憲たちは特別に歪んだ顔で描かれるわけではない。あるいは、拷問で苦痛に歪む顔が大仰に映し出されるわけでもない。
 むしろコマ割は、精神の均衡を保つように、均等に割られ、まるで映画のフィルムのようでもある。

〈頭に袋をかぶせられ、うしろ手に縛られた。袋はいやなにおいがした。小便くさい〉
〈小さなイスにすわれといわれ、手はきつく縛られた。左手は鉄のバーかパイプに、右手はイスのうしろに縛られた〉
〈1時間たつと肩が痛くなった〉

 このように淡々と、そう、実に淡々と事実が語られていく。

 ページがすすむにしたがい、均等に割られたコマはいっそう小さくなり、幻覚や痛み、事態の推移、暗黒の略式裁判の様子などが急速なテンポで読者の心に刻み込まれていく。そのストイックな筆致が逆に拷問の苛酷さを浮かび上がらせる。

 そしてこのエピソードの結末部分において、サッコはアジテーションとは真逆の、最大限の禁欲性を発揮し、驚くほどの効果をあげている。まったく「見事」というほかない。

 まさに、この漫画の自由さと、それを統御する精神の均衡――この二つをかねそなえてこそ、「コミックス・ジャーナリズム」は可能であり、サッコのこの作品はその課題に立派にこたえたものだ。
 「コミックス・ジャーナリズム」という分野が成立しうるという、たしかな証拠である。


 サッコの写真は裏のカエシに載っているが、なかなか男前である。なのに本文に登場するサッコの自画像は、ことごとくメガネザルのように滑稽だ。こうした自虐的な客観精神も、自分を徹底して美化する『ゴー宣』とあざやかな対照をなしているといえるだろう。





ジョー・サッコ『パレスチナ』
訳:小野耕世
いそっぷ社
2007.5.26感想記
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