せきしろ『去年ルノアールで』



 福岡にきて驚くことは、「ルノアール」がないことである。「R25」がないことも初めて知ったりしたが。

 首都圏で生活したことのないあなたのために解説しておこう。
 「ルノアール」とは正式名称を「銀座ルノアール」という、喫茶店のチェーン店である。
 ただの喫茶店ではない。
 いや、ただの喫茶店なんだが、一つの重要な特徴がある。

 それは非常に寛容な喫茶店だということなのだ。

 すべてを赦し、受け入れる、まるでマザー・テレサのような喫茶店、それが「ルノアール」だ。宗教戦争や民族紛争などをしている場所に設置したらいいかもしれない。自分たちは何にこだわっていたんだろう、と武器を捨て抱擁しあう光景が、その異郷の地にできた「ルノアール」で展開されるだろう。

 「すべてを受け入れる」喫茶店。
 そうなのだ。
 ファミレスはこの境地に近いのだが、それでもファミレスで寝ていると店員が起こしにくる。
 しかし、「ルノアール」は違う。
 ベルベットのフカフカの座席。「さあ、ここでくつろいで下さい。寝て下さい。癒されて下さい」といわんばかりの座席ではないか。あの魔力に勝てる人がいるだろうか。いや、いはしない(反語)。マクドナルドなどの、「早く帰れ」と強迫してくるプラスチックのガチガチの座席との鮮やかな対比。ひとは、「ルノアール」で「もてなしの心」を知るのかもしれない。
 実は「ルノアール」ではそこで寝ることも本当は認めていないし、フカフカのクッションは高反発なので体が逆に疲れるのだが、そんな世の中の深奥の真実はここでは目をつぶっておこう。

 ゆえに、昼間は明らかに営業をサボっているサラリーマンが群れをなしヨダレを垂らして寝ている異空間であり、夜ともなれば、素直にうなずくにーちゃん・ねーちゃんたちを相手に何かの商品の勧誘をする人々のあきらかな巨大策源地となっている。むろん「ルノアール」でも正式にはそんなことをやってはいかんのだが、そうなってしまっている。基地だ。カデナ基地でさえかくやと思われるほどの出撃拠点ぶりである。
 ぼくは新宿の近くだったので、なんだかわからない金のブレスレットをしたにーちゃんorオジサンと、なにやら説明をうけるケバいねーちゃんのコンビをよく見た。水商売とかフーゾクの説明であろうと、道を歩きながら巨大ガラスごしにまるみえの店内を見たものである。

 かくいうこのぼくも、「ルノアール」の「寛容」のもとで生きてきた一人である。
 それはぼくの「結婚を祝う実行委員会」の会議を、大胆にも「ルノアール」で開き、毎回十数人が集まってレジュメなどをくばり、司会を設けて会議を強行。近くのテーブルとイスを勝手に集めてどでかい島をつくるなど無法の限りをつくした。
 くわえて、友人たちの「実行委員会」もしばしば「ルノアール」でおこない、あまつさえ、メーリングリストなどで堂々と会議場所に指定したりしたものである。それでも文句一ついわないのが、「ルノアール」のすばらしさである。

 さて、「ルノアール」のすばらしさがおわかりいただけただろうか。
 すべてのものを受け入れ、溶かし込み、異空間をつくりあげてしまう魔物のような坩堝、それが「ルノアール」である。
去年ルノアールで  そんな「ルノアール」のすばらしさを題材に文学を書いたバカ大作家がいる。それが、せきしろであり、本作『去年ルノアールで』なのだ。

 タイトルがアラン・ロブ・グリエの晦渋趣味の映画「去年マリエンバートで」をパクっているように(ただし連載時の原題は「今月のルノアール」だが)、「文学的」な高踏の装いで書かれた、ウンコ擬エッセイである。あるいは妄想。
 いい歳こいた男が、「ルノアール」でぼさっとしていたときや、寝ていた時、あるいは童謡を聴いているときに、客の観察やそれにまつわる妄想の暴走を叙述したもので、社会的に見れば無価値同然のクズ文学である。わがつれあいは、「こんなものにカネを出したのか」と呆れ果てていた。何を言う。ぼくは通勤の電車で読んでいて、笑いを抑えるのに困ったのだが。

〈例えば舘ひろし。彼にはどんな小物が似合うだろう。やはりワイングラスか。湾岸に沿ったハイウェイ横の高層マンション。間接照明だけの一室。ブラインドを指で少し開き夜景を見る舘。片手にはワイングラス……。なるほど、よく似合う〉

と、体言止めや倒置法を多用した「チープな高級感」満載の文章で開幕する。
 そして唐突に次のようにつながっていく。

〈その日私は千駄ヶ谷のルノアールにて奇妙な中年男性を発見した。光っているのだ。蛍光一色の上着が。どんなに内気な人であっても思わず「それ、どこで買ったんですか?」と訊ねたくなる上着が「光り過ぎですよ」と一言注意したくなるほど光っている。
 それだけ光っていれば暗い夜道でも車にはねられることがないであろう〉

と、文章が次第に妄想を駆動させながら暴走していく。

〈先ほど“奇妙”と表現したのは何もそのルックスだけではない。半分はその動きからである。とにかく動きが早い。短い手足が機敏さとコミカルさを醸し出している。例えばスポーツ新聞をレジ近くへ取りに行く時。最短距離を選ぶように、そして軍事教練の名残りのように、彼は直線的に移動するのだ。まるで彼に角度は90度しか存在しないかのように。しかも突然ピタリと止まる。数秒後、逆方向に動き出したりする。まったく予測不可能。真夏の夜。部屋の中のどこからか迷い込んできた蛾。捕まえたくとも、不規則な動きでなかなか捕まえることができない。そんな蛾に似ている。それではあまりにも失礼か。ならば蛾次郎に似ているに訂正〉

 暴走は止めようがない。

〈とにかく珍獣である。蛍光色の毛皮を持つ珍獣だ。古タイヤでも与えたら無邪気に遊んでくれるだろうか? 珍獣だ、遊ぶに違いない。ボールを与えたら上手に鼻の上で回してみせるだろうか? 誰かが彼を人魚と見間違えたりするだろうか? 「ET、ウチ、デンワ」と我々の言葉を話したりするだろうか? 人間でいえば何歳ぐらいなんだろう? 私は珍獣に興味津々になる〉

 しかし数十分後、やはり飽きてしまうのである(それでも数十分かよ)。
 そのあと、店内にいた3才の子どもに興味をうつし、その子どもに微笑むも、〈次の瞬間私の表情から微笑が消えていた。子供が被っている帽子に書かれている文字。〉とまたしても安い小説のような体言止めである。

〈“HARD WORK,HARD PLAY,STILL ALIVE”(しかもなんかこう“速さ”が伝わる書体で)
 3歳くらいの子供には不釣り合いなメッセージ。そのメッセージ色の強いこと。ハードに労働し、ハードに遊ぶ。そしてまだ生きている。3歳くらいなのに! 近所のスーパーで「英語が書いてあるしカッコ良くていいかも」という理由だけで買った帽子に、こんなにもメッセージがあるのなんて、親も、そして被っている本人も理解しているわけが無いだろう。ただただ無自覚に垂れ流されるメッセージ。〉

 そしてオチである。著者は〈過剰に反応してみることにした〉。

〈STILL ALIVE、そうだ、私達はみんな生きているんだ。私もこの子供もミミズもオケラもアメンボも、そして珍獣も。〉


 こんなどうしようもない「ルノアール」でめぐらされた妄想が4年分ぎっしりつまった〈無気力文学の金字塔〉(オビより)が本書なのである。

 そしてトーンは多少バリエーションがあるとはいえ、基本は200ページぜんぶこんな感じなのである。この無気力ぶりが永遠に続いてほしいと願うぼくのような人間なら断然「買い」であるが、20ページほど読んで怒って本を閉じたうちのつれあいのような人間なら絶対に買ってはいけない。

 作者せきしろの精神の偏執を物語るのは、トレーナーへの異様とも思える執着である(そこかよ)。

〈おばさんのトレーナーにでかでかとプリントされているリアルな黒豹〉〈その黒豹を囲むように座っていたほかの二人も負けてはいなかった。“ピエロがラッパを吹いていて、そのラッパから飛び出してきた音符に子猫がじゃれている”プリントのトレーナー(バックには「FANCY CAT」の文字)、そして“宝石箱が編みこまれていて、宝石箱から様々な宝石が溢れ出しているのだが、その宝石部分が大きなラメで表現されている”3D感覚のセーター〉

 このテの「おばちゃん」感もしくは「ドン・キホーテで買いました」感いっぱいの服について、せきしろは執拗なまでに書いている。それが何を意味するのかとか、そういうことはまったく考えなくてもいいし、考えたくもないすばらしい無気力な読後感で、いま私は満たされている。





マガジンハウス
2007.4.13感想記
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