青山景『SWWEEET』1巻



SWWEEET 1 (1) 雁須磨子の漫画で、自分の彼女があまりにかわいくて妄想のなかで彼女を輪姦してしまう、という男子高校生の話がある。その男子高校生は彼女にそのことを話すのだが、彼女は、あたしももっとひどいことを妄想のなかでしてるから、と告白しかえす。そのとき男が思い浮かべたのは「自分が女の集団に輪姦される妄想」を彼女がしているのだということだった。

 その男子高校生の、あまりに男子高校生っぽいアホさに笑う。そういえば別のなんかの漫画で ある男に仕返しするというアイデアを練っていて、その男を女の集団で輪姦するのはどうだろうか、という意見がでて、それは男が喜ぶだけだからやめよう、という何かそんな話があったような気が。

 青山景『SWWEEET』では、同じ中学の女子たちにイジメに遭っている中2の少女・さくらを助けようとするススムが、イジメ女子中学生集団に返り討ちにされ、気絶しているあいだに、手足を拘束され下半身丸裸に。そして、集団はさくらに、ススムとセックスするよう強要する……。

 これ、ただの男子中高生の妄想では。

 告白したためにフラれるとか、セックスしたいといって拒絶されるとか、そんな「傷つく」過程をへずに「かわいい幼なじみ」とヤるにはどうしたらいいかといえば、自分の意志や能動性は1グラムも入り込ませずにセックスすることを強要させられるという状況に自分とその少女を追い込めばいい。

「ほら、べつにぼくがセックスしたいとかそういうんじゃなくて、まわりの状況がアレだから」

という言い訳完了
 そのためだったら、同級生の少女たちにボコられて鼻血を出すぐらいどうってことない。別に満天下じゃなくて屋上という密閉した空間であれば、少女たちにズボンやパンツをずりおろされても全然オッケー。のぞむところだと請け負う男性はおそらく日本で3000万人をこえるとぼくは思う。
 青山の提示した冒頭のエピソードは、男にとっては、「痛く」も「切なく」もない、もうウハウハなだけの妄想全開といったところだろう。「幼なじみとやるのは どんな気がする?」って、かわいけりゃ万々歳だYO!と叫ぶ男子中高生は山のようにいるはず。整理券配って並んでもらわなきゃ。さくらにイジメられ役を担わせているのは、マスターベーションのための「お膳立て」のためだけ。これに痛さや切なさや甘酸っぱさを担わせようとしているのであれば、さくらにはまことに気の毒な話。

 べつにセックスの露骨な描写が出てくるわけではない。
 でも、青山はこの過程をねっとりと描く。
 仰向けで下半身をさらされたススムに、「挿入」のために騎乗位になろうとするさくらのスカートを、ソックスを、セーラー服の胸元を、ススムの視点で描く。イジメをうける幼なじみのあえかなる身の上に同情するでもない。ここにあるのは、ただのエロ視線だ。

 ススムがどれほど自己変革の前向きな宣言をしようとも、すくなくとも1巻では能動性のカケラさえぼくには感じられない。たとえば、きらたかし『赤灯えれじい』の真の前向きさとくらべれば、ここにあるのは状況に流される受動性、80年代ラブコメの真髄のみである。

 さくらが本当に好きだったススムの双子の兄弟・ツトム(10才のときに失踪)がススムの部屋にいる! と、さくらはススムのことを勘違いしていきなりススムの部屋に入って胸をはだけてセックスをせまる。
 あるいは、自分が本当に好きなのはツトムだけだけど、ススムが自分(さくら)のことを好きだというなら、愛もないし恋もない交際を、セックスを、結婚をしてやろうとさくらはススムにつげる。

 これは痛いか。痛くない痛くない。
 「気持ちをセットにしないカラダだけの関係」というなんとまあ都合のいい、「垂涎すべき」宣言ではないか! ともろ手をあげて歓迎する男性読者は、ぼくが推計するだけでも4000万人はいるだろう。

 イジメっ子の中核にいる新島奈名が、なにやらバイクの男性についていって林の中でヤラれそうになって喧嘩している現場にススムが出くわす話がある。
 フルフェイスの背広姿、サラリーマンふうのその男は、おまえらみたいな女はみんな援助交際やってんだろう、ここについてきたってことはそういうつもりできたんだろう、と怒鳴る。新島はそんなわけねーだろと怒鳴るが、オトコはやっぱりだめだ、ちょっとでもオトコを信じたアタシがバカだった、とつぶやくのである。
 この新島のつぶやきは、なんなんだ。
 オトコ不信、人間不信の新島がイジメっ子。
 さびしいキミの内面を理解してageるよ、という男性読者がぼくの推計で(ry
 フルフェイス男にタコ殴りにされながら新島を救おうとするススムの姿は、まるで新島が「きゅん」としてくれそうなことを期待しているかのような仕草で(じっさい、新島はちょっとホホを赤らめる)、キミを救えるのはボクだけだという自己満足な空気。フーゾクにいったオヤジがフーゾク嬢がみせた「さびしい内面」の身の上話にほだされて、「オレがこの娘を救ってやらにゃあ!」とカンちがいし会社の金を横領して通いつめ人生ボロボロ、とかいうシチュエーションに似てないだろうか。
 新島は憎まれっ子の役回りだが、じっさいにはツインテールのかわいい女の子に造形されていて、こういう男性的欲望を投影するのにぴったりだ。
 どんな役どころを振っていようが、青山の本作に出てくるキャラは欲望をこめた造形ばかりだ。妄想のなかの登場人物。

 本作はススムとさくらの「幼なじみ」同士の恋を、失踪したツトム(ススムがのぞく鏡のなかだけに登場)を間に介在させつつ描いていく物語だが、いきなり幼なじみとヤッてしまう暴力性とか、愛も恋もなく交際をはじめる不毛性とか、イジメ集団から逃れるために屋上からノーパンで飛び下りる破天荒さとか、そういう「型破り」さを看板にしている「最新型ラブコミック」(出版社側のレビュー)である。
 しかし、中核つうか表層以外のところにあるのは、古典的な中高生のオナニー妄想界。
 青春の暴走さえ、柴門ふみの初期作品がもっと気の効いた形でやっていることだろうと思う。

 だから「最新型」なんて銘打たないで、純粋にラブコメ・欲望漫画として立っていればいいじゃん、というのがぼくの感想。セイシュンとか、なにかの体裁をつけて性的な欲望を満たしたい人なんていっぱいいるんだからさあ。

 さっきものべたが、主人公ススムとうりふたつの双子の弟で、10才のときに失踪してしまったツトムは、ススムがのぞきこむ鏡のなかだけに現れ、ススムの姿を客観視して、嘲笑する。たとえば、イジメにあっているさくらを助け出そうとしてブルっているススムをあざ笑う。
 今後、作者がツトムをどう描いていくかは未知数であるが、いまのところ、これは「もう一人のススム」である。1巻のおわりに新島の兄のエピソードが描かれていて、やはり水面に映る自分をもう一人の自分としてとらえる話が出てくる。

 「すべて自分の責任、自分をめぐる物語である」という世にあふれるイデオロギーは、多くのひとをとらえている。なぜかくも自分(の意識)をめぐる物語(せいぜい私とアナタの物語)にしてしまうことが多いのだろう。というぼくの倦怠が伝わったのかどうか知らないが、自分を分裂させたり、意識を実体化させてしまうという物語によく出会う。
 岩原裕二『いばらの王』では、世界をつくりだしたのは、「実体をもった意識」であった。
 そして、またこの『SWWEEET』では、もうひとりの自分(ツトム)を実体化させている。
 どこまでいっても自分をめぐる物語だ、意識のモンダイだということに、ひとは飽きてしまって、自分を、意識を、手でつかめるような実体に変えたいのかもしれない。




青山景『SWWEEET スウィート』 1巻(以後続刊)
小学館 ビックコミックスIKKI
2005.11.11感想記
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