「an・an」でコメントしました
——『WORST』『ホーリーランド』にふれて



 マガジンハウスの雑誌「an・an」08年5月14日号でコメントしました。
 そう、あの「アン・アン」です。
 コメントした特集は「女子には見せない“男の本性”」。
 依頼が来たとき、何かの間違いでは、と思いました(笑)。

 なにしろ、「an・an」読者といえば、その延長線上に「CanCam」や稚野鳥子を想像してもおかしくない、それらとの高い親和性を感じる存在だったので、ぼくのサイト的方向からいえば、「女子には見せない“男の本性”といえば、まずマスターベーションを考える必要がありますね」という茶々を入れても不思議ではなかったからです。
 にもかかわらず、ぼくのところに声をかけてくれたという点に、晋遊舎が雑誌「m9」で声をかけてくれたのと同じような面白さを感じて、引き受けさせていただくことにしました。担当の方がぼくの本(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)を読んでいてくれたのもうれしかったです。しかも送られてきた掲載誌を読むと、同じ特集のなかに福満しげゆきや「江古田ちゃん」こと瀧波ユカリも漫画を描いていて、実はぼくとも親和性が高かったのです(笑)。

 しかも、コメントのオーダーは、「女子には見せない“男の本性”」一般ではなくて、その特集のなかでヤンキー漫画を語ってほしい、ということでした。まあ、それならたしかにテリトリーですからね。

 それで、雑誌には、高橋ヒロシ『WORST』と森恒二『ホーリーランド』についてのコメントが簡単に載っています。その掲載された一文はもちろんぼくがしゃべったことをもとにライターの方がまとめてくれたのですが、せっかくなので下記にそのときしゃべったことの全体をベースにして、それを大幅に改編したものをして載せておくことにします。






高橋ヒロシ『WORST』 
森恒二『ホーリーランド』




BE-BOP-HIGHSCHOOL 1 (1) (ヤンマガKCスペシャル)  「女子には見せない“男の本性”」という点でいえば、本当はきうちかずひろ『ビー・バップ・ハイスクール』や村田ひろゆき『工業哀歌バレーボーイズ』のような、ヤンキーの下心や日常慣習までをリアルに書いたものをおすすめするのがいいのかもしれませんが、いくら普遍性があるとはいえ、さすがにかなり時間がたっているというのと、「an・an」読者的に知りたいのはそういう身も蓋もない「本性」ではないだろうということで(笑)、今回はやはり除外したいと思います(※他の識者コメントとか見ると、そう場違いでもなかったのですが)。



腕力の序列というシンプルさ



 『ビー・バップ・ハイスクール』の流れでいえば、もちろんそういうスケベな下心とかウダウダしたヤンキーの日常みたいなものはあるわけですけど、『ビー・バップ・ハイスクール』のもう一つの要素ということでいえば、やはり誰が一番強いのか、誰が誰に対して強いのか、弱いのか、という序列ですよね。

 ヤンキー漫画の世界がある意味で「異常」だと思えるのは、その価値観の秩序が徹底して「腕力」、「力」であり、それのみだということなんですね。
 たとえば女性のOL漫画みたいなのだといろんな自己研鑽をしたり、人間関係をつくったり、恋人との関係があったりと、細々としたリアルさを積み重ねて実現していくでしょう。これはこれでぼくは好きなんですが、ある意味、とても複雑でわずらわしいとも言えます。
 ところが、ヤンキー漫画は、すごくシンプルで、ほぼ「腕力」一本。力の序列だけがすべてという社会です。いろんなものにわずらわされず、「実力=腕力」だけが評価される世界で、見ようによっては、女性であるがゆえに実力が評価されない、という世界よりははるかにシンプルで美しいといえます。
 このシンプルさがヤンキー漫画にとっては大きな魅力だと思います。
 もちろん、例外やそれ以外の要素が雑多な形で入り込んではきますけども、この力の序列というのは、ヤンキー漫画の一つの中心軸を成すもので、いわばこれを前面におしたてているものを、ヤンキー漫画の「正統」だとみなすことができると思います。「ヤンキー漫画」というカテゴライズがおこなわれる依然の、70年代的な「不良漫画」(学ラン・葉っぱ的な)から継承されている基本点だということです。




腕力の世界の純化——『クローズ』から『WORST』へ



 これをものすごく理想化というか純粋化したのが『クローズ』です。
 とにかくどっちが強いか、ということをひたすら求める漫画です。
クローズ 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス) しかも、『クローズ』の世界では多人数で少人数を襲うとか、凶器を使うとかはものすごいハレンチな行為、卑劣な行為として描かれます。気持ちいいくらいなタイマン、一対一のたたかいなんですね。
 ある意味、スポーツですよ。
 こういう世界観が気に入った人は同じ高橋ヒロシの続編漫画『WORST(ワースト)』をお読みになることをおすすめします。

WORST 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス)  『WORST』は「力の序列」ということが極端なまでに理想化されています。
 たとえば、『WORST』の最初はいきなり新入生の最強はだれかを決めるという「1年戦争」なわけですよ(笑)。教師はほとんど出てこない。体育館でいきなりそんなことを新入生に上級生がやらせるなんていう、ひどいんだかうらやましんだからわからない世界なわけです。
 あるいは、主人公とものすごく仲のよいヤンキーグループのまとめ役(ブッチャー一派=FBI)と、主人公(月島花)が、わざわざどっちが強いかをはっきりさせるためにタイマンの殴り合いをするのです。
 それで殴り合って勝負があったあとでは、負けたヤンキーグループは下僕になるんじゃなくて、行動は自由だけどもいざというときには強制じゃなくてリスペクトの気持ちから主人公を応援するという、ありえないくらいに美しい人間関係を結ぶんですね。
 おそらく本物のヤンキー社会、いや本物の社会の人間関係はこんなに美しくなく、もっとドロドロしていますよね。それこそヤクザがからんできたり、もっとみにくい弱い者いじめとかがあったりするわけです。ぼく自身もリアル・ヤンキーについていうと、気に入られていた、という経験もあれば、その気に入られていたヤンキーとはまったく別のヤンキーにボコられたこともあり、なんでぼくみたいなカタギのもやしっ子を殴るんだちくしょう、っていう気持ちもあるんですよ。なかには犯罪にあったりした人もいると思いますしね。いやまあ、別にそれはヤンキー漫画にかかわらず戦争漫画だって男の性的欲望漫画だって何だってそうなんですが。

 だからこそ、漫画での世界としてのみ、いよいよその虚構が美しいわけです。
 
 いずれにせよ、『WORST』では、現実の社会や現実のヤンキー社会にあるような不純なものが一切ない。「腕力」という単一のモノサシのみがモノをいい、そういうシンプルな関係だからこそ、ここまですっきりした人間関係がむすべるのだと思います。




女性を排除した世界=『WORST』



 大事なことは、それが「男の物語」だということです。
 実は『WORST』には一人も女性が出てきません。
 作中でピンナップの女性が書かれるときには、バストやヒップは描くけども、顔は絶対にかかないというくらい徹底しています。文字通り男の物語なのです。
 よくヤンキー漫画は「男の物語」といわれますが、他のヤンキー漫画ではここまで徹底はしていません。
 ヒロインが出てきてイチャついているヤンキー漫画もけっこうあります。『ろくでなしブルース』とか『ウダウダやってるヒマはねえ!』とか。前述の『ビー・バップ・ハイスクール』もちろんそうです。
 つまり恋愛関係のなかで男がみせる弱さや気恥ずかしさ、繊細さ、ずるさなどを完全にシャットアウトしているのが『WORST』です。だからここには、さっきのべたような力のみを基準にした秩序、強さのみを基準にしたリスペクト・敬意、そこから生まれる友情というものが、あらゆる雑音を排除して、ものすごく純粋に描かれているわけです。
 それは言葉を変えていいますと、女性を排除して成立する世界、女性には絶対みせない男の美学の世界という形で描かれています。そういう男があこがれる理想的な力の世界、そこで生まれる友情というものがものすごくピュアに描かれた世界なのです。これがヤンキー漫画の正統を定向進化させた結果であり、そのもっとも極端な表現としての『WORST』なんですね。
 ただ、ことわっておけば、男がみんなそういう願望をもっているのではなく、ある種の男性が、ということなんですが。




女性にみせない「本性」という点では…



(質問:「an・an」読者の女性がヤンキー漫画から学べる男の美学というのは? たとえば、男が男同士のつきあいばかり優先して自分のことをちっともかまってくれないとかそういう気持ちについて)

 さっきものべたとおり、たとえば『WORST』は女性を排除して成立する世界ですよね。女性にみせる顔とまったく別の、男だけの世界での楽しさ、価値観、序列、美しさというものがあるわけで、女性との関係がそこに入ってくるとその楽しさや美しさが壊れてしまうのです。だからたまには、女性との関係がウザいと思い、男友だちとの関係を優先させるということがあるんじゃないでしょうか。
 女性は「自分には見せないこういう関係の世界があるんだな」と思ってもらえばいいと思います。
 ただし、繰り返しますけど、それはあくまで理想化された社会であって、現実にそういうものがあるかどうかはまた別の話なんですが。そして、すべての男に共通する世界ではなくて、ある種の男性の理想の世界なんですけどね。




自分の居場所——『ホーリーランド』の世界



ワルボロ  それから、最近、映画『ワルボロ』を見ました。そうですね、ゲッツ板谷の原作の小説があって、最近では漫画化もされています。
 映画は単純、というかストレートなメッセージがあって、意外にも(笑)面白かったです。
 一番印象に残ったのは、受験勉強も中途半端、ワルに転向したあとも中途半端、ハンパな生き方をしていてはもう自分の存在意義も居場所もない、っていうメッセージです。

 ヤンキー漫画にはいじめられっ子からヤンキーになったり(『特攻の拓』、『クローズ』で出てくるキーコ=木島)、一般人からヤンキーになるものがときどきありますが(『ドロップ』)、実は個人的にはこういうタイプの物語の方が、正統のヤンキー漫画よりも共感できます
 ハンパである自分、居場所のない自分っていう認識、それを変えたいっていう気持ちは、ヤンキーだけじゃなくて、けっこう多くの人がもっていると思いますからね。


ホーリーランド (1) (Jets comics (846))  この「自分の居場所や存在意義を絶対に失いたくない」というメッセージが強烈なヤンキー漫画は、森恒二『ホーリーランド』です。
 もちろん、力の序列を激しく争う、という意味では『ワルボロ』も『ホーリーランド』もヤンキー漫画の正統的な要素をもっているわけですが(『ホーリーランド』は格闘技解説のウンチク漫画という楽しみ方もある)、ぼくの印象は「自分の居場所や存在意義を絶対に失いたくない」という面のメッセージ性が非常に強烈で、やはり正統のヤンキー漫画とは違う味があります。ぼく的にはあくまでこれはヤンキー漫画の中では、「傍流」という位置づけです。傍流というのはこれだけじゃなくていろんなパターンがあるんですけどね。

 「自分の居場所や存在意義を絶対に失いたくない」ということが主軸でるというのは、「ホーリーランド」というタイトルがよく表してますけどね。
 この漫画は「エヴァ」の碇シンジみたいなひょろっとしたいじめられっ子が碇シンジみたいな外観のままでヤンキー社会、というかストリートでだんだん強くなっていく話で、ストリートのなかで居場所をみつけ、親友とよべる人間や恋人をみつけていくんですね。主人公にとって、ストリートというのは、絶対に失えない場所であり、だからこのタイトルだというわけです。

 それを失わないために、必死になる姿というのは、はじめからヤンキーだったキャラクター以上にぼくなどはのめりこめます。

 ぼくが『ホーリーランド』がいいなァと思うのは、主人公がストリートでの暴力のヒエラルキーの世界で生きることを決めながら、それ以外は変わらないということです。
 ヤンキーになる、というのは、PTAの非行の予兆の注意書きじゃないですけど、まず服装や髪型という文化に自分自身が染まっていくことから入るのが普通ですよね。

 ところが『ホーリーランド』の主人公である神代ユウは、先ほどのべたとおり、外観や風貌は碇シンジのままの、ただのヘタレです。ぼくのような非ヤンキーからみると、ヤンキー的文化に染まることなく、ヤンキー世界そのものを制圧していく、非常にかっこいい存在なんです。しかし、実はその文化のもっとも根幹である暴力の秩序、という価値観だけは受け入れているのですが。

 そして、先ほどこの漫画は格闘技解説のウンチク漫画でもある、といいましたが、『WORST』とくらべても、ストリートでの格闘という制約を折り込んでいて、よりスポーツ性が高い。
 ユウが自分の暴力の能力をひたすら磨き上げていく精進ぶりは、スポーツ漫画のストイックさ、クールさそのものです。それが、だれも認めるスポーツという方向ではなくて、社会的には絶対悪とされている路上でのケンカ=暴力のヒエラルキーという点が、たまらなく背徳的で、だからこそオモテ社会にはない、特有の絆や連帯感が感じられます。

 ぼくはいじめられっ子だったわけではありませんが、非力な人間でしたから、ユウのデフォルトには親近感を感じます。そして彼が一つひとつ暴力の序列の階梯をのぼるたびに、他のスポーツ・競技漫画では得られない後ろめたい快楽を味わうことになります。

 主人公が主人公だけに、『ホーリーランド』をヤンキー漫画とは言わない人もいると思いますが、立派にヤンキー漫画の構造と世界をもった漫画であり、個人的には一番のオススメのヤンキー漫画です。









高橋ヒロシ『WORST』秋田書店 少年チャンピオンコミックス
1〜19巻(以後続刊)
森恒二『ホーリーランド』白泉社 ジェッツコミックス
1〜17巻(以後続刊)
2008.5.5感想記
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