荷宮和子『アダルトチルドレンと少女漫画』


 痛い。

 ハリセンで後ろからツッコまれたような気分だ。

 ぼくは、しばしば少女漫画を、“現実のきびしさとまじわらぬ少女の内的世界”、などと書いてきた。そうしたぼくに、荷宮は「おまえは少女漫画の構造を理解していない」と、後ろからハリセンでツッコミをいれる。

 むろん、ぼくは、ぼくが少女漫画とよぶものの範囲をかなりせまくとっていたこと、「二〇年前に比べれば、確実に保守化した編集方針で作られている少女漫画雑誌」(荷宮)という近年の作品群がアタマにあったせいだとはおもうのだが、それでも、やはり自分の不明を恥じざるをえないほどの批判力をこの本はもっている。

 
 本書は、少女漫画がもつ苛酷なリアリズムと、そこから反転された〈救済〉や〈癒し〉についての、実に戦闘的な評論である。

 一見、このタイトルだけでうんざりする。もし、わたしは、あるひとのすすめがなければ、そして荷宮の他の著作をしらなければ、決して手にはとらなかったであろう。

 荷宮は、アダルトチルドレンという〈問題〉を、アルコール依存症の親のもとで育ったためになんらかの問題行動をおこすようになってしまった子どもたち、というふうに狭くは定義しない。女と生まれたからには、この男権社会のなかで、さまざまに抑圧される。「すなわち、今の日本の社会に生きている女は、すべからく『アダルトチルドレン』と称されるべきなのだ」と定義する。
 そして、少女漫画こそは、オトコたちが気づきもしない〈現実〉から出発して、やがてそれを急激にあるいは緩慢にひっくり返し、〈救済〉や〈癒し〉へとたどりつく、と荷宮は説く。
 「少女漫画は女の読者にとって、ファンタジーであり、絵空事なのだ。しかし、だからこそ、自分と似た境遇にある人達を扱ったノンフィクション、あるいは医者による臨床体験の類を読むだけでは、決して得ることのできない『癒し』を、手に入れることが可能となるのである」。

 女にとっての現実、あるいは心的(内的)真実を理解していなければ、〈救済〉や〈癒し〉の絵空事だとしかみえないのだろう、あさはかな男だ、と荷宮にいわれているような気がするわけである。

 たとえば、萩尾望都『イグアナの娘」――生まれた娘がイグアナにしかみえず、愛せないという母子の話――にかんする評。
 ぼくの感想はすでにこのサイトでも書いた。だが、荷宮はそのような結論を「甘っちょろい」と憤激するかのようだ。

 たとえば、ぼくが「娘がイグアナにみえる」=「娘を愛せないことの比喩」と感じた問題は、荷宮にかかると、こうなる。

「そこには、娘がイグアナであるという事実よりも、娘のことを他人にどう思われるかという現実の方が恐怖である、という母親にとっての真理が描かれていたからだ。子育て自体がつらいことであるうえに、子育てを『つらい』と感じていること自体を隠さなければならない、それが子育てなのである」

 あるいは、ぼくにあっては、
「死んだ母親の枕辺で流した涙がマミの中の何かを浄化して、マミも自分の娘を愛することが出来るようになったラスト」
は、荷宮においては、
「どう言葉をつくしても『母親が死んでくれてほっとした』という本音の粉飾になってしまっているように思える」
となってしまう。

 母子和解のなまっちょろい話などではなく、もしラストが「母親が死んでくれてほっとした」という話であるとすれば、これほど苛酷なリアリズムは他になく、そしてそれがそのまま反転した〈癒し〉であるというのであれば、これもまたすさまじいといわざるをえない。触れれば切れて血が出るよう生々しいリアルではないか。
 ぼくは、荷宮の評をそのまま支持することはできない。
 しかし、その少女漫画観につよい説得力をかんじてしまうのだ。
 少女漫画とは、ぽわぽわ、ふわふわしたもんだ、とおもっているのは、現実のきびしさに鈍感なオトコの側の無理解な少女漫画観なのだ、という荷宮の主張に。
 

 別の例をとろう。
 これはぼくが感じたことではないのだが、荷宮が、一般的に男女の受容のされかたのちがいとしてあげている例(というか、クソ男文化人における受容のされかた)で、吉田秋生『桜の園』がある。

 荷宮にとって『桜の園』は、まさにこの男権社会のなかで女性が「性的自己」を獲得していくさいの戸惑いや不快を描いたものとして把握される。
「この中でもっとも深く傷ついているキャラクターと言えば、やはり部長の志水由布子だろう。小学校の時、ハンカチでくるんだナプキンをひっぱり出してさらしものにされたこと、初潮を迎えたことを知った祖母に『だから変な男にちょっかい出されるのよ』と言われたこと、初恋の相手であるいとこに『おませさんだね』と言われたこと……。/これらの『日本でよくある光景』『たいていの女の子にとって覚えのある出来事』が、『これでもか、これでもか』と連打されるエピソード…は、並みの神経の女ならば途中で放り出しかねない痛々しさを含んでいる」
「この作品の場合は、女でありながら女の生臭さを感じさせない部員・倉田チヨの存在が志水の魂を救う鍵を握っている」

 ところが、映画版は、この原作の「少女漫画」性を理解せず、まったくべつのものに作り替えてしまったと荷宮は追及する。

「映画版『桜の園』では、この二人の関係は『男が見ていて楽しい、いかにも男の目線で眺めた女と女の同性愛風関係』として、描写されてしまった。男のクリエイターは、エキセントリックな女以外には興味がないことがよくわかる事例と言える。もちろん、原作を読んだ少女達の心を揺さぶったポイント、この作品の核心である『女であるがゆえに味わわされたトラウマの癒し』についての描写など一切ない」

 まったく容赦がない。

 恋愛のことしか描かないA子たん、男に好かれるのをまっている主体性のない女を描くA子たん、などと悪評をなげつけられる、いわば少女漫画の典型のように思われている陸奥A子の場合でも、荷宮の評価はまるでちがう。

「陸奥の描いたヒロインは、『自立出来ないから恋愛をしていた』わけではない、ということだ。なにも彼女達は、いずれ男に食べさせてもらう、その時のための手段として『恋』をしていたわけではないのだ。/陸奥A子とは、女の自立だの、経済的自立だの、将来の生活設計だのについての描写を切り捨て、『恋愛に対して女はどうふるまうか』、そのことだけを突き詰めつつ作品を描いていた、そんな作家だったのだ。陸奥はなにも、女の自立を否定した結果として、女の恋愛を描いたわけではない」

「『どれだけ熱心に勉強するか、どれだけ真剣に将来のことを考えているか、女のくせに仕事を続けるか、つもりでいるかどうか』等々と、『どんな風に男に恋をするか』の間には、因果関係はない。『恋か仕事か、二つに一つ』と悩むなんて馬鹿らしい、両者は対立するものではないし、そもそも男はいつも両方手に入れていたではないか、何を思い煩うことがあるだろうか――これこそがA子たんワールドの住人の信条だった、というわけだ」


 さっきもいったように、ぼくは、こうした荷宮の評をただちにすべて受け入れることはできない。しかし、「少女漫画とはふわふわ、ぽわぽわしたもんだぜ」とどこかで思っている、ぼくをふくめた世の中のオトコにとっては、みずからが呪縛されているイデオロギーから解放されねばならず、そのために、荷宮のこの評論は一種の起爆剤となることができるとおもう。
 
 もし荷宮の少女漫画観が一定の道理をもっているとすれば、その対極にあるのは「えろげー」である。

 絵柄はどことなく少女漫画の空気を導入し、オトコにとって、ふわふわ、ぽわぽわした雰囲気をどことなくただよわせている。
 だが、そこに抱えられている「現実」は、「少女漫画」(荷宮のいうところの、である)が抱えている峻厳なリアルとはまるで正反対で、全体を支配するものは、「抒情」である。それも、オトコの内的世界にとっての「抒情」でしかない。

 えろげーが少女漫画的であるかのような体裁をもっているのは、オトコの少女漫画への誤解をそのまま反映しているからなのである。




廣済堂出版
2004.5.8記
メニューへ