槇村さとる『愛のアランフェス』



 「私は自分に嘘を、ついていた」

 槇村さとるは、この作品(『愛のアランフェス』)を描いていたころの自分をこう述懐する(※1)。少女漫画の白眉ともいうべきこの作品を、槇村はなにゆえこのように苦痛をもってふりかえらねばならないのか――。

 正直、槇村さとるは、嫌いな漫画家の一人である。
 ただ、それは、ネグレクトしている、という意味ではない。
 『おいしい関係』はすべて読んでいたし、『イマジン』は買ってそろえた。『ピタゴラスの定理』などというややマイナーな一冊も購入した。
 「ヤングユー」誌で展開される近作も、けっしてとばすことはない。
 少なくとも目を離さずに読ませ続けることのできる、すぐれた漫画家の一人である。

 にもかかわらず、嫌いである。

 前にも書いたが、ある種のきびしさを追求する槇村の「リアル」は生硬で、ともすれば、「成功」した側の説教にさえ聞こえる。その成功譚は自らの写し絵であり、その一端は実は、たしかに自力によるものでもあるけども、他方でマスメディアを利用して築かれたものであるという点で、けっして普遍化できるものではないはずなのに。個人をそんなに責めることはないのだ。もっと「世の中が悪いのだ」、「弱い者同士が支えあおう」、と叫んでもいっこう差し支えないものである。
 その、無理なほどのきびしさは、荷宮和子が「名誉男性」とよんでいた、自らが男権的なきびしさに同化してしまっていることによって成り立っているようなきびしさである(余談だが、最初ぼくは荷宮こそこの「名誉男性」だと思っていた)。不自然な産物だ。槇村じしんは、しなやかさときびしさを自然にあわせもつようになりたい、と願いながら、こんなふうに描いてしまうのである。

 ぼくは「別冊マーガレット」誌で活躍していたころの槇村をいっさい知らない。
 それが今回初めて、彼女の代表作である『愛のアランフェス』を手にとった。

 それがどうだ。

 無類のおもしろさである。

 『愛のアランフェス』はフィギアスケートの、いわば「スポ根」漫画で、有名なスケーターの娘・森山亜季実が、ペアの相手黒川との恋愛やパートナーシップを軸に、次第しだいに、その才能を開花させていく物語だ(親が娘を一流スケーターに育てるため、殴りつけ、オトナになった主人公たちも、ひたすら努力努力努力努力汗汗汗汗。これがスポ根でなくてなんであろう)。

 まず絵柄。非常によい。

 いまの槇村の絵柄は、意志的でありすぎる。決然としすぎている。
 どこかいつもつりあがっているような登場人物たちの瞳。
 それがそこはかとなく、意志や強さ、きびしさをイメージさせずにはおかない。

 ぼくは、一般的にいって、人間は弱さをかかえ、お互いにささえあう――それはたとえ依存であったとしても――という部分をちゃんとかく漫画を評価したい。どれほど都合のよい漫画だといわれようが。
 ところが、今の槇村の漫画では、そのあたりが、ざっくりと切り捨てられている。槇村は後年、そのような「少女漫画趣味」が耐え切れなくなったのであろう。ペンタッチは似ているものの、画風は当時とはガラリと変わっていると、ぼくは思う。
 『愛のアランフェス』では、主人公・亜季実の瞳は、後年の槇村漫画の登場人物ほど意志的ではない。無垢であり、たえずどこかに不安をかかえ、あるいは、儚げですらある。
 高校に登場し、注目をあびる亜季実の描写に、思わず萌える。
 こんなことをいうぼくにたいして、どこからか、「おまえはサイバラが嫌いなように、オンナなどは庇護的であるべきだと思っているのだろう」という荷宮和子あたりの冷笑とも侮蔑ともつかぬ声がきこえてきそうだが、べつに女性にかぎらず、こうした「弱さ」こそ普遍的な、成長の不安ではないのか、とぼくは思うのだ。

 
 『愛のアランフェス』は、見事な、成長の弁証法の物語である。
 まったく天真爛漫にスケートを楽しみ、その才能表現をふりまく、「即自的」でナイーブだった地点から、次々と進歩をかさねていく。
 その成長は一見、退歩にすらみえることもある。
 「ペア」(パートナーとともに滑ること)として成長をするために、「ソロ」(単独で滑ること)である自分を「くずす」。そのために、一時的にスケートの技量が後退してしまうことすらあるのだ。
 あるいは、ペアをくむパートナーとの「恋愛」。
 これはぼくもずっと「どうなんだろう」と思ってきたことだった。
 つまり、フィギアのペアをくむばあい、かならず相手に信頼をおくのだから、それは畢竟、恋愛に発展するではないか、という疑問である。
 槇村は、まず主人公の亜季実が、パートナーの黒川に全幅の信頼をおくこと、そしてそれが恋愛に発展する姿を描く。
 そのあとだ。
 ソ連のペアが来日し、その二人は、「甘い」恋愛の空気どころか、闘争しあう緊張関係にある。そして、その激しい格闘のなかでこそもっともすぐれた呼吸が生まれるのだという驚愕の事実を、亜季実に、そして読者につきつける。
 このために、恋愛を軸にしたペアは、破壊されるのだ。
 そのくずおれる恋愛関係のなかで、亜季実が黒川に愛の告白をする雨のシーンは、もう圧巻。これぞ少女漫画の醍醐味である。

 少女は、いつも成長の困難の壁にぶつかる。
 だがそこには、ときには父親、ときにはコーチ、ときにはパートナー、そしてときには自分自身がいて、その困難を乗り越えていく。
 なんと正しきビルドゥングス、正しき少女漫画であろうか。

 しかし。

 次の槇村の自己批判をみるがいい。

「何の疑いもなくマンガを愛してハマリ、描き手になり、読者に受け入れられたことが嬉しくて頑張って――。ある日突然、思ってしまったのだから。
『ワシ……、ウソ描いてないか?
 無意識に設定してしまう『ステキなコーチ』『二人の男に愛されて』『大抜擢』――。それが読者に喜ばれることは直感的に解るのだが、描こうとするとどんどん抵抗感が増大してゆく。つ、つ、都合よすぎ〜〜、横着すぎ〜〜、受身すぎ〜〜、気持ちワル〜〜。もう描けなぁ〜〜い。で、少女マンガ家としてドスランプ!
 少女マンガ漬けだった少女が現実の世界にぶつかって、少女マンガのウソを見破り、甘い夢の世界よりも女としてしぶとく生きる道を選ばなければならない時がある。少女マンガ家にもその時は来るのだ。……
 私が『別冊マーガレット』という少女雑誌から、『ヤングユー』というお姉さん雑誌に移った時がその時期だったと思う」※2

「スミマセン! ウソ描いてきちゃって!! 人生そんな簡単じゃありません。足長オジも大抜擢もないです。ズブズブです。どすこいです。これからはきちんと少女マンガから卒業できるようなマンガを、ワシ、反省も含めて、描かせていただきます!」※3

 槇村のいまのきびしさは、こうした『愛のアランフェス』的なるものの否定の上に存在している。

 たしかに、今の槇村からみれば、この漫画は甘過ぎる。

 主人公の亜季実は、自分がパートナーの黒川に依存しきっていて、極度のスランプになっていた。そのとき、脚がいためつけられ選手生命の危機にひんしている柴から、その依存心をきびしく指摘される。亜季実のモノローグ。

「ひとりリンクの上に立つ
 なにもかも背おって
 だれにもたよらず
 だれにもよりかからず ひとりで……!!

 柴さん……!!

 どんなにか はがゆかったでしょうね
 あまったれたわたしを見て
 すべれるのになにもしないで じぶん以外の者にたより
 それでいいと思いこもうとしてた わたしを見て

 『だれにもよりかからず ひとりになったことはないのか!!』
 今あなたのことばが やっとわかった……!!」

 滂沱と頬をつたう涙。
 おお、美しいビルドゥングス。正しいスポ根。
 これは、後年の槇村の主張のひとつのコアでもある。
 「愛とは見つめあうことではない。同じ方向を見ることだ」というサン・テグジュペリの有名なテーゼが、見事な形でここに屹立している。
 
 しかし、ストーリー展開は、必ずしもそうなっていない。そこに、現在の槇村から見た歯がゆさがあるのであろう。
 たしかに、ストーリー上は、亜季実が「自立」をはたし、自立しあった二人が、ペアを演じていく美しい話になっているのだが、描かれている亜季実は、どうみても黒川を待ち焦がれ、そこに依存しつづけているように見える。姿勢の変化だけで果たして自立がかち取れるのか、という疑問が、シビアな「オトナの目」からすればおきるであろう。
 そして、二人は偶然にも、スペインのアランフェスで劇的に再会する。
 そのシーンにただようものは、おそらく「自立」ではないだろう。
 「あなたなしでは生きていけない」という、やはり依存の亜季実がどうしてもチラつく。
 「つ、つ、都合よすぎ〜〜、横着すぎ〜〜、受身すぎ〜〜、気持ちワル〜〜」と槇村が叫びたくなるというのもわかる。

 槇村は、この少女漫画がはらむストーリー展開の「甘さ」を徹底的に自己批判したのだ。そして、
「なにもかも背おって
 だれにもたよらず
 だれにもよりかからず ひとりで……!!」
という主張だけを、きびしく再建したのである。
 いまの槇村の漫画は、このことの槇村的リアルを追求しつづけている。

 だが。

 『きみはペット』のところでものべたのだが、それはあまりに厳しすぎる。
 この槇村の主張は、昨今、猖獗をきわめる「自己責任」の議論を準備する風潮に重なっているともいえる。

 われわれは、かなりの生活の部分を、他人に、社会に、依存している。
 これは、「個々人が自立した上での共同こそ正しいのだ」などというキレイごとではない。それは、生活の一部にすぎない。われわれの生活の大きな部分が「相互依存」によって成り立っている。
 あるいは、自分の力だけではまったくどうにもならないという領域が、広大に広がっている。

 槇村に、『愛のアランフェス』のころにもどれ、というつもりはない。
 しかし、今の槇村の作品を読んで感じる不自然さ、生硬さ、気の張り詰め方は、『愛のアランフェス』のころとはちがったかたちでの「依存」を正しく復建させることによって、アウフヘーベンしうるのではないか。

 だが、他方で、槇村のようなブレ方――ある種の極度の厳しさや、依存の否定という徹底した苦闘があってこそ、女性の自立がかち取れる、というふうにも思う。そのことを、世の中でラクをしているオトコが「まあそんな肩ひじはらんと」などというのは、不遜なのかもしれない。

 なーんてね。
 「お前こそ、職場にチコクばかりして、職場でロクな仕事もしていない、超依存のオトコのくせにえらそうにいうな!」というぼくにむけた罵声が、どこかから聞こえてきそうな気が。



※1 文庫版「あとがきにかえて」より
※2・3 横森理香『恋愛は少女マンガから教わった』(集英社文庫)の槇村の「解説」より

集英社文庫 全4巻
2004.5.15記
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