よしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』



愛がなくても喰ってゆけます。

 漫画家の自画像というのは、微妙な自意識を見ることができてなかなか興味深い。

 昨今で一番有名なのはなんといっても小林よしのりであろう。ナルシシズムをたっぷりとふくんだミもフタもなさが、彼自身と彼流の「ナショナリズム」の一体不二ぶり、そのアイデンティティの一体性を如実にしめしている。

 歴史的には手塚治虫の似顔絵が一番有名じゃなかろうか。
 彼の作品に出てくる「サルタヒコ」は鼻が大きいがゆえに醜悪な顔だちをしているというコンプレックスをもっているキャラクターだが、手塚の自画像は、鼻を大きく描いて微妙に自身の容貌へのコンプレックスをにじませている。

 女性漫画家は、(1)自分を美しくとらえている、(2)動物の擬人化をして評価を遮断する、(3)線と点だけで表して含羞を記号化する、(4)徹底して露悪的に描く、というあたりに分類されることができよう。

 (1)についてだが、よほどベタな美化をしていないかぎりは、ここに分類される自画像は、どれもこれも多少は省略され崩して描いてある。しかし、だからといって、それは自分を美しく、あるいはかわいくとらえていることを否定するものではない。少女漫画の主人公が「私みたいにかわいくない子が……」といったとき、漫画表現的にはカワイク描けているのと同様で、どこかしらにナルシシズムが入っているのだと考える。
 多少なりともかわいく書き込んであるものは、ここに分類してしまいたい。
 したがって、一条ゆかり、内田春菊、桜沢エリカ、吉田秋生、槇村さとるなどがここに入る。

 (2)は、岡崎京子、こいずみまり、武内直美、羽海野チカ、柴門ふみ、犬上すくねなどがここに入る。
 (3)は、逢坂みえこ、榛野なな恵、高橋由佳利、南Q太、山岸凉子などがここに入る。
 (4)は、安彦麻理絵、池谷理香子、鴨居まさねなどがここに入る。

 や、まあ、異論もあろうかと思いますが、あまり深刻にならずに。告訴などしないようにお願いします。


 さて、なんでそんな話をえんえんしているかというと、よしながふみの本書は、一種のエッセイ漫画で、よしながの自画像が登場し、それがかつてないユニークな手法をとっているからである。 

  • 友人からの指摘で、この単行本の冒頭に「この話は全てフィクションです。実在する人物とは一切関係ありません。ただし、この物語に登場するお店はすべて実在しています」という注記があることを知る。となると、「エッセイ漫画」ではなくなるし、「自画像」というのもまったくの「虚構」だということになる。そうなるとこの感想の前半の立論は崩れてしまうのだが、まあ、べつにいいではないか。そんなにマジになるなよ。
    以下そのようなものとして読んでいただきたい。


 本書はよしながふみが、自分のよくいく東京23区西部周辺のうまい料理屋を紹介しがてら、よしながのデタラメな私生活と交友関係を紹介していくというものである。
 ただし、正確には「YながFみ」の物語という体裁をとっており、登場人物はすべてこのように「S原」「M脇」などと表記されているし、本来よしながが知ることのできないはずの合コンの相手の心理や事情まで描いていることから、かなり「虚構」をまぜているのだろうと推察できる。まあ、まさか店以外はまったくの空想ということはないだろうが……。

 で、よしながの自画像であるが、漫画家として「スッピン」のときは、安彦麻理絵が描くような「ぶさいく」顔として記号化されているが、いったん化粧をすると目パッチリ、「ナイスバディ」の美女になっている。いや、いちおう漫画のなかでは「美女」という自己認識にはなっていないのだが、やはりこれは美女だろう。
 「Yなが」と同居している「S原」(男。しかし恋人ではない)が、「お前さー そのけばけばしいなりとふだんのドブスとの中間くらいの状態を常に維持する事はできない訳?」といっているので、やはり「美女」という設定なのだとみた。さらに「S原」は、「Yなが」を「ぶ厚く塗り固めたメイク」といっているので、この変身が化粧によるものだということがわかる。

 むろんリアルよしながを知らないので、勝手な推測なんだけど、やはり「化粧をすると美人になる」というのがこの人の自己認識なのだろうなあと思いながら読んだ。しかしそんなことをストレートに描くわけにはいかないので、自尊と自虐の両極を往還してみせることで、そういう微妙な自意識を笑い飛ばそう(ごまかそう)としているのだろう。

 ちなみに、この手法は成功である、とぼくは思う。

 一般にエッセイ漫画を読む際にぼくの頭のなかにまとわりついてしまう「作者の自意識、自己規定」の嫌味さ、または卑屈さが、チャラになっているからである。読んでいる最中、ちゃんとぼくは、ごまかされている。それでいて、よしなが的な美しさ、生々しさ、毒々しさがよく効いている漫画表現になっているのだ。

 さて肝心の料理紹介の漫画としてはどうなのかということだが、ぼく自身は、食い物の「味」への執着の薄さ、そしてそれを口に出して表現することへの関心の低さといったら、第7話に登場するK崎に非常によく似ていて、外食のさいに「駅ビルん中のどっかの店」でよし、としてしまう男なので、本来このような本を読む資格のない人間なのである。ちなみにそれゆえに、美食家である「Yなが」と、まったく食に関心をしめさない「K崎」(Yながとつきあいはじめて2カ月)の「対決」は、わがことのようにして読んでしまった。

 で、そのように「うまいもん」について口にする資格のないぼくであるけども、本書を読んで「あー、この店行ってみたい」と思ったものである。まあ、「Yなが」の行動範囲がぼくと似ているということもあるのだが、全編をよしなが流の「味覚表現」の言葉と絵で覆っていて、『美味しんぼ』の味覚表現のツヤのなさに比べても、「絶品」である。

 たとえば、学生時代の知り合い「A藤」がゲイだとわかっていっしょに寿司屋にいく話があるのだが、そこで中トロを食べたときの「Yなが」と「A藤」の顔が、性的恍惚さえイメージさせてなんとも笑える。
 ふたりは、フキダシを「ふるわせ」ながら、表現する。

「うそ… 前言撤回
 トロも最高……」

「とろけたね…
 口の中に入れた途端
 とろけたね…」

 顔を上気させ、体を震わせながら、「とろけたね……」のリフレイン。
 『美味しんぼ』では絶対にない表現だろう。

 そして、前にも紹介した通り、食事とは「社会関係そのものを食べる」(西江雅之)ものであり、「どこで、誰と、いつ、なにを話しながら食べたかが意味をもつ」(関川夏央)というとおり、ぼくにとってこの本が一番面白かったのは、「Yなが」といっしょにメシを食べている人々である。

 「アンニュイ」なことをいいながらフレンチを食べる(“ヘルシーなフレンチというのはアメリカ人の喰う「低脂肪アイスクリーム」に似た欺瞞の匂いがする”、とかなんとかいいながら)いくら食べても太らない美女・O田のアンニュイさが、妙な色気とリアリティを生む。

 あるいは、「Yなが」の身の回りの世話をしつくしていた「M脇」の、半分瞼をとじた、妙に冷静で上品な感じの表情。「そしてM脇は 激しい甘党である。」というト書きが出てくるとき、そこから語られるこの知性的美人の「こわれっぷり」にまた笑うのである。


 美食家ならぜひ読むべきだし、ぼくのように食に関心が薄い人間でも楽しんで読めるという、すぐれた作品。


 ところで、同居人S原が「化粧の寝姿のYながに欲情」し、その欲情を回避するためにナニゴトカをなして、「うわー びっくりするほどどうでもよくな」るまでの時間が、「4分」というのは、なかなか微妙なアレかと(心の中で競ってみたりして)。




※『愛すべき娘たち』の感想はこちら

太田出版
2005.4.18記(同21日加筆)
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