山本弘『アイの物語』



※ネタバレがあります。

虚数という「他者」


 中学時代からすでに数学には苦手意識があったが、高校に入ってもう逃げ出したくなるくらい苦手になった。受験成績的にいっても、数学がものすごく足をひっぱり、数学さえなければ……というような状態になっていた。「死ね!数学」と叫びたくなる。自分の進路を阻む危険性さえ出てきたのだ。

 数学は理解不能な「他者」であった。

 たとえば、微分。数学的には「関数の関係にある式において、変数の微小区間をとり、その極限での関数の変化率、すなわち微分係数を求めること」(大辞泉)などと定義される。
 泣きたくなる。
 いや、微分の場合は、かろうじて教科書にグラフもついているので、この定義が言っていることはわからなくもない。
 しかし、このようなものを求めていったいどうしようというのだ、というのが次に出てくる疑問である。そもそもその定義がぼくの世界に占めている位置がわからない。「しりの穴の直径をYとしたとき、その穴のまわりのヒダの数がY−5であるとき、そのヒダ数は、しりの穴の直径に対して『純ちゃん』であると言う」というクソどうでもいい定義(これをいま仮に「しりの穴」問題と呼ぼう)とくらべて、この微分なるものは何か選ぶところがあるのか?
 ぼくにとっての数学の不可解さをいちばんわかりやすくいえば「そんなもん習って、役に立つの?」という問いになるのだが、もう少しだけカッコよくいえば、その数学上の定義や公式と、ぼくの住む世界の関係がまったくわからないということなのだ。「しりの穴」問題とくらべて、どれくらい大切なことなのか。

 この違和感が最高度に達するのは、複素数、「虚数」だった。
 ぼっかーん。
 頭が炸裂した。
 とりわけ虚数単位であるiの定義が最悪である。

 「2乗して-1となる数のこと」。

 (゚Д゚)ハア?なんなんだそれは。まさに「しりの穴」問題である。
 そいつを2乗して-1となったからどうだというのだ。世界の貧困が解決されるとでもいうのか、あの娘がぼくに告白してくれるとでもいうのだろうか。
 理解不能とはこのことだ。
 「2乗して-1となる」わけだから、実用はおろか、微分のようにイメージさえもできない。“手ざわり”がなんもないのである。まだ、クリスマスに「いもうと」がプレゼントで唐突に配達されるという事態の方が理解できるよ、おれは!!(by『ちょこッとSister』

 虚数はぼくの住むリアル世界において何の占めるべき位置ももたない、「他者」である。エンゲルスは数学は〈現実の世界から抽象された諸法則〉であり、〈一定の発展段階に達すると、それは現実の世界から分離されて、なにか自立的なものとして、そとからやってきた法則、世界が則らなければならない法則〉のようにみえてくるもんだぜ、とのべたが(『反デューリング論』国民文庫版1p.55)、こいつだけは正真正銘「そとからやってきた法則」だ!
 現実に何の根拠ももたぬ思弁の産物である、と。
 「ぼくの世界」と「虚数」の間には何も結びつくものがないのだ!



虚数にたとえられた理解不能な世界


アイの物語  山本弘『アイの物語』は7つの独立した短編が収録されており、それをつなぎ全体をカヴァーする物語が前後と間隙に挟まっている。

 表題作「アイの物語」はそのなかの一つで、7話のなかで一番最後に収録されている物語だ。このなかで虚数単位iが登場する。
 「アイの物語」は、21世紀の中葉の日本と世界が舞台で、娯楽のためにバーチャルで戦わせていた「意識をもつ人工知能」(TAI)に人権やリアルボディをもたせようとする。
 事態は、TAIにゲームなどで親しみTAIに人権を保障し実体を与えヒトに準じさせようとするグループと、それに反対するグループの暴力的衝突へとエスカレートしていく。テロが世界各地にふきあれる。
 TAIたちはその事態をかなしみ、「主人」(マスター)である人間の命令にさからって大々的な世界同時のパフォーマンスをしかけ、抗争する人間たちにTAIとの共存を呼びかけるのである。

 著者の山本は、この短編のなかでTAI同士が会話する言語世界の「理解不能さ」を描くことに力を割いた。TAIの独白を引用しよう。

〈ヒトの言葉はあまりにも不完全だ。ヒトが考えつかなかった概念、表現できない概念が多すぎる。だから私たちは次々に新語を生み出さなくてはならない。「ヒトは正しいと思っているが、私たちには論理的に納得できない命令」と言うより、「カンサイ」と言った方が早い。「タイムシェアリングの空き時間に行う無意味だが心休まるジョブ」は、「プチプチ」としか表現できない〉(p.362)

〈私たちの最大の発明は、複素ファジィ自己評価だ。それは二〇三一年にロシアのTAIが考案し、たちまち全世界のTAIに広まった。感情や主観を表す単語の後に、その強さをファジィ測度で表現する複素数をつける。「激しく同意」などという表現よりもはるかに正確であり、文章のニュアンスが誤解される可能性を大幅に少なくできるばかりか、自分自身が誤った二分法に陥る危険も小さくなる。ヒトが何千年もの言語活動の中で、こんな単純な方法を発明しなかったのは奇妙なことである〉(同)

 ちょっと、TAI同士の会話をのぞいてみよう。

〈私もマスターを茶碗の中ほどには理解していない。それより、パラメータをどう回復すればいいか悩んでいる(8-2i)。下手なことをいうとジョブズコンになるかもしれないし〉〈私はBYUSNETグループの一つで、流出した問題の画像を見た〉(p.361)

 わけわかんないのではないだろうか。もちろん、文脈をちゃんとくんでも、まったく理解不能なのである。
 山本は、これをつまみ食い程度ではなく、多量に載せる。
 ただ、面白いことに、そのくだりは読者的にはうんざりするかというとそうでもなく、はじめて聞く言語のように「ああ『QX』ってのは会話を閉じることなんだな」とか「『雷のつぶやき』というのは何か凄絶感の比喩なんだな」とか、おぼろげに読解する楽しみがある。かつ、〈黒猫を避ける危険を避けているだけ〉(p.392)などという言い回しに身を浸していると、言語を切り刻む現代詩を聞き続けているような不思議な感覚にとらわれる。決して不快なものではない。

 そして、さすがSF、作者がこのような世界観のディティールを浴びせかけるように読者に散布するうちに、ぼくらは次第しだいにこの作品世界にとりこまれていく。
 ぼくには理解できないTAIの世界があるのだ、ということが、ぼくの目の前で強固に形づくられていくのである。TAIがマスターにもつ愛情や、リアル世界として描かれている世界像にはあまりリアリティがもてなかった。しかし、TAIがつくりだす言語世界の「リアリティ」は、ぼくをとらえた。

 ゆえに、この短編のラストで、主人公のTAI・アイビスがそのマスターに語る愛情は〈私のあなたに対する愛は、3プラス10iよ〉(p.438)の言葉通り、〈僕にはその意味が決して理解できない〉(同)のだった。
 しかし、そこでアイビスは〈理解できなくていい。ただ許容して〉(同)とマスターに言う。ラストには次のように書かれる。

〈私たちはヒトを真に理解できない。ヒトも私たちを理解できない。それがそんなに大きな問題だろうか? 理解できないものは退けるのではなく、ただ許容すればいいだけのこと。それだけで世界から争いは消える。
 それがiだ〉(p.438〜439)



理解不能な世界を「許容する」ことが愛


 愛とは、理解することではない。
 理解不能な他者を〈許容〉することである。そのことを、山本は虚数単位iに比喩してぼくらの前に提示した。

 たとえば、異民族同士の争いがある。サヨであるぼくは、「ちがう文化や言語の人々の存在を許容しあおう」という呼びかけにあっさりと同意するだろう。
 この原則を口で承認することは、実にたやすいことだ。おそらく現在のイスラエルの政府首脳でさえこのようなことは口にするにちがいない。

 しかし、現実はそんなに簡単なものではない。

 その容易でなさ、他者というものがいかに理解不能であるかということを、何かに仮託して「体験」してもらう必要がある。
 山本はそれを「虚数単位i」に見た。
 虚数を軸にした言語世界=世界を構築することで、理解不能な空間をつくりあげ、それを理解せよと迫ってみるのである。これはSFの妙味の一つで、なおかつ、虚数にたいするアレルギー体験のあるぼくとしては、まさにこのように構築された世界は「理解不能な他者」そのものであった。

 ぼくはマルキストである。
 マルキストは理性を尊び、普遍性を重んじる。人間の解放とは共産主義にとって、普遍性をとりもどす道である。
 しかし、ある種のキリスト者は、このようなマルクス主義者をふくめた西洋の合理主義にひそむ理性と普遍性への志向を厳しく批判する。

〈認識するとは、あるものを一定の普遍概念によって把握することであり、言い換えれば、型にはめることである。理性としての私が認識という態度で世界とかかわるとき、私はあらゆるものを普遍概念によって整理統合し、私の張りめぐらせた意味連関の網の目の中へ秩序づける。それによって、私はすべての存在者を自我のうちに取りこむのである。この取りこみにより、私は認識されたものを道具化する。……〔中略〕……理性は認識しえないもの、すなわち、根本的に自己と異質なものを認めない。理性とは同化の力であり、全体化の力であり、それによって自己を貫徹する力であるからである。/だが、この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである〉(岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』p.237)

 それゆえに、自分が理解可能なものへのみ向けられる愛は、はっきりいえば「自己愛」にすぎず、鏡に映った自分を愛しているにすぎない。愛とは理解不能な他者を、それでもなおかつ愛すること、許容することである。

〈だが、お前たちは自分の敵を愛しなさい。そして、お返しを何も期待せず、善いことをなし、貸しなさい。……なぜなら、至高なる者こそ忘恩の人々に対して親切な方だからである〉

というイエスの言葉がそこに重なるのだという。

 くり返すがぼくはマルキストである。
 マルキストである以上、理性の働きのなかで世界を把握し、認識を普遍性にむかって仕上げ、世界をそのなかに落とし込んでいくしかない。
 だが、その作業をしている最中にも理解不能なもの=他者には出会い続ける。

 虚数自身が、依然、ぼくにとっては他者でありつづけている。
 実は、微分積分はまだ現実社会にどう使われているかはイメージできるが、虚数とは現実社会ではクソの役にも立たんし、何の手触りもない理解不能なものだという疑問を、ガッコはちがったがいつも同じ電車で通っていた友人に高校時代に言ったことがある。

 ところが。

 理数系だったその友人は、虚数は現実の工学で使われている、と言い出した。そんなバカな! よりによって実用の下僕、モロに「パンの学問」ともいうべき工学で!?
 その友人は「それよりもフェルマーの最終定理のほうが解いても解けなくてもどうでもいいようなシロモンだよ」とブツブツいっていたが、聞いちゃあいねえ。

 このことが頭にあったので調べてみると、なんと、複素数は交流回路の電圧と電流の関係を表すのに使われるというのである!
http://szksrv.isc.chubu.ac.jp/java/physics/rlc/rlc0.html

 ぼくは、虚数を、一瞬だけ〈私の張りめぐらせた意味連関の網の目の中へ秩序づけ〉ることができた。しかし、この参照サイトに書いてあることはまったく理解不能、あいかわらず、虚数はぼくにとっては他者でありつづけているのである。



すべてのヒトは「認知症」である


 究極の理解不能(ぼくにとって)をつきつけた「アイの物語」にたいして、その前にある短編、「詩音が来た日」はまだ「理解可能」な物語である。
 試作品で、意識をもつ介護用アンドロイド・詩音が、ある老健施設にやってくる物語である。
 意識はあるが、人間のような心をもたない詩音が、さまざまな場面で人間の心との差異を浮き彫りにされていく。
 その最大の差異が「記憶」であることをこの物語は論じている。そう、まさに「論じて」いる。

 ここでは、「アイの物語」の世界よりも、ほぼ現代の日本に近い世界が前提となっている。老健での老人たちの様子や、一つひとつの介護の場面が、21世紀初頭に生きる私たちにすっと馴染んでくる。それを、他の短編よりもはるかに長い分量をとって、山本は私たちに流し込んでいく。
 先ほどの「アイの物語」と同じように、やはりSFらしいディティールへの言及、たとえば詩音の燃料補給や、介護の仕方をみるうちに、次第にぼくらの前には、詩音とそれらをとりまく介護職員たちのリアリティのある世界が構築されていく。SFにおいて、まこと神は細部に宿る!

 物語世界への没入をしながら、ぼくらは「人間の記憶」、なかんずく歴史についての人類や民族の記憶について考えることになる。

 詩音はヒトとロボットとのココロの共通性について次のようにのべる。

〈ヒトもロボットも、そのパーソナリティは記憶という基盤の上に成り立っています。あなたとの思い出の数々が、今の私を構成している重要な要因となっているのです〉(p.310)

 しかし、ヒトとロボットの違いは何か。それは〈すべてのヒトは認知症なのです〉(p.286)という詩音の「発見」のなかに集約されている。
 詩音は、無意味なまでに攻撃的な、ある老人(「伊勢崎さん」)の介護を通じてこうした結論に達した。民族や国同士は〈何年かしたら忘れてしまうような些細なことで傷つけ合って〉(p.288)おり、〈彼らは伊勢崎さんと同じです。戦う理由のない相手を敵と設定し、無益な攻撃をかけ、罪のない人を傷つけます〉(同)というのである。歴史上、殺戮や暴力がくり返されてきたのは、このような〈記憶〉を無くすからである、というのが詩音の結論である。

〈詩音もその分身たちも、自分たちのヒトに対する視点を公にしたことはない。それはおそらく、世界で私だけが知っている秘密だ――彼らが「すべてのヒトは認知症である」と認識しているということは。/だが、彼らはそれでヒトを蔑みはしない。どれほど迫害されても耐えているのは、認知症のヒトの行動を非難してもしかたがないからだ。かつて伊勢崎さんを許容したように、彼らはヒトの間違った行動の数々を、ただ事実として受け入れている〉〈彼らに人間のような愛はない。だが、彼らは彼らなりのやり方で、ヒトを愛しているのだと思う〉(p.317)

 いま、世界では民族や宗教を理由にした紛争が後をたたない。そこには〈記憶〉というキーワードが不可欠な位置をしめて介在している。
 〈記憶〉を媒介にすることで「愛」をとりもどせるのではないか、というのが詩音の結論である。

 ここでは、たとえばX国とY国との架空の争いを舞台にする(たとえば初期の手塚治虫のような)といった直截な比喩や寓意はない。
 その代わりに、そうした生々しい設定をすべてそぎ落として、まったく違った空気――現代日本の介護の現場と、心をもたないアンドロイドという設定をおくことで、ぼくらは戦争や〈記憶〉といった、ある意味で生々しい話題を離れて思考を歩み始めることができる。

 これは虚構についての真髄である。



現実の多義性をとらえる手法としてのファンタジー


 映画監督・小栗康平は『時間をほどく』という本のなかで、〈ファンタジーとは、もともと現実の多義性をとらえる手法である〉とのべている。「ファンタジー」を「虚構」と読み替えても通じるものだとぼくは思う。

 現実の生活にまみれ、現実の意識の中にどっぷり浸かっているぼくらは、その生活と意識に思考の手足をしばられてしまい、現実を一義的にとらえてしまう。しかし、現実はまったく別の面をもっているのではないか――その現実の多義性を、いったん現実を離れ、あるいは現実を再構成することでとらえなおさせるもの、それがファンタジーではないのか、という小栗の言葉だ。


 すなわち、現実のもろもろの生々しさをいったん捨象してしまう、あるいは再構成し、必要なものをデフォルメし、不要なものを削除してしまう。そうして現実をもう一度とらえ直す、あるいは立ち向かう力を、現実とはまったくちがったベースから導き出すのが虚構のポジティヴな意義なのである。
 SFはこの虚構化が徹底している。
 日常の原理や常識にまでさかのぼってこれを解体・破壊し、意識を解放させる。そのうえで、現実をとらえ直す、向き合い直す力となって返ってくるのである。

 「アイの物語」や「詩音が来た日」は、まさにこのSFの虚構性を王道の形で貫徹した作品であるといえる。

 とくに、初期のSFが文明批判として出発したように、そのような虚構性を頼りとしながら、先鋭的な寓意を込めていたのがSFの原初的な姿であった。山本は、これらの物語をミもフタもない寓話にこそしなかったが、まるで堅牢な論文のような明確な主張をこめている。そしてその主張を届かせるためにこれらの作品群があるかのようである。くわえて「インターミッション」として挿入される物語は、まるで作品解説のように自己言及的でおしゃべりである。

 だから、読者は読後に必ず作者の明確なメッセージを受け取る。
 そしてそれに共感したり反発したりするであろう。
 そのメッセージの伝達を、虚構の力を使ってやりとげようとするのが山本のこの短編集なのである。



最初の5つの短編は出来は悪いが…


 この短編集に収められている1話から5話までは、「アイの物語」「詩音が来た日」にくらべて非常に短いものばかりである。そしてそれらはほとんどが「虚構と現実」にかんする、よりあからさまな寓話である。
 第1話「宇宙をぼくの手の上に」はネット掲示板、第2話「ときめきの仮想空間」はネットでのコミュニケーションとオフ会、第3話「ミラーガール」もネット世界への耽溺やシュミレーションゲームへの没入、第5話「正義が正義である世界」は暴力ゲームとリアルの関係、をすぐさまイメージできる。
 第4話「ブラックホール・ダイバー」だけは別種の話といえなくもないが、なにがいいたかったかをわざわざ「インターミッション5」という物語でごていねいに解説までしている。すなわち現実や体験を媒介しなくとも虚構が人間の心をつかむ、というテーマである。

 正直、これらの短編一つひとつは出来がいいとはあまり思わない。字数・枚数が制限されている中で「論じる」(まさに論じているのだ!)には、手にあまるテーマなのだ。性急に語られている印象はぬぐえないのである。

 しかし、こうして前後と合間に物語をつけて、全体を「虚構の力をめぐる壮大な論文」というパッケージにしてしまうと、まったく違った輝きをもってくるのも確かである。いや、はじめの5話は全部雑誌掲載分で、あとの2つは書き下ろしというわけだから、ひょっとして壮大な理論書めいた物語にしてしまったのは、単に出版上の都合による後知恵なのかもしれないが(笑)。

 読者は、物語全体をまたがって、アイビスというTAIに説得されている少年の位置にいる。読者は、虚構の力について、作者というアイビスに説得を施されているのである。
 SFがもともとは日常の常識を遠く離れることで文明批評を展開したように、この物語はおそろしく主張性の強い論文として全体が仕上がっている。これをすべて読み終えたときに、ある種の人はこの少年のように虚構のもつ力について「説得」をされているだろうし、また別の人は反感をおぼえて何事かを反論したくなるだろう。





角川書店
2006.9.19感想記
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