よしながふみ『愛すべき娘たち』

(ネタバレがあります)


愛すべき娘たち

「相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも資本蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストゥスの楔がプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっとかたく労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級のがわでの、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである」

(マルクス『資本論』)


 「貧困」とは、ただお金がないということだけではない。
 人間が精神と思想のうえで抑圧と奴隷状態へと落ちこんでいくこと――そしてこのことは、形を変えた物質的な貧困とどこかで結びついているのである。
 現代では、「貧困」は、直線的に私たちの前には姿をあらわさず、転倒し、誇張あるいは希釈され、もとの姿をとどめぬような入り組みようで、私たちをからめとっていく。

 オムニバス形式で女たちの短編物語を集めた、よしながふみ『愛すべき娘たち』の第4話で、私たちは、何に胸をつまらせ、何を希望として感じただろうか。

 第4話は、中学生時代に将来の家事と仕事と自立について論じあった、3人の「娘」たちの生きざまを追っていく。
 牧村は「結局女が闘うしかないんだよね 割食ってる方から文句言うしかないのよ でなきゃ家庭内の男女平等なんて成立しないよ」ともっとも戦闘性にあふれた発言をする。
 佐伯は「あたしはとにかく一生働いていければそれでいいや 自分の人生をなるべく自分で決めて生きていきたいと思ったら自分の食い扶持くらいは自分で稼がなきゃ」と、おそらく今の世の働く女性の平均的な意見を口にする。牧村にくらべて、変革の戦闘性はない。
 如月も、ほぼ佐伯に近い考えの持ち主で、より動揺的である。

 高校、大学、社会人、と推移していくのだが、それはもっとも戦闘的で進歩的だったはずの牧村が、現実と妥協し、それに押し流され、後退につぐ後退を喫していく歴史となる。
 牧村は、普通科高校を中退し定時制へ移った後、そこも中退し、「大検を受ける」といいながら、結局受けない。そのつど牧村は体のいい言い訳を重ねていく。

「や でも定時制に移るけど学校は続けるよ」「勉強はどこでもできるよ」「(出版社は)あーあれはもうとっくに辞めたんだ 職場に超――やな女がいてさー このあたしがそいつのせいで体調崩したのよ?」「あたしも大検受けて絶対大学行くから」「実はね あたし今小説書いているんだ」

 やがて、牧村は結婚に逃げる。まさに逃げこむのだ。佐伯と会った牧村は「昔はいろいろ偉そうな事言ったけど」とサラリと過去を否定し、“つくす女”に変貌している。

 牧村の「つくす女」への変質は、まさに「人間的理想の衰弱」そのものである。

「利潤獲得のための人間の物化は、その生活意識をもまた物化させる。人間をして人間たらしめる創造的活動は見失われ、あるいは手のとどかないものとして断念され、物質的消費生活のゆたかさだけが切りはなされて追求される。生産的労働は、消費のためのやむをえぬ手段となり、労働にたいする人間的な喜びや誇りは遠い過去のものとなった。……ここにみられるものは、たんに人間の理想の衰弱であるだけではなく、より本質的には人間の生活意識の痛ましい転倒というべきであろう」(上田耕一郎『先進国革命の理論』)

 牧村をみつめつづける佐伯は、昔牧村の言った言葉の中に、実父から性的な虐待を受けていたことを示す言葉があったことに、後でハタと気づく。

 佐伯自身も、地方公務員試験に失敗し、小出版社で派遣社員として働いている。担当の作家から「今度からはあとほんの少しカワイイ子に取りに来させろ」と侮辱を受ける日々を過ごしている。


 牧村は、現実のあらゆる矛盾が怒濤のように押し寄せ、その激流に押しながされていったのだが、佐伯もまたそのような現実の激流と無縁ではない。派遣という不安定雇用のまま、性的軽侮を受けながら働く身の上である。牧村のように流される直前、指ひとつで流れにさからってとどまっているにすぎない。
 牧村が“つくす女”に変わり、それでも「幸せ」になろうとしてる姿をみて、佐伯は「これで良かったんだ」「きっとこれで良かったんだ……」と自分に言い聞かせるようにその姿を納得しようとする。
 佐伯からみた牧村の姿は、理想、いうには大仰すぎるほどの小さな夢さえ放棄させられ、現実に押し流されていく自分の姿そのものなのだ。

 そこに、中学以来連絡をとっていなかった、如月からハガキが来る。

「私は今市役所に勤めています 中学時代に話したように家庭内の男女平等は中々うまく行かないけれど それでも何とか仕事は辞めないでがんばってるよ」

 佐伯は、「何とか仕事は辞めないでがんばってるよ」の一文に目をとめ、あふれる涙を抑えられなくなる。
「本当は辛くて辞めてしまいたい仕事の事も先の見えない不安も一瞬忘れさせてくれる言葉だった」


 この涙は、全5話のなかでも圧巻である。
 よしながはおよそそうは言わないだろうが、佐伯と牧村の姿は、現代的な貧困の一つのかたちだ。近親者からの虐待や不安定雇用、定められた性的分業という客観的物質基盤のなかで、小さな理想が窒息させられる。冒頭にものべたように、精神的貧困と物質的貧困が複雑にからみあいながら、その発生根拠やしくみを隠蔽しつつ、個人を強襲するのが、現代の貧困だ。
 その貧困に抗してささやかな理想を守ることは、いまの日本では、どんなふうに示されるだろうか。
 スクラムを組んでそれに抗する、というスタイルが、いまやなかなかにリアリティをもって提示されない。だとすれば、よしながが描いたような、ハガキの一言、「何とか仕事は辞めないでがんばってるよ」というその一言こそが、その理想を守り抜いていく、もっとも力強い、そしてリアリティのある激励の言葉となる。激流のような現実のなかで、やはり同じように指ひとつでその流れに抗して小さな理想を守り抜いている友がいたという、その事実こそが。

 貧困とたたかう力、小さな理想を守り抜く力を、どうやってリアリティをもって描き出すか、いまの日本ほどそれが難しい場所はない、とぼくは思う。一方で労働組合の組織率が2割を切り、他方で貧困は転倒し変型し複雑化して我々をおそうのだから。

 くり返すことになるが、よしながのこの話は、決してそのような現実への「解答」でも何でもない。
 だが、佐伯が流した涙は、われわれが何によって心の奥底から励まされるのかという、その急所をついているのである。

 年の瀬に来て、本年で一番良質の漫画作品の一つに出会えた思いがする。

 そして感想はさらに続くのである。



よしながふみ『愛すべき娘たち』
白泉社JETS COMICS
2003.12.28記
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