よしながふみ『愛すべき娘たち』 感想続編 前稿のつづきである(ここもネタバレあり)。 やー、やはり第3話に「マルクス主義者」が出てくるのだから、マルキストとして言わいでおくべきか。 第3話の主人公、若林莢子(さやこ)は、本巻中はもちろん、近年の漫画表現を(管見だが)見渡してみても、もっとも美しく造形された形象の一つであろう。 莢子は、祖父を心から尊敬している。 祖父は戦前投獄され、節と思想をまげなかった不屈の人で、戦後は大学教授をつとめてきた。 その祖父が莢子にいったこと――「決して人を分け隔てしてはいけないよ いかなる理由があっても人を差別してはいけない 全ての人に等しくよくしてあげなさい」――は、莢子の人生の指針となる。 望月玲子が、以前、「ヤングユー」誌に唐突に戦前の共産党員で、投獄・拷問をうけ、いまは老人となっている男性を描いたことがある。 見事なまでの志操のまっすぐさ、というものが、しばしば作家の美的感覚を刺激するのだろうと思う。(思想の内容――それがコミュニズムであるかどうかなどということはどうでもよくて) おそらく、よしながは、そのような潔癖、誠実、志操堅固、平等思想、ある種の不屈、というものが、現代ではどこに継承されているのか、居場所を見い出しているのか、あるいはどんな形で存在し得るのか、ということを知りたかったのではないだろうか。 それを若林莢子という形象に仮託したのだ。 ぼくは、その試みは、抜群に成功したと思っている。 よしながの得意とする絶妙の間合いの会話は、莢子の人物像にもっともふさわしく、精神のすばらしい均衡と博愛的な態度をあますところなく表現している。 とりわけ、莢子の小さな姪が熱を出して、それを看病している最中に、姪の吐瀉物を、平然と、いや十分すぎるほどの愛情をもって、手で受け止めるシーンは、この莢子の「思想」と「行動」を激しく読者に印象づけた。このワンシーンをもって、ぼくは莢子の虜になったとさえ言ってよい。 誰かを愛するということはそれ以外の人々に分け隔てをもうけて接することだと莢子は悟り、自分は結婚できないのだと思い定めて、結局修道院に入ってしまう。 「マルクス主義者の孫がシスターになっちゃうなんて皮肉な話じゃないの」 「そうね でも 彼女の中では矛盾は無かったのよ」 と、局外者がふっと言って、この話は終わる。 敬虔な信仰者でありながら同時にマルキストである人間が山のようにいるという現実を知っている者からみれば、この「ヒネリ」をつけたはずのオチは、ちょっとした“ご愛嬌”ではあるが、それでこの作品の価値がいささかも減じるものではない。 よしながは、莢子の生きざまを良いとも悪いとも定めない。ただ、美しい思想や生きざまというものを、ある種のリアリティのなかにおいて描きたかっただけなのだろうと思う。それゆえに、この娘はまさに「愛すべき娘」であるとしかいいようがないのである。 |
||