中島昭二『まんが 会津白虎隊』


 会津に旅行しておりました。
 会津藩の中心地である若松城(鶴ケ城)は会津若松市にあり、その付近の史跡などをめぐりました。

 幕末の会津と白虎隊についてひょっとして知らない人がいるかもしれないので、いちおう書いておくと、もともと幕府側のいちばんの尖兵として、新選組などをつかって倒幕派の志士を弾圧していたのは京都に守護職として行っていた会津藩(藩主は松平容保)。
 ところが薩摩と長州が倒幕の連合をくみ、江戸幕府を完全に武力殲滅するべく戦争をおこします。これが「戊辰戦争」です。新政府軍たる薩長の連合=西軍は京都から江戸まで攻め上り、江戸を無血占領。さらに東北の平定をめざします。
 このときの会津をはじめとする東北諸藩の同盟軍(奥羽越列藩同盟)と西軍が東北で戦争をおこない、そのもっとも激烈な戦地のひとつとなったのが、会津なのです。
 会津藩は新政府軍との戦争にそなえてフランス式の軍制改革をおこない、軍を年齢別に4つにわけました。
 このうちいちばん年が若かったのが「白虎隊」で、16〜17才からなる少年部隊です。約300人。そのうちの一部隊が負傷して会津若松にもどる途中、市内を見下ろす山(飯盛山)で城が燃えているのを目撃(実は城下が燃えていただけなのだが)。もはやこれまでと少年たちは自刃しました。これが「白虎隊の悲劇」です(19人が死亡)。なお、白虎隊の戦死者全体はもっとたくさんいます。

 ところが、この白虎隊のことをふくめ会津側は、いわば明治新政府に逆らった「賊軍」という扱いをうけてきました。飯盛山の白虎隊の死体も、新政府軍からその埋葬を固く禁じられ、3カ月も野ざらしにされていました。じっさい、靖国神社には、このときの会津軍の犠牲者は葬られていません。



会津におけるルサンチマン


 会津の郷土人、とりわけ白虎隊ファンや士族の子孫関係者は、この事件を強い感情をもって、いまも伝えています。それはどういう感情かというと、その中核には、(1)郷土会津が「外敵」によって蹂躙されたという憤りです。このコアの感情が生々しく存在するのですが、くわえて(2)「賊軍という汚名を着せられた」という複雑な感情がこれにからみあっています。

 書籍などでは、(1)について入念にふれているものがあります。
 以下は星亮一『白虎隊 燎原に死す』からの抜粋です。

「この日の戦争で捕らえられた会津藩兵と仙台藩兵白河某は、松の木に縛られた。薩摩兵が取り巻いて、『会賊より殺せ!』とわめいている。万座がどっと笑うと、一人が抜刀して耳を斬り落とした。次に鼻をそいだ。『ギャー』会津藩兵が断末魔の声をあげるや、一刀のもとに胸を割った」

「敵兵は手当たり次第に民家に押し入り、財貨を盗み、牛馬に満載して、滝沢峠から後方に運んでいる。一面、荒野と化したあちこちに銃弾に斃れた会津兵の遺体が投げだされ、衣服を剥ぎ取られた婦女子が晒されている。自分の妻が、娘が、目の前で凌辱され、ある者は舌を噛み切って死に、ある者は抵抗して殺された」

 本書『まんが 会津白虎隊』は、子どもにも読ませることを念頭においてか、この部分の描写はほとんどありません。しかし、(2)については、強烈な主張をしているのが本書です。本書の「あとがき」にはこうあります。

「皆さんはこの本の中で出てきた白虎隊士がなぜ若い命を自ら絶たなければならなかったと思いますか。会津藩はなぜ賊軍という不名誉言われ方をされてもその武士道を貫いたと思いますか。その奥にはどんな心が隠されていたのでしょうか」

 すなわち「賊軍」という汚名が、この白虎隊ファン、あるいは士族の子孫には耐え切れないのです。21世紀に生きているぼくなどからすれば、賊軍だったか官軍だったかは、もうどうでもいいことなわけですが――その大義の意味が今日では失われているから――、これらの人々にとっては、矜持にかかわる一大事なわけです。
 実は、飯盛山付近には、ふたつの民間とおぼしき白虎隊の資料館があり、ぼくはそこをたずねたのですが(白虎隊記念館、白虎隊伝承史学館)、だいたいこの本のタッチ、筋運びに似ていて、ラストを「(会津藩出身者は)賊軍の汚名を負わされていたために活躍の場は(維新後)制限されていたが、教育の分野などで数多くの会津出身者が偉業を残した」(本書より)と閉めているのもそっくりでした。
 いわば「会津藩イデオロギー」ともいうべき物語として染め抜かれたのが本書なのです。



会津藩イデオロギー


 そこには、
  • 「会津は朝敵ではなかった」
  • 「会津戦争はやむをえざる戦争であった」
  • 「薩長の連合軍がしかけた挑発・陰謀であった」
  • 「会津藩士たちは武士道の精神を貫いた真のサムライだ」
  • 「政府軍は東北で悪逆の限りをつくした」
  • 「会津藩出身者は教育などで人材を輩出した」

という物語のパターンが共通してうかがえます。

 本書では、松平容保は京の守護職になり孝明天皇の信任があつく、幕府と朝廷を一体化させる路線(公武合体)は孝明帝の路線であり、その路線のもっとも忠実な実行者が会津藩だった、という主張がまず念入りにおこなわれます。

 本書でも、上記の資料館でも、孝明天皇が会津にあたえた「ご宸翰(しんかん=天皇の自筆の手紙)」をさかんに強調し、会津藩が単純に賊軍などとはいえないことを必死で弁解します。ちなみに上記の資料館(白虎隊伝承史学館)では、孝明天皇について「岩倉(具視)が毒殺」と平然と書かれているのにはけっこう笑いましたが。孝明天皇の死によって公武合体路線が破綻し、これまで朝敵であった長州が官軍の側となり、朝廷の側にいたはずの会津が賊軍とされた、というわけです。

 なお余談ですが、こちらの白虎隊伝承史学館は、所狭しと白虎隊関連の遺品や資料が置かれ、雑然としています。戊辰戦争や会津戦争についての説明がほとんどなく、いきなり白虎隊士の説明から展示がはじまり、初心者は面喰らいます。しかもこのパソコン時代に、ほぼすべて手書きの説明文。解説としては失格なのですが、少なくとも展示者の白虎隊への「愛」は強烈に感じます。デザインはダメダメだけど、書かれているものへの愛情だけは伝わってくる、年輩者の朴訥なホームページのようです(白虎隊記念館のほうはもう少し洗練されているのですが、それでも初心者にはつらいでしょう)。

 本書の話にもどりますが、京都の状況については次のような一文もあります。

会津藩と新撰組の働きにより一時的に安定をみせた京ではあるが、尊攘派を中心に脅迫と暴行が続いていた。なかでも尊攘派の長州、薩摩、土佐の主導権争いでもっとも力をつけはじめた長州藩の陰謀は過激であった」

 さらに、会津は恭順の意思をしめしたのに、新政府軍側は会津を武力殲滅するかまえをくずさず、あまりに強硬に会津討伐を東北諸藩にせまる新政府軍側の参謀を、仙台・福島藩士たちがテロって殺してしまう……と本書は描きます。あくまで「やむをえざる戦争」であり、「薩長の側の異様な憎悪」が強調されるのです。




会津における精神運動、ぼくの危惧


 「やむをえざる戦争」論以外に、本書を読んで強く印象づけられるのは、白虎隊がうけた教育の称揚です。藩士の子弟たちは日新館という藩校につどい、「什の掟」という教育をうけます(什とは10人組という意味で教育をうける集団のこと。今日風にいえば学級)。

「年長者のいうことに背いてはなりませぬ」
「年長者には、おじぎをしなければなりませぬ」
「嘘をついてはなりませぬ」……

などの徳目でうめられ、最後に「ならぬことはならぬものです」という土井たか子のような一句がつけられます。そしてこの精神教育が武士道の誠実さをはぐくみ、白虎隊へとつながっていきます。白虎隊が自決するシーンで次のようなセリフと解説がはさまれます。

「『みんなでいさぎよく腹を切ろう!』 この時、全員がそう思っていた。主君のために命を捨てる、それは幼い頃から少年たちに培われてきた精神だった」
 
 以上をふりかえって、「やむをえざる戦争」論といい、「主君につくす武士道精神の称揚」といい、ぼくは、大日本帝国のミニチュアのような精神運動を感じました。じっさい、白虎隊のエピソードは戦前の教科書にくり返し登場し、軍国主義をささえていく精神的な道具としても使われてきました(小檜山六郎『会津白虎隊のすべて』)。

 いえ、まちがいなくこの藩校の精神教育の結果が白虎隊の末路だとは思いますし、それをたんに歴史のひとこまとして冷静にみているだけならそれはそれでいいと思うのです。

 しかし、さきほどの「什の掟」などは形をかえて、今日の会津の子どもたちの道徳教育に使われているようだし、こういう民間施設にせよ会津の精神運動的にいまだに白虎隊や藩校がその位置をしめていることは、なんだかなあと思うわけです。

 ぼくは白虎隊の自刃地であり墳墓のある飯盛山に登ったのですが、そこで一番巨大なモニュメントは西洋風な鷲の彫像なのです。偉容というか異様というか。実はローマ市から白虎隊を顕彰して送られたものらしいのですが、基石をよくみるとファシスタ党というイタリア語での刻印があります。つまり武士道精神をもちあげようというムッソリーニ・ファシスタが送ってきたものなのです。占領軍によって戦後このくだりが削られたようですが、現在は復活しています。
 そういうことがあまりに無邪気に混在している、というのが、この白虎隊をめぐる郷土ナショナリズムではないかなと本書を読んで、あるいは会津若松付近を歩いて強く感じました。ちなみに、あとで会津若松市にある福島県立博物館に行きましたが、白虎隊の説明などたったの1枚の絵での説明だけで、説明の調子もごく淡々と客観的に書いてあるのみでした。




じっさいの会津藩の敗北は何だったのか


 じっさいのところ、会津軍はどうだったのか。新政府軍が城下でかなりの乱暴を働いたことは事実のようですが、他方でこうした記述もあります。

「イギリス公使館付の医者ウイリスによれば、会津軍は、政府軍の捕虜をすべて殺し、沿道の婦女子に乱暴し、民家から略奪し、反抗したすべての者を殺した。そのため、沿道の人民はみなにげ、会津軍は、人夫さえ求めることができず、みずから、兵器や荷物を運ばなければならなかった。/新津の近くでは、会津軍が近づいたので、庄屋はほら貝を鳴らして『農兵』を集め、竹槍で会津軍の退路をはばんだ。会津軍は、うしろからは政府軍の大軍に迫られ、まえからは農民の蜂起で退路をはばまれ、みじめな敗走をつづけた」(家永三郎編『日本の歴史4』)

 まあ、フランスと組んだ会津にたいするイギリス人の叙述だという点はさっぴかないといけないでしょうが。

「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。/かれらは、『徳政』あるいは、『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、村役人を新しく選挙した。政府軍は、この2か月におよぶ『世直し』一揆の波を、手をこまねいて見ていた。こういう政府軍を見て、農民たちは、じぶんたちをこれまでの悪政から解放してくれるものと信じていた」(同前)

「これらの戦争においても、現地の民衆が自分たちの藩主・領主に味方せず、かえって政府軍を支持したことが政府軍の勝利の最大の条件となった。民衆が部隊をつくって奥羽越軍とたたかった例もいくつかわかっている」「民衆が藩主を支持せず、かえって官軍を支持したから、三千の士族だけが、かの白虎隊のように少年までも壮烈にたたかっても、会津藩はついに官軍に勝てなかったのだ、と板垣参謀〔退助。政府軍――引用者注〕は感慨にふけるのであった」(井上清『日本の歴史20 明治維新』)


 もちろん、会津藩討伐後、新政府軍はただちにこれらの一揆を残忍に弾圧し、「解放軍だという幻想は、打ちやぶられた」(家永前掲書)のですが。いずれにせよ、基底部分の民衆は藩主や士族の行動から離反し、徹底的な孤立のなかで時代の逆流として滅亡していったのが会津藩だったのではないかと思います。

 なお、本書は地元で売っていたもので、出版社も同市の出版社でした。
 漫画としては、絵は、ひょっとして味なのかと思ってしげしげ見ていたのですが、やはりただヘタなんだろうなあという結論に達しました。行政のブックレットの挿絵ならいいのですが、物語のついたコマ割り漫画には耐えません。白虎隊の顔も、もう少し初々しく描いてほしいものです。
 ただし、話をはこぶテンポはかなりうまく、スムーズに最後まで読めます。その点では、「解説もの」としてはよくできていると思いました。


 以前、ある地方で、『酒呑童子』について、退治される酒呑童子側からみた絵本を読んだことがありますが、地方にいくとこのように中央の歴史観とは別の、郷土ならではのユニークな史観が息づいていて、それが漫画などになっていることが少なくないので、みなさんもお出かけのさいはぜひお探しになってみてはいかがでしょうか。





監修:早川廣中・野口信一 作画:中島昭二
歴史春秋社
2005.9.16感想記
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