紺野キタ「あかりをください」&石坂啓「そういう関係」



 近代家族が引き受けられない感情は、女性漫画家たちによって好んで描かれてきた。

 本作は、娘(高校生)が、若い義父に秘めた恋愛感情がテーマだ。すでに実母は他界し、義父と娘と幼い妹の3人ぐらしの家族である。義父は娘の気持ちには気づいていない。

 義父と娘。
 これを欲望や恋愛色だけで描けば、ミもフタもないストーリー、早い話がエロ漫画になる。

 だが、紺野のこの作品が当然そこにおちこまないのは、そこに家族や「友だち」としての感情が複雑に入り交じっているからである。たとえば、この家族がスーパーで幸せそうに買い物をしている光景は、読んでいる側も、一瞬、幸せな家族の情景なのか、恋人同士の幸福な情景なのか、判断がつかなくなる。
 しかし、やはり主要なテーマは、娘の、義父にたいする恋愛感情である。娘は、この、出口のない、表現のできない感情を、いつくしみながらも、それに苦しめられるのだ。

 紺野の絵柄は嫌いなほうではない。どちらかといえば好きな絵柄で、娘をみた近親者が「どきっとしちゃった」というように、セーラー服を着た娘の姿を美しく思うのは、ぼくだけではないはずだ。

 にもかかわらず。

 紺野のこの短編が、ぼくにあまり訴求してこないのはなぜだろうかと、ずっと考えていた。

 最大の問題は、まさにその絵柄そのものにある。
 紺野のふわりとした絵柄は、問題をリリカルにしか引き受けない。表情も風景も、生々しい現実へと迫ってはいかず、どこまでも幻想性をつきまわとわせる。後に掲載されている人魚や土中に埋まった宇宙人のような「おとぎ話」にこそ、紺野の本領はある。

 これを、石坂啓とくらべてみよう。

 石坂も『安穏族』のなかの「そういう関係」という短編で、姉の婚約者への女子高生の感情として、やはりこの種の出口のない感情を描く。

 このテーマをあつかう場合の石坂の強みは、ここでも絵柄である。石坂の絵柄は、手塚の空気を残しながら今の「萌え」へとつながるアニメ絵性的な空気を濃厚に漂わせている。この短編が男性漫画誌「ヤングジャンプ」で連載されていたように、性的な欲望や感情をきちんと引き受け、それを十全に表現できる絵柄だと、ぼくは考える。セックスのさいの女性の恍惚感や高揚感の表情を、石坂はこの短編集でしばしば描いたが、そうしたコマをみればそれは一目瞭然だ。

 「そういう関係」の扉絵からして、すでに性的である。
 (将来の)義兄(裕也、ゆうちゃん)を背景にして、主人公の女子高生(毬子)が大写しで描かれているが、いわゆる「濡れた眼」を想起させる。自分の小指をすこしアンニュイな感じでくわえようとしている様は、性的でなくて何であろうか。

 描かれる毬子と裕也のエピソードの大半は、無邪気な義兄と妹の話ばかりで、いっこうに性的ではない
 ディズニーランドに連れていってとねだる毬子、自分の高校の文化祭に姉カップルを呼ぶ毬子。義兄にあこがれる若い娘の、まったく無邪気で健全な姿である。この限りにおいて、この感情は、近代家族が引き受けられない感情どころか、近代家族が想定する、もっとも美しい家族愛の一つの情景であろう。

 この関係が一瞬だけだが、「性的」に転化する瞬間が描かれる。
 まあ、それは青年男性誌のいわゆる「サービスカット」なのかもしれないが、毬子のシャワーシーンを描いたあとで、姉カップルが家にもどってきて、裸姿の毬子を、偶然裕也が見てしまい、大騒動になる、という瞬間である。
 着衣してから照れくさそうに毬子は裕也の前に登場する。焦っているために、リンゴの皮がうまくむけず、指をケガするのであるが、この指に絆創膏をまくシーンは、やはり「性的」である(ちなみに、指に絆創膏をまくシーンは、『あかりをください』にも登場する。女性の幻想にとって、秘めた思いを描くためのひとつの道具なのであろう)。

 しかし、「性的」情景は、ただこの瞬間だけである。
 毬子は、裕也との関係を考える。

「なんか……いいな こういうの わるくないな…… 家族が増えちゃうっていうんだな ほんとの兄さんってのよりもうちょっと照れがあって もうちょっと親密なかんじ…… そいでいつかあたしにもBFができたらさ 彼氏もお兄さんと仲よくなって 今よりもっとにぎやかになって わるくないな そういうの……」

 このモノローグのうちには、性的な空気はない
 絵柄と直前のエピソードだけが、底流のようになって、性の空気をただよわせているのだが、ここにあるのは、健全な、いや健全すぎるほどの、近代家族の一員としての感情である。

 エピソードやドラマからは極力こうした性の臭いを追放しながら、絵柄とただ一つのエピソードに性の空気を集約させることによって、石坂のこの短編では陰影をつけた彫琢となり、多層的な表現が実現している。

 紺野の幻想的な絵柄に比べ、はるかに生々しく、その意味でリアルなのである。
 またしても日本的空間において性はリアルさを喚起させるというテーゼをもちだすことになってしまうが、この性的な空気だけを漂わせながら、語られるエピソードは極力その臭いを抑える手法は、紺野とは対照的である。

 やがて、物語は、裕也と姉が突然破談になって、ある日を境に毬子の家から「裕也」の名前や写真、痕跡が消える。毬子のモノローグ。

「ひどいよお姉ちゃん お姉ちゃんにはカタがついたことかもしんないけどさ あたしはもうお兄ちゃんってつもりで―― すっかり心ひらいてたのに 一方的にこんな中途はんぱに レコード返すのもディズニーランドの約束も みんな途中のまんまで こんなぷっつり……」

 毬子は裕也をよびだして、喫茶店で借りていた「ビリー・ジョエル」のレコードを返す。
 裕也は十分に親切に接するのだが、いちばん本質的なことにはふれず、どこかよそよそしげな慇懃さで毬子と話す。

 それを聞いて、毬子は耐えきれず、ぼろぼろと涙をこぼす。まさに、「ぼろぼろ」と。

 毬子は嗚咽しながら、裕也に言う。
「ひどい……そんな話し方……ゆうちゃん……もう……よそのひとみたい――だもん……」

 ここには、家族の愛情という枠組みから急速に滑り落ちていきながら、どこにも行き場がない、それでいて美しく哀しいままの感情がみごとに表現されている。
 
 ここが、石坂のこの短編の感情的クライマックスで、読んでいて思わず泣ける。
 石坂はこのシーンを涙を流す毬子の大写しで思いきってストレートに描く。
 これにたいし、紺野の感情的頂点は、義父に指にはってもらったバンドエイドを見つめながら自分の部屋でひそかにくずおれる、というシーンであるが、涙や眼をかかずに読者に想像させる効果を紺野は選んだ。しかし、残念ながら石坂の直截な表現がもたらす力には遠くおよばない。

 物語は、「失恋しちゃうってことの方がたぶん――こんな関係より楽だったろうと思う ひとつの光景があたしのこころに刻まれて あたしはそれをもっと奥の方にしまいこんだ もう二度と外に出てくることもないと思うわ」という毬子のモノローグにつづき、姉の結婚式でラストとなる。
 姉はおそらく別の男性と結婚した。
 その式の場で、毬子は姉にむかって、「おめでとう」というのがラストのコマであるが、そこに描かれている毬子の家の人たちの顔には、誰一人として表情が描かれていない。それは毬子の心象風景であり、ここにはもう毬子の祝意も、真情もないことをしめしている。
 健全すぎるほどの家族愛は、ラストにきて、鮮やかに反転される。
 まさに、毬子が閉じ込めざるを得なかった感情とは、近代家族の枠組みのなかではどこにも行き場がないのだ。

 社会や家族のありように鋭角な批判を刺しこむ石坂ではあるが、むろんここで家族制度をうんぬんしようという意図はみられない。
 しかし、それでも、この作品を読むと、社会が定規のように仕切った制度の枠組みのなかで、ぼくらの真情というものは実に容易においてけぼりにされやすいものであるなあと思わずにはいられないのだ。




紺野キタ『あかりをください』(幻冬舎コミックス)
石坂啓『安穏族』3巻(集英社ヤングジャンプコミックス)
2004.4.24記
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