安野モヨコ『花とみつばち』



花とみつばち (1)

 今年(2002年)いちばん驚かされたニュースの一つは、安野モヨコと庵野秀明の結婚だろう(「驚いた」のであって、「重大」ではない)。
 90年代のサブカルチャーの最大所産を、ある論者は『エヴァ』と『ハッピー・マニア』をあげていたが、その二人が結婚ということで、巷間で「サブカル界のロイヤル・ウェディング」などといわれるのも無理はない。

 安野は少女マンガ界ではずっと鳴かず飛ばずだったが、女性誌に移って『ハッピー・マニア』を描いて大ブレイクした。以後、出すもの全てが大当たりし、商業的成功というにとどまらず高いクオリティを保ちつづけている。
 少女マンガ時代に描いた『トランプス』を読んだことがあるが、とても窮屈そうだ。ノリも登場人物配置も、それ以降の作品群と似ているのに、どこかしら解放されていない。恋愛を装飾や理想の中で描かねばならないという少女マンガの制約に大きく拘束されていたのだろう。

 安野は雑誌のインタビューにこたえて、次のようにのべている。
 「それまでの作品が抑えてたんです。主人公が高校生でも、恋愛を描くときに絶対セックスって出てくるじゃないですか。……少女マンガ誌だとやっぱり駄目だと言われてしまうんですよね。そういうのは読者が求めていないからと言われて」(「ユリイカ」97年4月号)

 つづけて安野は、
 「自分のリアルな恋愛の感じというのを描いたのは『ハッピー・マニア』 が初めてだった」
とのべている。

 マルクスは、出す本がすべてケンカや批判の本だった。教科書めいたものはほとんどない。あの大著『資本論』でさえ、そのサブタイトルは「経済学批判」であり、古典派経済学の批判として書かれたものである。

 安野の恋愛マンガは、恋愛の現状への批判である。
 恋愛を安野なりにリアルにとらえ、そのリアリズムから、現行の恋愛を批判している。それもロジックではなく、笑いを武器として。
 『ハッピー・マニア』の誕生についても、
「モデルといえば、私自身ももちろんそうですし、……身近にいた女の子たちがみんなそうだったんです。……可愛いのに彼氏がいなかったり、今まで男の子と付き合ったことがないわけじゃないけど全然長続きしなかったりとか、『やっと見つけたの、ラブ』とか言っていたかと思ったら次に会った時は別れていたりとか。私も実際そういうときがあって、その時に感じたことがそのままマンガになっちゃったのかな、と」
とのべている。そして、この自嘲や自虐をかぶせたシゲタカヨコ像が、嫌味な批判にならず、読者の大いなる共感を得る形象として大成功をおさめた。

 安野は自分の恋愛をふりかえって、クリスマスツリーの下にカレにつれていかれる自分とか、壁に手をつかれてキスをされる自分を、どこから離れてみている自分がいて「オイオイ」とツッコミをいれていたということをのべている。この客観力が、シゲタカヨコを生み出し、それは痛快な恋愛の現状への批判になっている。
 ナルシシズムと様式美、幻想の世界である少女マンガとは対極にある。少女マンガで生活していた時代は、さぞつらかったことだろう。

 いまあげたインタビューでは、斎藤綾子らがジェンダー論などでこの問題をたどりなおしているが、安野のリアリズムにあるものは、文字にすればもっとシンプルである。
 NHKに青年たちとの対話役として出ていた安野は、もっさいカッコウをした男の子が、その独特な意見ゆえに、出演した他の若者たちから集中砲火をあびながらも、自分のスタイルに固執していたのをみて、「十年後、彼がいちばんカッコよくなっている」と最後にコメントした。
 つまり安野の核心には、「自分というものが確立していることが大切なのであって、関係性の開花はその上にあるものだ」という信念がある。それが妥当なものかどうかはとりあえずおいておくとして。
 それが先鋭的に表現をとると、『脂肪という名の服を着て』や『カメレオン・アーミー』のようなスタイルになる。こちらは、笑いではなく一種のホラーである。
「全然自分はイケてると思って突っ走ってきた人が、果たしてそれでいいのかと、フッと自分の足の下に何もないと気づいた時にどうなるのかなと思ったんですよ」(『カメレオン・アーミー』への安野のコメント)

 こうした問題意識のもとで、代表作『ハッピー・マニア』 のまっすぐな継承作品として生まれたのが、『花とみつばち』である。
 しかも、こんどは若い女性ではなく、男子高校生が主人公である。みつばつに来てもらおうと、絢爛な色を必死につけようとする花びらたちになぞらえて、男子高校生の思考と行動様式を笑い飛ばす。「この世で一番バカな生き物 男子中高生」(by沙村広明)に批判の的をもってきたのは、いいねらいだ。ワタシ自身のバカっぷりを思い返してもそう思う。
『ハッピー・マニア』のシゲタカヨコは一種の狂言回しの役をになっていたが、こんどの主人公の小松は、そういう客観性をもってはいないキャラである。そりゃそうだ。こんどは作者がキャラに自分をかぶせずに、徹底的に客観視できるんだものな。したがって、批判は『ハッピー・マニア』のときより、いっそう激烈である。「美男ワールド」という小松が美女2人に指南(という名目で小松で遊んでいる)をうけているところにかけこみ、小松が開口一番「すいません!! クリトリスの場所を教えてください デートなんです」と叫ぶシーンをはじめ、主人公にかんじるような共感やいとおしみのようなものはない。小松は徹頭徹尾マヌケなキャラである。
 童貞を失う日に、あれこれの妄想と荒唐無稽なシュミレーションを重ねるという、若い男性会社員を描いた筒井康隆の『喪失の日』に似ている。

 安野は、恋愛のリアリズムを解禁されてから、少女マンガもリアリズムで描けるようになった。
『ジェリー・ビーンズ』は、マメという中学生の女の子が、服飾やデザインの道を歩んでいくのを描いた作品だが、見事なリアリズムとなっている。「夢」という問題を、徹底したリアリズムであつかっている堂々たる少女マンガである。リアリズムに基礎をおいた少女マンガの誕生といってもいい。現代のビルドゥングス・ロマン。

 現代日本でもっともすぐれた漫画家の一人である。


(1〜5巻 講談社 ヤンマガKC)



採点90点/100
年配者でも楽しめる度★★★☆☆

2002年12月記

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安野モヨコ 総特集(KAWADE夢ムック)

 このムックには安野モヨコのインタビューが掲載されている。
 安野はこのインタビューで「『花とみつばち』は男性版『ハッピー・マニア』ではない」として、両者を同一視しようとする見方を批判している。
 それを安野がどんな意味をかぶせて言ったのかは、インタビューからは今一つわからないところがあるが、『花とみつばち』はリアリズムからの恋愛批判だとしか読めないし、これを現代の「逆シンデレラストーリー」などという寝言よりはまだましな見解のように思える。
 かりにこの意味で安野がいっているのだとしたら、作品が自己疎外されているのであって、作者がどのような意図をぶつけたのかということからすでに離れて、作品が一人歩きしているということにほかならない。

 それにしても、安野がスランプにおいちいり、苦しみに苦しみぬいて『花とみつばち』を描いているというのは、正直意外だった。(河出書房新社/2003.9発行)

2003.10.4記


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