藤末さくら『あのコと一緒』



あのコと一緒 1 (1) (りぼんマスコットコミックス クッキー)  先ごろ、『放浪息子』6巻の感想で「女子の共同体にまざりたい」なんて無邪気なことを書いたが、藤末さくら『あのコと一緒』のようなものを読むと、「いや、やっぱり遠慮します」と丁重にお断りをしたい気持ちでいっぱいになる。

 この作品を読むと、酒に酔った心地よい「酩酊感」ではなくて、乗り物酔いのような「嘔吐感」がずっとつきまとう。同性の友人と、そして異性の恋人との、人間関係をめぐる過敏ともいうべき神経戦が延々と展開されているのだ。それが車酔いにも似た感覚をぼくにひきおこす。疲れ果てフラフラになる。「もうこの車から降ろしてくれ」「もう目的地かな? もう着いたかな?」と車酔いしたぼくは期待しまくるが、作者は決してこの蛇行運転する車から読者であるぼくを降ろしてはくれない。

 主人公の女子高生・坂下かのりが高校に入学し、出席番号がひとつ前だった坂上香澄と「親友」になるところから物語は出発する。同じ合コンでかのりと香澄はそれぞれ彼氏をつくるのだが、香澄の彼氏の素行をかのりが忠告したり、逆に伏せてしまううちに、かのりと香澄の間がぎくしゃくしはじめる。そしてそこを起点にして、あらゆる人間関係がお互いの距離感を失い、微妙な傷つけあいを演じ始めるのだ。

 香澄の彼氏である江奈が大変な浮気男だということを知ったかのりは、「親友」である香澄に告げられずに悩み続ける。体育の時間、長距離を並走しながら、かのりはそのことを香澄に思い切って打ち明けるのだが、香澄はその言葉に傷つくまいとするかのように平然とした顔で、

「……
 あたし江奈くんのことすごい好きなんだ――
 江奈くんのこと
 悪く言わないでね」

と、かのりに返す。かのりは驚いてしまう。その前に、香澄はかのりに対してかのりの彼氏(浩太)が中学時代遊びまくっていたから気をつけろと告げていたからだ。それも親身な忠告というよりまるで「言葉の通り魔」、ただ、かのりを傷つけるためだけのように。

 江奈が浮気者かもしれないという予感、そしてかのりたちの幸福なカップルを破壊したいという小さい衝動に駆られてのことだった。

 かのりは思い切ってした善意の忠告をそんなふうに返され、しかも自分がされたことなどなかったかのように平然と返す香澄に一瞬言葉を失う。かのりはその場で何も返せない。爆発もできない。ただ「気分が悪くなり」走るのをやめてしまう。「…ちょっとなんか気持ち悪い…」。
 香澄はかのりを気遣うように「大丈夫? 歩く? ゆってきてあげようか? 先生に」と「やさしい」言葉をかける。香澄は「腹黒い」からそんな偽善の言葉をかけるのではない。「不都合な真実」は聞きたくないという無意識、そしておそらく心情の表面は本当にかのりを気遣ってそう述べたのだろうという描き方なのだ。

 走り終わった後で、平然とトークを続ける香澄に、かのりはしぼりだすように後ろをむきながら、

「坂上 あんたうざい」

というのが精いっぱいだった。しかし、それはもちろん香澄を傷つけるには十分な言葉だった。

 激しく喧嘩をする、というわけではない(する場面もあるが)。
 おたがいが自分を、あるいは相手を傷つけまいとして言葉をのみこみ、のみこんだ言葉が自分のなかで刺さった小骨のようになってずっと自分を傷つけ続ける。ようやくしぼりだした一言はまるで核爆発のように甚大な被害を人間関係にもたらしてしまうのだ。

 かのりと香澄を軸にして、読む者にかくのごとき心神耗弱をもたらす神経戦がこの作品には充満している。登場するあらゆる人間関係がこのような神経戦を演じている。同性、異性の区別なく。
 それゆえに、かのりと浩太の関係も、ありえないくらいラブラブで、ありえないくらい健全なのに(そして少なくとも前半、浩太という人間がもし実在するなら絶対に彼氏にしたいと思えるほどのよさを、嫌味なく兼ね備えている)、この充満する神経過敏の空気のなかではやがて「不安定」なものへと転化していってしまう。

 なぜなら、この作品の世界では、人間関係はいつも不安で、はかないものだから。

 かのりは、ラブラブに浩太と抱き合いながらも、ふと不安を感じてしまう。

「好きになるほど
 いつ浩太も
 あたしのかわりを
 探すんじゃないかって
 不安だよ………」

 最近の少女漫画を読んでいて、まるで連載の山や引きを毎回作らねばならないからとでもいわんばかりの理由で主人公たちのカップルが「危機」にさらされることに、ぼくはいささか辟易している。細い細い筋書きのなかでご都合主義的なすれ違いを読まされても、まったく説得力を感じないのだ。
 しかし、本作が説得力をかちえているのは、作品全体に漂う神経戦の緊張感、人間関係の過敏さ、もろさがあまりにも徹底しているからだ。少女たちをとりまく人間関係というものは、デフォルメすればここまで窮屈でうっとおしく、不安に満ちたものなのか、と中年男のぼくが感じ、そこに「リアル」を見るからである。そのリアルさのなかでは、いくら恋愛をしても不安が消えないという感情には説得力がある。

 法政大学教授で教育学者の佐貫浩は、昨今、政府与党が「道徳の教科化」をはかろうとしていること、とくに外側から子どもたちに徳目の規範を押しつけるやり方についてバカじゃねーのと批判し、佐貫なりの「道徳性」というものを展開して次のようにのべた。

「私は、道徳性とは、人間が自己の行為、特に他者と一緒に生きるための関係行為を、普遍的な、あるいは一貫した正統性や正義性の基準・規範に沿って行うことのできる判断力、自己統御力だと考えています」(※佐貫浩「『学力向上』策が欠落させているもの」/「前衛」07年10月号所収、以下出典同じ)

 普遍性のなかで他者と生きること。「あのコと一緒」に!

 そして、「今そういう子どもたちの道徳性が低下しているともいわれています。しかしそれは単純ではありません」とありがちな議論を牽制する。

「他者と共に生きる力という側面からみた時、実は子どもたちは、非常に繊細な心遣いをしながら、その関係性に囚われて身動きできなくなっていると言えるような状況におかれています」
「若者や子どもたちは、他者を感知できないのではなく、少しでも他者と違う自分を押し出してしまえばそこに対立が生まれて孤立し生きられなくなってしまうから、常に他者に受け入れられる自分、過度に他者に干渉しない自分、他者とつながっているという感覚が維持できる自分のありようを必死で演じているわけです」
「つねに自分が疎外されていく空間のなかでどう生きるかを一生懸命試行錯誤し、そのなかで疲れ切っています」

 ここから佐貫は「子どもたちに必要な道徳力とは」と問いをたて、それは「おたがいにその内面、人間的な思いを共感し、支え合うこと、そういう共感力とコミュニケーション力を核にしたものでなければならないでしょう」と結論づける。「それは外から『規範』を持ち込んで、相手に対しては親切にしなさいと押しつけるような方法では実現しません」。
 ここに、あの、石原慎太郎の都政がつくった「心の東京ルール」なる7つの徳目でももってきてみるがいい。
 「先人や目上の人を敬う心を育てよう」はその一つだが、その徳目は、父母の離婚の葛藤のなかに自分を加えてくれないという不満をもつかのりの心に一体どのようにとどくというのだろうか?

 佐貫の指摘をみたとき、かのりたちをとりまく、「ごく普通の」人間関係、無数の小さな棘に囲まれた「ありふれた」人間関係のリアルさがあらためてぼくに迫ってくる。

 「あのコと一緒」――あのコと一緒に生きるというただそれだけのことが、ここまで苦しいものとして表現されなければならないのだ。

 ひとつだけ本作を読んでいて「気になった」のは、主人公・かのりの「立ち位置」である。かのりはいつも「善意」の立場にいる、ということなのだ。なるほど確かに誰かを傷つけたりはする。しかし、よく読むとそれは防御反応や自己防衛のために、相手を傷つけていることがほとんどで、かのりという存在は実は「瑕疵」のない存在なのだ。本来的には誰からも責められる立場にはない。

 かのりは、明らかに読者自身の立ち位置である。これほどまでに人間関係に疲弊し、傷つくなかで、自分自身までもがその咎を背負うわけにはいかない、自分の「悪さ」まで背負ってしまったら、もうとてもスタミナが続かない、という無意識の防衛策であろうか。






集英社 りぼんマスコットコミックス クッキー
1〜8巻(以後続刊)
2007.10.19感想記
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