夢路行『あの山越えて』



 都会人が田舎ぐらしに憧れ、それを実行にうつす場合、クリアしなければならない問題が3つある。
 一つは、不便さ。しかし、いまやそれ自体が魅力になりつつあり、だからこそ都会の喧噪をのがれて田舎で暮らしたいなどと思うのだから、この点はさして重要ではない。
 むしろ、あとの二つがネックとなる。
 二つ目は、仕事である。農業が国策によって滅亡に追い込まれつつあり、同時に公共事業が激減するなか、田舎で見通しある生業を見つけるのは至難である。
 三つ目は、親戚や近所づきあい。衰弱したとはいえ、田舎にはいまだ血縁と地縁にもとづく共同体が息づいている。個人主義というか孤立主義の洗礼をうけてきた人間が、この容喙的な人間関係にたえることができるか。

 夢路行の『あの山越えて』は、ヲタの欲望漫画とちがって、生活と労働の全般が描かれる。
 会社を辞めて農家をついだ次男と、そこにいっしょについてきて教師をしている妻の物語として、農作業の面倒さや、田舎の近所や親戚づきあいのうっとおしさも、省かれないどころか、むしろ作品の正面にすわる。

 とくに、親戚や近所づきあいのうっとおしさや危うさを抉る視点は辛辣である。
 たとえば、姑の十三回忌の法要を家でひらくさいに、親戚連中というものの勝手な物言い、とくに「家の外から来た」女性にたいするそれがいかに気を滅入らせるものか、という話がある。
 あるいは、「やっかいな親戚」がいて、彼が田舎特有の「よその家から嫁いできた人は黙っていろ」とか「子供を早くつくれ」などといった言葉を無神経に酒に酔ってわめく、というエピソードがある。
 また、「都会からヨメにきた女」にたいする、噂のネットワークの迅速さに辟易する、という話もある。

 『あの山越えて』では、あるいは主人公の君子は、あるいは、その家族たちは、それをどうやって「乗り越える」のか。

 それは、「言葉」、すなわち「概念」によってである

「やさしくなれなかったことも
 キズつけられたりしたこともあったけど
 いつかやりなおせるんですよね」

「結局家族だから
 嫌いでも仲良くなれなくても逃げられないけど
 いつか
 自分のそばで安心して眠ってられる家族を見つけられる
 それは嬉しいことね」

 こんなすばらしい姑、いないってば。

 いやあ、でも思うよ、ぼくは。もし田舎暮しに、もしこんな「言葉」があれば、ぼくらは田舎暮しの困難を乗り越えられるかもしれない、って。

 ぼくの親族も、田舎の出身者たちで、ある意味、無神経である。田舎で生きてきた感覚は相対化されることなく、揺るがぬ絶対さをもって、都会暮しをしてきた人々を傷つける。
 たとえば、自動車免許をもっていない人間は、田舎では一人前ではなく、したがって「人間」ではない。東京暮しにとっていかに自動車というものが邪魔になるものかを説いても「でも自動車に乗れないのは一人前じゃないよね」とくり返す。何かに憑かれたように。
 「田舎」は自らを相対化しない。それが絶対であると確信する。そのための言葉をもたない。
 だから、ぼくの故郷の友だちは、故郷を捨て、東京に出て、田舎を憎々し気に振り返る。「あんなところに帰るやつの気がしれない」と。

 そんなとき、『あの山越えて』に登場する人物たちは、君子をはじめ、とても「オトナ」である。その事態をどう受け止めるべきか、という言葉を知っている。言葉を使えることは、無邪気に人を傷つける言葉や仕草を相対化し、歴史性をあたえ、どうかわすべきかをぼくらに教えてくれる。

 ぼくは、いまこの漫画に深々とハマりつつあるのだが、それは、どの登場人物も「オトナ」だからなのだ。君子をはじめ、こんな女の人たちが身近にいたら、迷わず「ケッコン」したくなる(ま、ぼくみたいな「コドモ」は向こうから願い下げだろうけど)。

 ぼくのつれあいは、夢路行の絵を「ヘタ」だと一刀両断したけども、ある意味で紙芝居のように動きの乏しい夢路の絵は、しかしながら、奇妙な落ち着きを生み出し、ぼくにとってはそれがまさに「オトナ」さを印象づけるゆえんである。ぼくはまたしても彼女たちの「言葉」を経由した「知性」に拝跪する。
 なにより、フキダシの外に手がきで書かれる登場人物のホンネの言葉にこそ、深い含蓄がある。それが静止画像のような夢路の絵によく合い、生命を吹き込んでいる。もし夢路の絵が、たとえばかわぐちかいじのような劇画的リアリズムをもっていたら、うっとおしいうえに、「オトナ」のリアルさは逆に減退したことだろう。

 夢路行は長崎の小さな島出身、いわば「田舎」出身者である。
 その後どういうところに住んだかはぼくも知らないが、もし都会暮しをしているのであれば、そこで夢路は自分を、田舎を、相対化し、モメントにおとし、その歴史性をつきとめる「言葉」や「概念」を獲得したにちがいない。
 その目をもって、夢路はふたたび田舎をふりかえったのではないか。
 もし、「言葉」という武器をもって、田舎に再びのりこむことができるなら、ぼくたちは、田舎を怖れたり、憎んだりすることはないかもしれない。『あの山越えて』のような幸せをみつけることができるかもしれない。
 「言葉」の力さえあれば田舎で生きていける、とさえ思う。
 「子供を生めよ」「家のことどう考えてるんだ」なんて“無邪気”なトゲのある言葉を聞いた時にも、「そんなふうに言うのも、きっとこれこれしかじかの事情があるせいなんだろうな」なんてさばけたふうに聞き流せれば、田舎暮しのなんと楽しいことか。
 君子と夫の歩(あゆみ)がキスをしたり、楽し気に散歩したりする様子を見るたびに、たまらないほどの幸福感に襲われるのはぼくだけではあるまい。

 4巻の冒頭は、平穏な田舎に「ドロボー」騒動がひきおこされるという話である。
 その騒ぎで一時は、近所中が騒然となるのだが、泥棒が逮捕されて、元の平穏さをとりもどす。
 そのとき君子は思うのだ。

「開け放しの玄関に誰か来て
 のぞいて声かけて
 漏れてくる音や臭いでその家の生活がわかる」
「ちょっとうっとうしかったりするけど……
 悪いことじゃないと思うの」
「ずっとここがこのままだといいな」

 個人主義という名のもとで、孤立をふかめていく都会は、いまや機能不全におちいり、監視カメラや自警団が幅をきかす。
 それに疲れた人々が、共同体を欲望し懐かしむことは、けっして不健全なことではない。田舎にある容喙的な血縁・地縁のうっとしさを、「言葉」の力で相対化していけるようになったとき、実は田舎には機能不全におちいった「都会の個人主義」を乗り越える知恵やシステムが山のようにつまっているような気がする。

 進歩主義のある種の潮流のなかでは、それはとても危険な「欲望」のように感じられてきた。
 たとえば、4巻の20話は、「子どもを生む」ということと、自分の家や田畑を子孫のために残したい、という感情を結合させる。これは危険なものではないか、と一瞬あやぶむ人もいるだろうと思う。
 まず、君子とその義母のつぶやきを聞こう。

「春には山桜が咲いて 夏には濃い緑で
 秋にはお姫様の着物みたい 
 落ち葉を集めて堆肥にして
 枯れた山にうそみたいにまた春が来る
 なんてきれいなくりかえし
 これを死ぬまでながめていたい……
 姑に言われて跡継ぎなんて産みたくなかったけど
 これを残してくれる子供がほしかったわ……」

「ここに家を建てて暮らしたい
 歩がそう言ったのはあれは春だったけど
 おかーさまと同じ気持ちだったかもしれない……
 もしおとーさまが死んでしまったら 失われるかもしれないもの
 おとーさまのお父さんから
 そのまたお父さんから ずっとずっと昔から
 受け継がれてきたもの」
「そうして歩が新しく始めたあのキレイな田んぼと畑を…
 わたしも誰かに残したい」

 君子にも子どもはいないし、ぼくにも子どもはいない。
 また、姑は「子ども」についての話題を君子にふることに、「自分が言われていやだったことは言いたくないし…」という自己規制と自己相対化をちゃんとしている(それができるだけで田舎では満点だと思う)。
 だけれども、同時に、上記のようなセリフが、すごく素直な感情として、この作品では提示される。
 農村を基本にした「田舎的」風景のなかでは、この丹誠こめた土地を残したい、と思うのは「自然」な感情なのかもしれない。もし自分たちが子どもをつくれない・つくらない夫婦だったとしても、そんな気持ちから子どもを願ってしまうのなら許してやろうではないか、という気分にさえなる。
 そして、残したいと思う風景があって子どもを望むならそれは「自然」だといえるし、逆に、都会の風景のなかで「自分一代でいい」という気持ちのなかでは子どもを残す残さないということはどうでもいいことだともいえる。そんなふうに言葉によって、ある種の感情が相対化できるはずである。

 くり返すが、君子たちの幸せは、「オトナ」であること、すなわち言葉という武器をもって、田舎を相対化できることによって成り立っている。田舎育ちの姑までがこういた武器を手に入れていることに、田舎育ちのぼくとしてはちょっとした不自然ささえ感じるほどである。
 そうなのだ。だからこそ、『あの山越えて』の世界とは、二ノ宮知子『グリーン〜農家のヨメになりたい』ほどお気楽な世界を描いているのではないはずなのに、実は「ユートピア」を描いているのかもしれない。
 日本的農村の現実とは、尾瀬あきらが『夏子の酒』で描いたような暗さをもっているはずなのに、それはきれいに排除されている。

 にもかかわらず、ぼくがこの作品を愛してやまないのは、「言葉」という武器で、田舎の“無邪気さ”にたちむかい、共同体の可能性を正しく理想化しているからである。

 暗さを描くことだけがリアリズムではない。



 ああ、でもオトナの女の人ってほんとにいいですね……。
 


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2004.6.13感想記
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