斎藤貴男『安心のファシズム』


 有事法制関係の反対運動で知り合った人(まったくの無党派だと自認している人)が、「有事法制(とくに国民保護法)の恐ろしさは、みんながノッペラボーのようになって、支配を受容してしまうことだ」という意味のことをのべていた。

 自分と世界は分裂し、世界は理解不能なノッペラボーとなる――
 これは、ぼくのような左翼にとって、たいへん蠱惑的な世界観だといえる。
 つい、そうまとめたくなるのだ。

 そこにみられるような危機感に正当な敬意を払いつつも、同時にそこにひそんでいる民衆観、いや、隣人観に疑問をさしはさみたくなる。それじゃ、一部の2ちゃんねらーたちが、「反日で凝り固まった中国や朝鮮半島の人々」というつるりとした平面的な民族像を描きたがる風景とどこか似てはいないだろうか、と。

 ドキュメンタリー作家・森達夫は、本書の著者である斎藤との対談でこうのべる。

「僕は権力というものは一人ひとりが内在しているものだという考えです。……こういった議論をするときに権力という仮想敵を作ってしまえば、確かに旧左翼的な分類による分かりやすさを提示できるんですが、時代としてはもうその手法ではなく、違う闘い方があるんじゃないかなという感覚が僕にはすごくあります」(「現代思想」2004.8)

 「個々人のなかに内在する権力」――これは「ノッペラボー」論をソフィスティケイトし、さらに純化させた表現である。

 ファシズム論は、大ざっぱにいって、左翼やその周辺でも、「実体的な権力」という側面を強くうちだす派と、その民衆の「受容」の側面を強くうちだす派とに古くからわかれてきた。

 「権力をにぎったファシズムは、金融資本のもっとも反動的、もっとも排外主義的、もっとも帝国主義的な分子の公然たるテロ独裁である」というのが、有名なディミトロフのファシズム規定(「コミンテル第7回大会報告」、1935年)である。

 他方で次のような見解がある。「近代社会において、個人が自動機械となったことは、一般のひとびとの無力と不安とを増大した。そのために、かれは安定をあたえ、疑いから救ってくれるような新しい権威に、たやすく従属しようとしている」――フロムは資本主義の独占段階において、個人の「自由からの逃走」が「ファシズム」を招く、と警告を発した(『自由からの逃走』、1941年)

 強制させる権力実体と、それを受容する民衆。


 ちなみに斎藤自身は、先ほどあげた森の見解(権力は人々のなかに内在している、とする見解)に対し、「そうなんですが、内在するものというふうになると……。うーん、表現の仕方がね」と違和感を表明している。
 斎藤は明確に、権力が外在的なものだという思想にたっており、それをすべて「内在するもの」に解消しようとする思想を拒否しているのである。

 しかし、斎藤はあやうい。

 『安心のファシズム』には「―支配されたがる人々―」というサブタイトルがつけられている(森との対談も「支配されたがる人々」である)。
 結論から先にいっておけば、たしかに斎藤は権力を外在する実体だと考えており、自動改札機や携帯電話、あるいは監視カメラなどといった技術システム=客観的外在によって民衆を捕足していく、という問題のたてかたをしている。にもかかわらず、斎藤は民衆の側にある「ファシズムの受容」の側面を前面に押し出したがっている、ということである。
 後でものべるが、斎藤の書いたこの本では、どちらかといえば、権力側の支配欲望やその実現のための手だてが詳細に紹介され、民衆の側にある「受容」については、記述が弱い、という印象を受けるのである。ところが、斎藤がこのタイトルを選んだように、斎藤はそこに結論をもっていきたがっているように、ぼくには見える

  *        *         * 


 斎藤の本書の第一章「イラク人質事件と銃後の思想」で、官邸=権力サイドがほとんど2ちゃんねると一体となって自作自演論そして自己責任論を展開したさまをジャーナリスティックに描く。
 こうした人質バッシングは一種の弱者差別であり、これと似た事例として「お前たちえただろう。えたのくせして差別がイヤだなんてふざけたこと言うんじゃねえ。…人間はこの厳しい毎日の日常生活の中で少しでもストレスを解消したり癒されたいと思う。その時にえたを差別することによって心を回復できる」と書かれた、ある差別的な手紙を紹介し、弱い者をたたくことによって生じるカタルシスを見る(癒しとしての差別)。
 「階層間格差の止めどない拡大こそが構造改革の真実だ。だから小泉政権は将来ビジョンを示さない。構造改革の恩恵は一握りの恵まれた階層だけが享受できる性格のもので、中流以下の層に属する者は永久に“痛み”に耐え、彼らに奉仕し続けるだけの未来しか予定されていないとは、さすがに公表できないのである。騙されつつ、しかし多くの人々は自らの置かれた立場にどこかで感づいている。積もり積もった不満や不安を、だからといって権力を有する元凶にぶつければ報復が怖い。より立場の弱い人々に八つ当たりし、あるいは差別の牙を剥いて、内心の安定を図るようになっていく」(p.22)
 斎藤はこれと並行して石原慎太郎や西村真吾、上坂冬子ら保守論客の言動を追い、あんな人質は必要ない、殺してもいい、と笑う超国家主義の言説をそこに見る。
 ぼくは、ここを読んでみて、民衆の側にある「癒しとしての差別」をおこなうメンタリティと、超国家主義の論理がなぜ響きあうのか、今一つ明快に理解することができなかった。少なくとも、第一章で示されているのは、超国家主義の論理と、「非国民」思想が併存している、という「事実」だけである。

※これは本筋とは関係ないが、斎藤が、バッシングが、人質のなかでも最初の3人に集中した考察は興味深い。いわば「女・子ども」で「与し易い」と見たからだというのである。しかし本人たちの記者会見後はそれがその予想が裏切られ、バッシングがやや後退していく。

 第二章は、うってかわって「自動改札機と携帯電話」である。
 斎藤は、自動改札機というシステムは、あの都会の駅の巨大な人口の流れを「制御」することができるようになった技術システムだというのである。それまでの実験では、鉄道利用者はこうしたシステムに従わなかった。ところが、改良をくわえて、それを圧伏してしまったと指摘する。
 携帯電話について斎藤は、いまやあらゆる機能をそなえ、個人情報が際限なく蓄積され、コミニュケーションにおいても脳をアウトソーシング(外部委託)してしまうほど生理器官化しているとみる。これをGPS(カーナビなどで使う位置確認のシステム)と組み合わせることで、個人の脳のなかから行動まですべてを捕足できるシステムが完成するのだという。実際、このシステムを使って、企業は今店の前をどんな欲求をもった客が通過しているのかを知ることができるようになる。

 第三章「自由からの逃走」。権力が個々人の心の中に侵入しようとし、それは教育の場だけでなく、企業社会の場にも存在していると斎藤は主張する。
 ここでは「心のノート」の問題や、「日の丸・君が代」についての教員・子どもへの思想強制とともに、サラリーマンが骨抜きになっている原因を考えようとする。斎藤は、源泉徴収という納税者としての権利意識をねむりこませる戦後税制のあり方と、企業教育=洗脳システムを問題視する。

 第四章「監視カメラの心理学」である。
 ここの立論は、「人々が監視カメラを欲している」という論だてかと思っていると、あにはからんや、逆に民衆の中にそれほど強い設置欲求がないにもかかわらず、権力がその強引な設置を計画しているという話なのである。
 資料的には興味深い。
 監視カメラを設置した歌舞伎町で、2003年1〜6月の刑法犯の認知件数は1060件で前年の860件を大きく上回り「警視庁幹部は……肩を落としている」という同年8月16日付の「読売」の報道を紹介している。またイギリス内務省の研究報告「CCTVの犯罪抑止効果――その系統的レビュー」(ウェルシュ、ファリントン、2002年)によれば、CCTVは駐車場では効果が認められたが、都市中心部、公共の建物、公共交通機関では「あまり効果がなかった」。とくに粗暴犯についてはそうだという。
「監視カメラとは何よりも、いわゆるテロ対策の文脈で論じられるべきテーマ、すなわち政治警察、公安警察の視点にとってこそ意味がある。ただしこの視点を前面に打ち出すと強い批判が予想されるため、効果が実証されているとは言えない一般的な犯罪を抑止するという目的がことのほか強調され、世論誘導がすすめられている」(p.138)

 なお、この章では、杉並区の監視カメラ導入の専門家会議のやりとりが載っていて、推進派(刑法学者の前田雅英)が必死で抗弁しており、不謹慎だが、ちょっと笑える内容である。設置慎重派(NPOを主宰する学者の石村耕治)が効果についてのイギリスの資料をもちだそうとすると、「石村 あるでしょう。イギリスの……。 前田 いや日本で、日本で」とあわてて止める。また、犯罪抑止効果があったとする前田レポートが法律雑誌「ジュリスト」に載ったことを言い表わす前田の権威主義もかなしいほどに滑稽だ。「私は、今年の夏にそのことで論文を書いて、具体的な数字を挙げて、これだけ効果がありましたということを提示しているわけですよ。法律の世界では結構メジャーな『ジュリスト』という雑誌にね。日本ではこんなにすばらしい効果があがっていると。それはいろいろなところでも評価がされているわけですよ」。

 第五章「社会ダーウィニズムと服従の論理」である。
 斎藤は、国際政治学者の発言をひいて、多国籍企業によるグローバリゼーション(新自由主義)がすすむと、国家は不要にはならず、逆にその展開を防衛するために強力な権力を求める(新保守主義)と主張する。両者はセットである。そして、その経済展開のなかで大量に発生する没落者たちは、貧困層として固定化され「身分」となっていってしまうのだという。
 そこから、「封建制」的な身分階層支配にも似た社会になっていく、と斎藤は指摘する。
「近代以降の人類が築いてきた価値観を、もしかしたら、市民革命やプロレタリア革命が起される以前、中世のそれへと再び逆戻りさせたような世界に限りなく近づいてしまうのではあるまいか」(p.162)
 そこで歓迎されるイデオロギーとは、弱者が淘汰されていくのは「摂理」なのだとする社会ダーウィニズムにである、とされる。
 これは、田中芳樹『銀河英雄伝説』の世界である。
 強い支配を望む民衆の「民主主義」によって生まれたファッショ英雄ルドルフ。そこから、封建的身分制をうちたて貴族の支配をきずいた銀河帝国。民主主義の堕落からファシスト・ルドルフが生まれた話は、よくひきあいに出されるのであるが、銀河帝国のしいた貴族支配は「ただの物語上の設定」だと思われてきた。しかし、すでにある種の人々がもつ現実の危機感とこれほどまでに符合するストーリーに「なってしまった」のである。

 この章を読んでみても、斎藤が「服従の論理」を「服従させる論理」として提起しているのか、「服従しようとする論理」として提起しているのか、今一つ判然としない。つねに渾然一体となった話として提起されているのだといえる。ただ、この章の最後で、支配される側の「受容」について論じた箇所があり、それを読むと、やはり斎藤は「服従しようとする論理」が働いているのだということを主張したがっているように見える。
 おおよそこうのべているのだ。斎藤は、ケータイやネットで「自由」な活動を謳歌する人々は、消費の「自由」を謳歌しているのであり、それは監視の巨大なシステムへの同調でしかないのだが、人々には何の心理的葛藤もなく(コンフリクト・フリー)、それを受け入れてしまう、という。社会ダーウィニズムのもとで激烈な生存競争をさせられる人々にとっては、消費の「自由」は貴重な価値なのだ、と斎藤は分析する。わずかな消費の「自由」のために、苛烈なサバイバルを強要される様を、斎藤は『バトル・ロワイヤル』の紹介とともに描く。
 
 なお、この章では、犯罪についての統計分析が注意をひく。ほとんどは「世界」2004年7月号の座談会の引用なのだが、「凶悪事件が増えている」などといった不安をあおる統計情報を読み解くうえでは参考になる。
「ピッキングなどの侵入盗やひったくりなど、『財産犯』の場合は、はっきり増加傾向でしょう。しかし、殺人事件が増えていないことは冷静に踏まえる必要がある。……戦後このかた一九八〇年代と比べても圧倒的にいまの方が治安がよいと言えます。殺人事件による死亡者は二〇年前の八四年には約一〇〇〇人でしたが、いまは六〇〇人台です」(河合幹雄・桐蔭横浜大学教授=法社会学)
「最も簡単な反論は、『認知件数』は実際に起きた件数ではなく、警察がとる統計を基本にしているため、統計上のトリックが起きているということです。特に、二〇〇〇年と〇一年の爆発的な伸びはそのためです。警察が統計をどうとっているかというと、すべての被害届がカウントされていたわけではなく、『前裁き』と言って記録をとらないため、統計にカウントされないものがたくさんありました。そうすると刑法犯全体の認知件数は実際より非常に少なく見えますが、逆にきちんとカウントするように方針を変えれば急に伸びる。実際、そうするようにとの警察庁通達が二〇〇〇年四月に出ています」(同)

 第六章、終章は「安心のファシズム」である。
 エーコ『永遠のファシズム』やフロムの『自由からの逃走』を典拠にして、人々がどのようにしてファシズムを受容していくのかを明らかにしようとする。だが、この章でも、「サウンド・バイト」といった、政治において物事を単純化する手法が果たす役割について一定の分量を割いて論じられている。

 けっきょく、読後に感じることは、たしかに権力側からのさまざまな監視や支配の欲望とそのための手だてについては読み取れるが、民衆側のほうの「支配されたがる」メカニズムについては、それほど明らかになっていないような気がするということだ。
 斎藤は、それを単純に連関づけることを避けたのかもしれないし、また、そうした因果関係の綿密な証明ではなく、ジャーナリストとして事実をざっくりと提供することに重点をおいたのかもしれない。
 しかし、タイトルの『安心のファシズム―支配されたがる人々―』が示すように、あるいは「ファシズムはそよ風とともにやってくる。……独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由の放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえに、それは命脈を保つのだ」(p.231〜232)とまとめているように、斎藤は民衆の「受容」を本当はいいたかったのだろうと思う。
 ところが、本全体からうける印象は、その肝心の部分についての記述が弱い、ということなのである。
 斎藤の気持ちが前のめりになって「支配されたがる」論理を証明したがりながらも、事実はそこを後づけるものを十分に拾い切れなかった、といえば言い過ぎであろうか。

 
  *        *         * 

 ぼくは人々は「ノッペラボー」になったり、「支配されたがって」、支配を受容していくのではないと思う。むろん単純に「嫌々」「強制的に」支配されているというわけでもない。

 別にファシズム論でなくても、もともと現代国家をめぐる問題にはこの、支配と受容という、両者の側面をたえず考えていく必要がある。
 やはりファシズムの時代のコミュニストであるグラムシは、国家を「政治社会プラス市民社会、すなわち、強制の鎧をつけたヘゲモニー」(『獄中ノート』)と規定して、強制とともに「同意」の契機を重視した。このグラムシの規定をそのまま受け入れるかどうかは別として、グラムシは「なぜ資本家の支配が続くのか? なぜ民衆はファシズムにからめとられるのか?」という疑問を大切にしたにちがいない。

 総力戦や福祉国家の登場、すなわち国家独占資本主義の登場以来、現代国家には、国民を「統合」しようとする機能があり、それは単にイデオロギー的に「だます」というのではなく、客観的な基盤がある。経済や社会の発展段階のなかで、資本はそれにあわせた支配戦略をとり、それが「よくできて」いれば、すなわち、ある程度の合理性――こういってよければであるが――があるものであれば、人々はそれを受容する。

 ぼくらがすべきことは、その客観基盤を冷静にみつめることである。

 たとえば、冒頭にとりあげた森×斎藤対談が載っている「現代思想」誌には、そのすぐ横に渡辺治の「現代国家の変貌」という一文が載っているが、渡辺は新自由主義的がうちこわそうとしている日本の開発主義国家や企業社会統合が戦後日本でどのように「受容」されてきたかを論じている。渡辺の議論をそのまま支持するかどうかは別としても、そこで渡辺は支配とその受容についての「客観的基盤」を見つめる作業をおこなっているのだ。たとえば、渡辺は日本では社会党が政権をとれなかったのは、日本では1950年代にブルーカラーからホワイトカラーへの一本化した序列が誕生し、そこを通じて上昇できる道が開かれ、また企業福利に力が入れられたこともあって、労働者が「労働者党政権による福祉国家」というコースをたどらず、「保守党による企業繁栄」にリアリティを見いだしたのだとしている。

 この客観基盤は、たえず動き、そこから様々な裂け目が生じているものであって、そのダイナミズムをつかまなければ、「こういう客観基盤があるんだから支配の受容はしょうがないよ」という具合の現状追認へとすぐ堕していくものなのであるが、しかしそれでも支配の受容には客観基盤があるということを冷静にみておかなければ、ぼくらはなぜ現体制が続くのかということをまったく説明できなくなる。

 自分の隣にいる人が、自分にはまったく理解のできない、アホで間抜けでだまされて自民党に投票し続け、支配されたがっているノッペラボーな「異星人」に見えるにちがいない。

 ぼくらの「隣の人」のなかに合理性やダイナミズムがたしかに存在し、それゆえに、ぼくらは左翼でもない「隣人」と対話ができ、うまくいけば「共鳴」しあえるのである

 くり返しになるが、斎藤は必ずしも最初にのべたように「ノッペラボー」論や「権力=内在」説を拒否し、いちおうその客観基盤を見つめ、外在的な権力実体というものに目をむけている。しかし、にもかかわらず、斎藤はあやういのだ。そこはかとなく、「支配されたがる」という論理に滑り落ちていこうとしている。

 ぼくは、現状を語る場合、「ファシズム」という概念の組み立てを放棄すべきではないか、と思う。

 むろん時代が危険な方向に進んでいるという要素をはらんでいることは否定しない。しかし、民衆の受容として「ファシズム」を論じはじめた瞬間から、おそらく多くの人は、まわりの人々がノッペラボーに見え始めるにちがいない。そのなかに潜んでいる変革のダイナミズムを機敏につかむという力が失われてしまうと思う。

 今日も実家で、ぼくの父親は酒を飲みながら「やっぱり若いやつらには徴兵制をやって叩き直さないと!」と叫んでいる。そのとき、父親をノッペラボーと見るのか、変革へのエネルギーを充満させた存在だと見るのかは雲泥の差となってくるだろう。






『安心のファシズム―支配されたがる人々―』 岩波新書
2004.8.10感想記
意見・感想はこちら
メニューへ戻る