志村貴子『青い花』



 むぐぉぉぉぉ……。悶え死にしそう。

青い花 1巻  シゴトが超繁忙期にあたっているのだが、不覚にもこの『青い花』と、船戸明里『アンダー ザ ローズ』を手にしてしまい、職場で寝泊まりしながら、ごろごろと転がって悶えている。食事時間や休み時間、待機している時間はもちろん、職場にフロがあるので、フロに浸かりながら読み、そして枕元でも読んだ。調べものがあって遠くへいくさいにも、電車のなかでこれらをずっと読んでいた。もーどうしてくれよう。
 あたし、ヘンになっちゃう……。
 

 『青い花』は、第一回目に掲載の時、連載誌の表紙になっていたので、ふだん雑誌を買わないぼくだったが、はっと気がつくとレジでお金を払って買っていたのである。で、読んでみるやいなや満腔の期待感がぼくを襲い、ぼくの妙なクセなのだが、期待するあまり単行本を待ち、雑誌を買わない(もしくはそこを読まない)ようにしていた(最盛期の榛野なな恵『Papa told me』にたいしてそういう態度をとっていた)。

 したがって、満を持しての単行本購読なのである。
 鼻血が出そうだ。

 女子高に通うことになった主人公・万城目(まんじょうめ)ふみの恋愛物語なのだが、ふみが好きになったのは、いとこの千津だったり、先輩の杉本恭己(やすこ)だったりと女性ばかりなのである。そこに、同い年で幼馴染みの奥平あきら(「あーちゃん」)、というかわいくて明るい女性を配して展開させていく。


 ぼくはこの物語のどこにぼくが居るのであろうか、とずっと考えていた。


 どう考えても、ぼくの気持ちは、主人公のふみ以外、どこにも行っていない。まっすぐにふみを見続けている。

 先輩の杉本に「デート」にさそわれて帰ってきた日、ふみは、熱にうかされたようなふうになって帰ってくる。荷物をベッドになげだし、倒れ込むようにベッドに横たわるふみ。志村は、ちょっとだけスローモーションのようなコマの送り方をして、ふみの「熱っぽさ」、ふらふらぶりを丹念に描く。
 そして、ページを繰ると、顔に手をあててベッドに横たわるふみを天井から、部屋全体ともに描く。
 ああ、ああ、いま、ふみは反すうしてるなー。
 いま、ふみの体中に脳内麻薬が大放出されているなあ。

 ぼくは、その瞬間、「万城目ふみ」になっている。

 みんな、信じてくれないかもしれないけど、ぼくは「万城目ふみ」なんだよ。
 アゴを指でくいっと持ちあげられてキスされる瞬間、ズル休みして「あーちゃん(奥平あきら)」に会いたいなと思う瞬間、千津の結婚に衝撃を受ける瞬間、ぼくは「万城目ふみ」なのである。

 志村のコマの書き込みは「白い」といわれるけど、余計な夾雑物を徹底して排除するうえでこのうえない効果を発揮している。人物の顔、視線や細部の表情だけがくっきりと伝わってくる。
 表情だけではない。省略の美が作品の随所にある。たとえば幼少のころ、ふみが「あーちゃん」の後ばかりついていた様子を、志村は1コマだけで描いているけど、そこには背景もなにもなく、ただ二人の小さな女の子が描かれているだけだ。でも、ふみと思しき女の子が「あーちゃん」の後をついて歩き、後ろの足が地面から離れていることはちゃんと描かれている(「あーちゃん」は離れていない)。たったそれだけで、ふみがいつも「あーちゃん」のあとを「てってってっ」と追っかけていた様子が伝わってくる。
 志村の表現は、ムダを極力そぎ落とし、錐でもみこむようにぼくらの心に入り込んでくる。

 ぼくは志村の力によって「万城目ふみ」になれる。
 いわゆる「タチ」の位置にいる杉本には1グラムの感情移入もせず、「ネコ」であるふみに激しく一体化する。

 だから、「あーちゃん」へのまなざしは、けっして男性としてのぼくの視線ではなく、まさに「万城目ふみ」が送っているまなざしとぴったり同じである。ぼくは今、「万城目ふみ」として「あーちゃん」を見ている。

 「あーちゃん」は兄貴と同衾してしまう(兄貴が悪いのだが)ような「妹」キャラ、あるいは明るくキャーキャー騒いでいるだけの「いまどきの女子高生」キャラのように一見みえながら、痴漢に襲われたふみを助け、泣いているふみにハンカチをだす、とても「男らしい」存在なのである。

「あまりにも小さなその花は
 あまりにも小さすぎて
 すぐそばにあるのにわからない
 持て余してしまうかもしれない
 そんな花……」

 ふみは、1巻においては、「あーちゃん」にたいし、杉本へのような感情を抱いてはいない。しかしその萌芽のようなものだけは感じとることができる。まさに「あまりにも小さすぎて」「すぐそばにあるのにわからない」という花なのである。
 ぼくは男の視線を完全に離脱し、「万城目ふみ」として「あーちゃん」へのこの思いを1巻の終わりに共有することができる。これは作品の力としてすごいことではなかろうか。
 

 そして、今いったこととまっこう矛盾するが、たぶんぼくは、「万城目ふみ」という「女性」にも、男性として欲望のまなざしを送っているのである。自分が「万城目ふみ」だと感じながら、それを欲望することができる。欲望する主体にして欲望される対象。

 眼鏡をかけて(知性の象徴)、内省的で、性的である、という女性像は、オトコであるぼくにこれまた激しく訴求してくる。「ふみはかわいいね……」といわれて顔真っ赤にするなんて、うはwwwおkwwwww

 「人のいない図書館でキスする」って、やばすぎるよ、おれの個人史的欲望としては。前も書いたけど、同好の女の子が現れないかと図書館で待ち伏せしていたくらいだから。そんなふみとキスしてみたい、というぼくがいる。

 かといって、ふみが恋心をよせている女性たちを何かうらやましく思うのかというとそんなことは、露ほどにも思わないというのも自分としては不思議なところである。杉本や「あーちゃん」として、ふみにかかわろうとはまるで思わないのである。

 けっきょく、ぼくが「ホホ赤らめている女の子」をすきだっていう、エロ話なのかな。あるいは結局おまえは自分が好きなのか、とかそういう。ちがう、そうじゃなくてさ、ほら……ああもう。
 
 

 


太田出版 f×コミックス 1巻(以後続刊)
2005.12.23感想記
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