『あしたのジョー』の脇キャラたちに
いま一言いわせたい




あしたのジョー (1)

【林屋のおじさん】

 
だめだよ。角にイ●ーヨーカ堂が出来ちゃってさ。客なんか来やしねえ。乾物屋は閉めて、いま紀子がそのイ●ーヨーカ堂にパートに行ってるよ。



【マンモス西】

 紀ちゃんとの間に30人も子どもが生まれて今『クッキングパパ』ちゅう連載もたしてもろうとるんや。『美味しんぼ』とか、食材にこだわってるうちはあかん。どんな状況で食うかが大事なんや。減量中にかくれて食ううどんは最高やで! 鼻から出た麺は昇天ものや。

 うまいで!



【暴力おでん屋(ハゲの方)】

 あれは矢吹丈が虚脱状態だったから勝ったんじゃないよ。矢吹なんて児戯同然。なのに豊福きこう(『矢吹丈25戦19勝(19KO)5敗1分』)はオレの勝利を書いていない。組んでた相棒は、あのあと仲間割れで殺した。



【金竜飛】

 試合前に矢吹丈に生い立ち話をしたのは、私の心理作戦さ。私の計算ではあのとき矢吹丈が瞼を切って血を流さなければ、99.34%の確率で私が勝利していただろう。リングでゲロる満腹ボクサーにまぐれは二度ないよ。いまの日韓問題? 日本側にはまるで戦略も計算もないね。参拝をつらぬくのが毅然としている? ノーノー、子どもだましさ。日本は世界中からチョムチョムに会うだろうね。



【ハリマオ】

 ウ、ウキャウキャキャキャキャアーッ!
(訳:ヘーゲルは、「もっとも豊富なものは、もっとも具体的なものであり、もっとも主観的なものである。そしてもっとも単純な深みに自己を取り戻すものは、もっとも強力なものであり、もっとも包括的なものである」といった! お前ら、なんでカーロスやホセはちゃんと翻訳されて、おれだけまともに翻訳しないんだ)



【ドサ回りのボクサーA】

 いしだあゆみと和田アキ子を見られなくて矢吹のやろうを憎んだこともあったけど、今漏れのお気に入りは長谷川京子なんだYO!



【ウルフ金串】

 すぐアゴをねらわれるので用心棒は短期間で廃業すますた。いまは「振り込め詐欺」をやってます。



【ロバート】

 「カーロス廃人になるや見捨てた男について語ろう」ト2chデ、スレヲ立テラレマシタ! オオ! モウ、ワタシ、ユーウツ! 実名ヤメテクダサーイ、ト削除依頼ダシマシタ。



【青山くん】


 ぼく、なんであんな最凶少年院にいたんでしょうね。つか、初日から凄惨なリンチに遭う場所なのに、どうしていられたのか自分でも不思議です。



【キノコ】

 おれたちのキャラだけ永遠に年をとらないんだい! いま北陸自動車道で当り屋をやってるよ!




白木葉子を論ず



 「あの、なんとか言う女の子、ジョーのことが好きだった大金持ちの子はなんで出てこないの?」というメールをもらいました。

 そうなのです。

 ぼくは白木葉子のことが書きたかったのですが、ちっとも言葉にならず、他のキャラたちをいじっているうちにそっちが楽しくなってしまって、上記のようなことに相成ったわけです。
 だけど、こういうメールをもらってみて、まああんまりまとまらなくてもいいや、白木葉子について何か語っておきたいという気持ちが頭をもたげてきたので、ちょっと書いてみます。


 よくいわれるように、『あしたのジョー』は、原作者=梶原一騎的な登場人物と、漫画家=ちばてつや的な登場人物が同居し、梶原的世界とちば的な世界のせめぎあいとして成立したといわれています。

 ジャーナリストの斎藤貴男は、『梶原一騎伝』のなかで、自分も同感だという世間の『あしたのジョー』観を次のように紹介しています。

「梶原一騎とちばてつや。二つの優れた、しかし見事なまでに対照的な個性がぶつかりあい引っぱりあって、そのどちらでもない、ある種文学的な香りの漂う独特の作品世界が生まれた、と」(p.196)


 評論家の夏目房之介は、この評価をさらに分析的に一歩すすめます。

 夏目は、矢吹丈が紀子の問いにこたえて自分の拳闘への情熱を「まぶしいほどまっかに燃えあがるんだ」「燃えかすなんかのこりゃしない……」「まっ白な灰だけだ」と答える有名なシーンを使ってこう書いています。

「おそらく、ちばは梶原的文脈における丈の気持ちをはかりかね、ここで紀子によってそれを丈自身に問いただしたのである。/梶原の提示した骨格を、ちばなりに消化しようとした結果、梶原的物語はちば的登場人物によってゆれ、丈自身が梶原とちばのあいだをゆれていたといえよう」(夏目『マンガの深読み、大人読み』p.173)

 梶原的物語をちばが消化するにしたがい、ちば的登場人物は役目をおえて舞台から消えていく(ドヤ街の子どもたち、紀子、後期のマンモス西など)――夏目はこう分析します。夏目は、その象徴的シーンとして最後のホセ戦にはチビ連中は観戦に来ていない、というのです。

 これは見事な作品解説だと思います。

 ぼく的に傾斜をつけて言えば、やはりベースは完全に梶原一騎の世界で、それをちばが作品化・具象化した、というふうにでもなるでしょうか。


 そして、その典型を、ぼくの場合、白木葉子にみるのです。

 白木葉子は、矢吹丈から「悪魔」とののしられます。

「それにしても…… なんともはや おどろいたね あんたって人は ときどき思いもかけない運命の曲り角に待ち伏せしていて ふいに おれをひきずりこむ…… まるで悪魔みたいな女だぜ」
「迷惑だったかしら…」
「迷惑なんかじゃない その悪魔がおれの目にはヒョイと女神に見えたりするからやっかいなのさ」

(文庫版8巻p.91)


 ここに「梶原的物語」における白木葉子の存在を表現するすべてが凝縮されています。
 白木葉子とは、丈の野獣性、野性の美しさをみたいがために、丈を死闘へとひきずりこんでいく存在なのです。

 白木葉子は、同巻のカーロス・リベラ戦をみながら、目を爛々とさせながら「ああ… 矢吹くんが野獣にもどっていく…… 野性にかえっていく…… あんなに…… 全身けもののようになった矢吹くんを見るのは何年ぶりかしら……」(p.145)とつぶやく。

 その興奮は、性的恍惚といえるほどの異常さです。

 矢吹丈は力石の死によって虚脱状態になったり、あるいは野性の輝きを忘れたりします。
 そのたびに白木葉子は、矢吹をリングへともどすために遠慮深謀をめぐらせ、矢吹をリングへひきもどしてしまいます。
 力石を殺した後遺症で中央の拳闘界を去りドサまわりしていた矢吹丈が結局カーロス・リベラとの対戦のために戻ってくるのですが、丈は葉子に「おれの意志とはべつに いずれこうなるように仕組まれていたような気がしないでもないがね 葉子さん」(文庫版7巻p.334)と言い捨てるのです。
 あるいは、ホセ戦の前に、丈に野性をとりどさせるためにわざわざマレーシアからハリマオという野性味あふれたボクサーを招致するのです。

 ことによると、矢吹丈は、なりゆきまかせに拳闘の世界の外へ脱落していったほうが、パンチドランカーにもならず安逸な人生を送られたかもしれません。
 しかし、白木葉子という「悪魔」はそれを許さなかったわけです。
 たえず死地に呼び戻し、精神と肉体の極限にまでたっする死闘をさせたのが白木葉子です。
 白木葉子自身、丈が投げつけた「悪魔」という面罵をかみしめて、こういいます。

「悪魔……! 悪魔…… そうかもしれない ひょっとすると わたしは矢吹丈を生きながら地獄へひきずりこむ悪魔――」(文庫版8巻p.180)

 矢吹丈の野性、獣性の美しさをみたいがゆえに、矢吹丈の精神と肉体を消尽しつくそうとする冷血ブルジョア令嬢――これが白木葉子の役回りです。

 しかし、矢吹丈が「悪魔」と葉子をののしりつつも、「女神」だとそのヤヌス的性格を言い表わすのは、丈自身が拳闘によって自分の生命が最高度に燃焼することを知っているからです。

「そこいらのれんじゅうみたいに ブスブスとくすぶりながら 不完全燃焼しているんじゃない ほんのしゅんかんにせよ まぶしいほど まっかに燃えあがるんだ そして あとにはまっ白な灰だけがのこる… 燃えかすなんかのこりやしない…… まっ白な灰だけだ そんな充実感は拳闘をやるまえはなかったよ」(文庫版8巻p.382)

 運命の辻々で丈が白木葉子の用意した死闘を演じることは、丈にとって命を粗末にすることではなく、生命と人生を最大限に輝かせるために必要なことだったという、梶原流の野蛮な演歌――しかし人をひきつけずにはおかない演歌――なのです。まさに白木葉子が「悪魔」であり「女神」であるゆえんはここにあります。


 しかし、これこそ「梶原的物語」であり、ここではまだ白木葉子は実に機能的な役目しか果さぬキャラクターにすぎません。いわば矢吹丈の獣性をひきだす、一種の冷血機械です。

 白木葉子が生きた人間としての圧倒的な存在感を獲得するのは、ぼくは最後の最後、ラストにきて、矢吹丈に愛の告白をしたその瞬間ではないかと思います。


 パンチドランカーであることが明白になった丈に、ホセ戦に立つのをやめるよう、二人だけの控室で葉子は懇願します。

「たのむから…… リングへあがるのだけはやめて 一生のおねがい……!!」

 涙を流す葉子。そんな表情の葉子を初めて見たためにとまどう丈。

「すきなのよ 矢吹くん あなたが!!」

(文庫版12巻p.121)


 「まっ白な灰」になるまでたたかわせることが「女神」であり「悪魔」としての白木嬢の役割のはずですが、葉子はここでその機能的役割をかなぐりすてて愛の告白をおこないます。この矛盾にみちた、しかし必然的な白木葉子の告白によって、彼女は「梶原的物語」の機能的役割をうちやぶり、躍動する人間形象へと飛翔するのです。
 このシーンによって、白木葉子を心の恋人にしてしまった読者は少なくないはずです。


 斎藤貴男はこのシーンについて次のように書いています。

「実は、このシーンも(梶原の)原作にはない。葉子がジョーに抱いていたに違いない愛情を、なんとか形にしてやりたいちばの創作だった」(p.214〜215)

 すなわち、この白木葉子の飛翔は、ちばという描き手を得てはじめて可能だったわけです。
 ちばという人間主義的な精神がなければ、白木葉子はここまで大きな存在感をかちえなかったというのが、ぼくの思うことなのです。

 白木葉子は物語全体の中で、矢吹の試合を観戦中、あまりの凄惨さに目をそむけその場を逃げ出そうとしますが、思いとどまりその試合を見続ける、という葛藤を三度まで演じます。たとえパンチドランカーになろうが廃人になろうが、「まっ白な灰」になるまで人生を燃焼させてやるという冷血機械としての役目を演じ切ることが、白木葉子の役割ですし、このシーンがなくて多少の葛藤を描いただけでも白木嬢の、物語上の役割は果たせたかもしれません(梶原思想の尖兵ともいえる)。

 しかし、土壇場に来て、これまで白木葉子が見せたことのないほどの取り乱しぶり、涙の懇願をするわけで、これは梶原的物語にたいする、ちばの巨大な反乱なのです。いっさいをかき乱す破調ともいうべきシーンです。

 この「反乱」によって、物語は、梶原的な必然の物語だけでなく、ちば的な生きた人間の物語へと変われました。
 ただし、「反乱」といっても、けっきょくは丈の最後の対戦はおこなわれてしまうわけで、この「反乱」は「鎮圧」され、最終的には梶原的物語が全体を制するのですが。


 白木葉子が、野獣にもどっていく丈をみて、

「バイオリンにストラディバリウスという名器があるけれど――
 ただ 名器というだけで だれがひいてもすばらしい音色を出せるわけじゃない
 名バイオリニストにめぐりあえて はじめて
 その名器のもつ本来の音色を奏でることができるんだわ……」

(文庫版8巻p.146)

とつぶやくシーンがあり、それが矢吹丈にとってカーロス・リベラという強敵だったのだというわけなのですが、この言葉は梶原とちばの関係そのものを言い表わした言葉のような気がします。


高森朝雄・ちばてつや『あしたのジョー』
講談社漫画文庫(全12巻)
2005.7.14記(7.15補足)
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