橋本健二『新しい階級社会 新しい階級闘争』



赤木智弘と橋本健二の奇妙な一致


若者を見殺しにする国―私を戦争に向かわせるものは何か  赤木智弘の『若者を見殺しにする国』は、売れている。ぼくの『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』の売れ行きなど問題にならないくらいに。だって発売15日で2刷りだよ! この種の本でありえねえだろ。くそう。

 いやまあ、それはどうでもいいんだけど(笑)、赤木の同書を読んであらためて思うことは「正社員と非正規雇用の統一戦線はできるか」ということである。

新しい階級社会 新しい階級闘争 [格差]ですまされない現実 今回紹介する橋本健二の『新しい階級社会 新しい階級闘争』の階級・階層分析を借りれば、「アンダークラス(非正規)」と「正規雇用の労働者階級および新中間階級(管理職・専門職など)」は手をむすぶことができるか、ということだ。

 『オタクコミュニスト…』のなかでも述べたが、正社員と非正規雇用の関係については、赤木と橋本の分析は似ている。親和性が高い。
 というのは、「正規雇用の労働者階級および新中間階級」は「アンダークラス」から搾取している、という認識をもっているからである(同時に新中間階級は正規雇用労働者からも搾取しているというのだが)。
 赤木の方は、世代論をからめて、団塊の世代の正社員たちが自分たちの既得権益にしがみつくことで「就職氷河期」の自分たちが「非正規」という形でワリを食わされたと主張している。正規の安定は、非正規の自分たちの犠牲の上になりたっている、と。

 少なくともこの部分にかんするかぎり、赤木の「学問」的表現が橋本だということができる。

 この問題について考える前に、本書『新しい階級社会 新しい階級闘争』とはどんな本か、みてみよう。




階級概念を使っての格差社会の構造を分析する


 一般の人がこの本をどう読むのかといえば、ブログの評などをみると「格差社会」の一つの表現として読むようである。格差社会はとうとうこんなところまで行き着いた! みたいな。
 おそらく「[格差]ですまされない現実」というサブタイトルに反応しているのだろう。別のいい方をすると、読まなくてもこのサブタイトルとオビの言葉(「いま、日本に巨大な貧困層が蓄積されつつある。これは、もはや『格差社会』を超え、階級間の利害が対立する『新しい階級社会』が出現したことを意味している」)で感想が書けちゃうということなのだが(笑)。

 この本の「はじめに」や本論を読んでも、著者・橋本健二の目的はいまひとつわかりにくい。タイトルだけみると、日本に「新しい」階級社会・階級闘争が「出現」したかのように思えるだろう。「はじめに」には、格差社会の先には「新しい階級闘争の時代が待っている」(p.9)と書いているから“格差社会がひどくなるとついに階級闘争の社会になるのだな”“この本は格差社会の先にある新しい階級闘争・階級社会はどんなものかを論じているにちがいない”という予断をもってしまう。
 しかし、「はじめに」の別の箇所を読むと「このような階級闘争は、実はこれまでも存在してきた」(p.10)と書いてあって、どっちなんだと思ってしまうだろう。

階級社会―現代日本の格差を問う (講談社選書メチエ) 橋本はこの本に先行して講談社選書メチエから『階級社会——現代日本の格差を問う』という本を出しているのだが、こちらには次のように書いてある。

「いま必要なのは、広く関心を集めるようになった格差や不平等の問題を構造的に分析し、さらには政策形成につなげていくための、理論的かつ実証的な階級概念を確立することである」(講談社本p.29)

 つまり、格差社会といわれるようになった日本の現状を「階級」という視点から分析してみる、というのが橋本の問題意識なのだ(講談社本でも光文社本でも)。
 橋本はマルクス主義の階級論の研究から出発しているが、講談社本でも光文社本でもマルクスの階級論をそのまま現代にもちこむことを拒否している。そして自分なりの現代版の階級論を組み立て、その視点から現代日本の格差社会を分析し、解決策を提示しようとしているのである。




1〜3章の中身


 第一章「格差社会の風景」は、階級というものを「風景」すなわち「地域」として目に見えるようにしている。ベタであるが、六本木ヒルズと足立区だ。
 第二章「階級闘争としての格差論争」は、格差があるかないか、あるいは格差はあるが大したことがないかどうか、という論争をとりあげ、この論争自体がするどく階級同士の利害が衝突する「階級闘争」なのだといっている。ピエール・ブルデューの「階級が存在するかしないかということは、政治闘争の主要な争点のひとつである」という言葉を紹介する。
 第三章「貧困化する日本」では、二章の「格差は大したことはない」という議論への反論というか、ぼくも強調してきたが、格差の本質問題が貧困問題であることをさまざまなデータで実証している。
 ここは、議論の本筋を離れて、格差や貧困問題を扱う時の統計の見方がよくわかるようにできていて役に立つ。国際比較をするさいに、世帯の人数も違うのにどうやって国民の「平均」を出すのかと不思議に思ったことはないだろうか。橋本は「等価所得」という考え方を紹介し、これによって抽象的で平均的な一人の国民が描き出せるようになっていることを指摘する。


本書の核心=第4章


 そして、第四章「『新・階級社会』の構造」。ここが本書の核心である。
 格差社会となった日本を「階級」という道具を使って分析する。
 はじめに「階級」についての規定を行なっている。「マルクスを含めて社会科学者が階級という言葉を使うときには、論者によって多少違うとはいえ、おおむね共通の意味合いが含まれる。それは、『同じような経済的地位を占め、このために同じような労働のあり方、同じような収入の水準のもとにあるような人々のグループ』というものである」(p.107)。
 そして、橋本は「資本家階級」「旧中間階級」「新中間階級」「正規雇用の労働者階級」「アンダークラス」の5つにわける。旧中間階級というのは、中小業者や農民などの自営の人々、新中間階級とは管理職や専門職、その予備軍たちである。ホワイトカラー上層、だと思っていいだろう。
 実は前著『階級社会』では階級は4つであり、「正規雇用の労働者階級」「アンダークラス」は「労働者階級」とひとくくりにされたうえで、「正規雇用」と「非正規雇用」を同じ階級の中の別の階層として区別している。階級としては4つ、グループとしては5つ、である。
 本書ではアンケート分析の結果をのせて、これらのグループがどのような収入、資産なのかということは言うに及ばず、学歴、政治指向、幸福観などの「キャラづけ」までを明らかにする。実は、前著『階級社会』がさらに詳細なデータをのせていて、読んでいる新聞やパソコン所有の有無までわかる。


5〜7章の中身


 第五章「もう『上流』にはなれない」は、階級間の移動について。階級が固定化する話である。
オタクコミュニスト超絶マンガ評論 第六章は「さまざまな階級闘争」。映画や漫画、小説などの形象にいかに「階級闘争」が反映しているかを書いている。これは前著『階級社会』でもかなりの分量を割いている。なんか、ぼくが『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』でやったことみたいなんだけど、いや、発行は橋本の方が早いけどね(笑)、ぼくからいわせてもらうと、階級闘争の反映を漫画や小説にどこかないだろうかと「探す」ような視点になりすぎていて、型紙で漫画を裁断しているような生硬さがある。そもそも階級は個々人のさまざまな思惑をこえた、人間集団としての動きであるから、小説や漫画のようにあまりにミクロな個人の心理を「階級」で切るというのはどうしても無理があるのだ。まあ、あまり深くはツッコまないが。
 第七章は「新しい階級闘争が始まる」は、解決策ともいうべき方向である。マルクスは労働者階級による革命が社会を変えると考えたが、橋本はそれとは別の結論を出す。

 以上が、本書の概要である。
 ぼくがこのうち関心をもったのは、四章と七章である。冒頭に述べた「正社員と非正規雇用の統一戦線はできるか」という問題意識もここにかかっている。




「新中間階級・正規労働者が非正規を搾取している」!?


 四章で「資本家階級→新中間階級→正規労働者階級→アンダークラス」という搾取関係が書かれている。
 しかし、ぼくはここに搾取関係がある、という議論にはとうてい同意することができない。

「もともと搾取というのは、ある種の平等観にもとづく概念である。つまり、『職業に貴賤はないのであり、同じように労力を提供しているなら、同じような報酬が与えられるべきだ』という規範的判断を含んだ概念なのである。こうした規範的判断から、『労働時間の割に多くの報酬を受け取る人々は、少ない報酬しか受け取っていない人々を搾取している』と考えるのである」(p.115〜116)

 搾取=非平等、というわけである。
 これでは、所得の「差」があれば搾取が成り立っていることになってしまう。ゆえに橋本は「搾取を完全になくしてしまったとしたら……給料は全員同額である」(p.116)などという結論をみちびいてしまう。
 ぼくとつれあいは、何倍もの給料差があるんだが、つまりぼくはつれあいに搾取されているということか。いや、なんだかそう書くと当たっているような気がしてしまうが、気をとりなおして(笑)。
 いま、Yahoo!辞書で「搾取」を引いてみるが、大辞林は「階級社会において、生産手段の所有者が生産手段をもたない直接生産者から、その労働の成果を無償で取得すること」、大辞泉は「階級社会で、生産手段の所有者が生産手段を持たない直接生産者を必要労働時間以上に働かせ、そこから発生する剰余労働の生産物を無償で取得すること」とほぼ同じである。
 これをマルクス経済学的なバイアスだとしても、搾取には「労働の成果を無償でとりあげること」だというニュアンスは欠かせないだろう。そこにからんでいるのは「平等」ではなく、「所有」である。

 こうした橋本の見解には、橋本自身が『階級社会』で述べているように、ローマーやライトといった分析的マルクス主義者、ラディカル・エコノミストの「平等主義」的な社会改革観が反映している。

「特にローマーやライトは、技能や資格を生産手段と同じように搾取の基盤になる『資産』とみなし、資本家階級のみならず新中間階級も労働者階級を搾取することがありうると考えている」(講談社本p.36)

 マルクスは経済学はモノの学問ではなく人間関係の学問であると看破したが、ローマーやライトの議論はその核心を骨抜きにしてしまい、モノを配分した結果である「平等」に重きをおきすぎ、「分配」や「公正」という「倫理」によって現実を裁いてしまっているのだ。

 ただし、橋本のいう「新中間階級」にあたる人々が労働者階級内部の「階層」にすぎないのか、それとも独自の階級を構成するのかはともかく、独特のポジションをもっていることは確かである。
 橋本は「生産手段に対する実質的な支配力は、法律上の所有者が常に独占するわけではない。大きな企業になればなるほど、個々の生産手段の運用は一部の特別な労働者に委ねられるようになる。……つまり生産手段の所有ということ自体が、拡散してくのである」(講談社本p.35)とプーランツァスの議論を紹介しながらこうのべている。
 フランス共産党はブルーカラーのみを労働者階級と規定したが、日本共産党はこの見解を批判している。




「新中間階級をどうみるか」はマルキストの鬼門


 もともと橋本のいう「新中間階級」にあたる人々をどうみるかはマルクス主義の階級論にとって主要な論争点であり、「鬼門」であった。
 すでにマルクスの時代にこのことは問題になりはじめている。エンゲルスは労働者階級の利益を裏切る労働組合幹部の問題としてイギリスをとりあげ、「イギリスのプロレタリアートが事実上だんだんとブルジョア化してゆき、その結果全国民中で最もブルジョア的なこの国民が、究極はブルジョアジーと並んでブルジョア的貴族とブルジョア的プロレタリアートをもつようになるだろう」(1858年10月7日のエンゲルスからマルクスへの手紙)となげいている。
 伝統的なマルクス主義者だとみなされているレーニンは、「帝国主義的な超過利潤によって買収された労働貴族」の層があるとして、これが改良主義的潮流(のちの社会民主主義)の根拠だと説いた。

 先述のとおり、ぼくは「新中間階級・正規労働者階級・アンダークラス」の間に搾取関係はないと思っているが、そのことについては今後検討していけばいい。ぼくがここで性急に自分の結論を閉じてしまう必要はないのだ。
 ただし、生産手段にしめるポジションが独特なものがあり、それゆえに独自のグループを形成している、というのは疑いないところである。これはぼくがサヨ運動をしていても、それぞれに独自の働きかけをしているという実感でも裏打ちされている。




解決策としてのワークシェアリングと最低賃金アップ


 「アンダークラス(非正規)」と「正規雇用の労働者階級および新中間階級(管理職・専門職など)」は手をむすぶことができるか?——この問題についての、橋本は七章で一定の回答を出している。

 実は、講談社本の段階では橋本は労働者階級は正規・非正規ともに政治的に不活性で変革の主体にはならない、それよりも格差是正に実は熱心で政治的に活性化している新中間階級こそが革命を担う責務を負っているという驚くべき結論を出していた。

「ここで新中間階級が、格差拡大の現実とその弊害を最もよく理解する中間階級として、上位に位置する階級との格差、下位に位置する階級との格差をともに縮小させるような政策を支持できるかどうかに、社会のゆくえがかかっている。労働者階級からのいっそうの搾取ではなく、相対的な高所得で満足し、権限や技能をともなうやりがいのある仕事から得られるいっそうの満足と自尊を報酬と考え、自分たちの当面の物質的利益よりも社会的な公正を優先する新中間階級が、社会を変えるのである。古い言い方をまねれば、自己否定した知識人が大衆をリードするのではなく、自らの階級的位置にあって自己否定を実践することである」(講談社本p.202)

 自らが新中間階級にちかいところに属している、橋本らしい自負であろう。光文社本の段階では、アンダークラスを正規労働者階級と区分して、この階層が政治的に活性化する可能性をしめしている。

 そして、奇妙なことに、この新中間階級の「自己否定」を迫るのニュアンスは赤木の議論の空気に近い。赤木は「正規労働者」の集合体としての左派に謝罪と反省を求めるからだ。「左派は、非正規労働者を雇用の調整弁として利用してきたバブル崩壊以後の労組のありかたを謝罪し、あらためて共闘しようと貧困労働層に働きかけることが必要であると考えられます」(赤木p.323)。

 たしかに、正規労働者中心の労組にはこのことについて壁があったし、今もある。作家で全労連のオルグだった浅尾大輔は「論座」でその壁についてこう書いた。

「私の前に座っていた別の組合幹部が、たたみかけるように問うてきた。
『なあ、浅尾さん、なぜそこまで契約の連中のために頑張れるのか。彼女らは、どうやっても3年かそこらでクビなんだよ。そもそも労働組合に入る資格すらないんだから』
 彼らが指導する労働組合は、同じフロアで働く契約社員たちにも熱心に組合加入を勧めていた。私の話は、彼らの方針通りの内容でもあり、不快にさせるようなことは何一つ言わなかったはずだ。
 しかし組合幹部がはからずも私に吐露した不快は、『俺たちは契約は契約社員に組合加入の声をかけるが、本音では無意味だと思っている』『契約社員の賃上げは正社員の賃下げだ』『協力し合えると主張するお前は偽善者だ』『お前も本音でしゃべれ』ということではなかったか。正社員と有期雇用労働者とを隔てる溝の大きさ、深さを、改めて思い知らされた」(「論座」07年11月号p.68)

 そう考えれば橋本や赤木の求めた「覚悟」は決して筋違いなものではないかもしれない。その間にある溝あるいは壁をこえる覚悟について問うていることは、運動をする側が考えねばならない問題なのだ。

 橋本が提示する解決策は、ひとつは労働時間の短縮と正規雇用の促進、すなわちワークシェアリングである。もう一つは、最低賃金のアップだ。そして橋本は「覚悟」を求める。

「資本家階級はもちろんのこと、新中間階級、さらには大企業正規労働者の収入も減少する可能性がある。こうした犠牲を覚悟の上で、格差を縮小するだけの覚悟があるのか。参議院選挙で圧勝した民主党と、その最大の組織基盤である連合に問われているのは、この点である。たとえば、非正規労働者の待遇改善のための原資を、経営側と正社員が半分ずつ負担するような大胆な提案ができないか。この程度の提案もできないようなら、いまや巨大な勢力となりつつあるアンダークラスからの支持は得られない」(光文社本p.230〜231)

 実は、赤木もこの案を検討する(赤木の場合は「最低賃金」のかわりに「ベーシックインカム」を持ち出している)のだが、赤木もやはり「覚悟」を問うている。

「また、これ〔ワークシェアリングとベーシックインカム——引用者注〕を口にする左派も、実際の社会でこれを実施する気持ちなんかありません。本当にワークシェアリングを社会に適用させたければ、まずは労働組合自体が『賃上げ要求の放棄』をおこなう必要があります。……結局、左派にとっての『ワークシェアリング』や『ベーシックインカム』というのは、夢物語にすぎないのでしょう。だいたい、不況の一〇年間に、ポストバブル世代からあらゆるものを奪い取った安定労働者が、いまさら貧困労働者層になにか分けてくれるとは思えません」(赤木p.324)

 こうして両者はまたしても一致する。




正規と非正規の「共闘」は前進をはじめている


 ワークシェアリングは不況のどん底だった2002年頃にさかんに議論されていた。
 財界さえも推進を主張した。
 しかし、当時財界側が主張したのは、雇用の創出ではなく雇用を維持するためという口実で、時間短縮と抱き合わせで正規労働者の賃金を引き下げることだった。三洋電機では「ワークシェアリング」の名の下に最大20%の賃金カットが提案されたのだ。日経連(現・経団連)は、2000年版『労働問題研究委員会報告』でワークシェアリングを「就労時間を減らし、その分、賃金を下げて雇用を維持する手法」と定義しているように、あくまで雇用を現状のままで賃金を切り下げる方策にこれを使っている。
 この点では、正規労働者が必ず「賃下げ」という「痛み」を伴わねばならないという橋本や赤木の主張とカブっている。

 率直に言って、これは求めるべきワークシェアリングではない。
 社会経済生産性本部のワークシェアリング研究会が2000年に出した「雇用機会創出にむけた『ワークシェアリング』の推進を」という提言には、ヨーロッパの例が紹介されているが、ドイツは賃金カットなし、フランスは90%が賃金カットなし、オランダでは時間比例原則、すなわちパートと正社員の均等待遇によってワークシェアリングをおこなっており、賃金カットを抱き合わせる日本の財界のやり方こそ特異なものである。
http://activity.jpc-sed.or.jp/detail/lrw/activity000540/attached2.pdf

 賃下げをともなわない方策として社会経済生産性本部が提言しているのは、「労働時間を短縮する場合には、まず長すぎる残業時間を縮減しサービス残業を解消するとともに、年次有給休暇の取得率を高め」ることだ(同提言)。第一生命経済研究所の資産ではサービス残業の根絶で160万人、政府試算では有休の完全取得で150万人の雇用創出効果があるという。これらは最終的にはGDPを2.5%引き上げる効果があり、最終的には資本家階級をふくめ経済全体にプラスになる。

 この間、サービス残業の取り締まりなどは、二度にわたる厚労省通達が出されニュースでも報じられるようになってきた。01年の通達以来800億円以上が支払われてきた。決して事態は動いていないのではない。

 ただし、08年の現在、ワークシェアリングについての論調は低調である、というのが正直なところだ。赤木などは「それみたことか」と言うだろう。
 一つには、02年にくらべて失業率が下がってきていることがあげられる。これは新卒の正規雇用が一定回復しつつあることとともに、非正規であってもともかく就職すればよいということで、ワークシェアリングが後景にしりぞけられているからだ。
 だが、別の角度から言えば、焦点は「最低賃金の抜本引き上げ」や「派遣法の見直し」のような「非正規の生活条件の底上げ」に移ってきているのである。
 これは橋本などが提案した解決策の二本柱の一つである。
 ぼくは、正規労働者の組合がこうしたたたかいにとりくみはじめたという変化に注目すべきではないかと思う。すなわち正規労働者自身の課題ではない課題にとりくみはじめ、それが主要テーマになっているのである。08年1月現在、連合のホームページにいけば「STOP! THE格差社会」がトップでキャンペーンがはられているし、全労連のホームページに行けば「ストップ貧困」キャンペーンに重点がおかれていることがわかる。ただ運動の一項目としてあるというだけでなく、闘争の主要課題におしあがってきていることがわかるだろう。
 実際、運動に直接たずさわっている人たちの空気にふれれば、これらが決して「片手間」ではなく、闘争の中心にすわりつつあることが体感できる。赤木や橋本は正規労働者や新中間階級の方から動くように要請しているが、考えてみれば「アンダークラス」に比して、まだ多少は余裕のあるこれらの階層・階級だからこそ、自分たちの直接の課題ではないにもかかわらず、このような動き方ができるのかもしれない。

 赤木がそのことに納得するか、説得されるか、ということは、ぼくにはどうでもいいことである(赤木は自分のブログで「正規社員層は現状をあるがままに受け入れ、後ろから刺されるかも知れないという覚悟のまま、それでも非正規労働層のために共闘し、ついでに正規労働層のために共闘するべきなのです。/正規社員層は、非正規社員層と共闘しろ!!」と結局言わざるをえないのであるから)。しかし、「正社員と非正規雇用の統一戦線」はゆっくりとではあるが前進をはじめているのが現実ではないかと思うのだ。






光文社
2008.1.23感想記
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