広江礼威『ブラック・ラグーン BLACK LAGOON』




ブラック・ラグーン 1 (1)  海賊モノは、少年の冒険物語の定番ともいえる。
 猥雑な活気、近代の物語に特有な、将来にむけての明るさが特徴だ。読者を主人公へ強く同化させる。

 本作は海賊の物語である。
 少年むけのそれとは逆に、物語世界からはファンタジックな調子が追放され、きわめて苛酷で峻厳な設定がされている。
 海賊のメンバーはいずれも米国人だが、ベトナム戦役くずれのアフリカ系(ダッチ)、メカフリークのユダヤ系(ベニー)、そして「二挺拳銃(トゥーハンド)」と渾名される中国系の少女(レヴィ)。そこに日本人の主人公の元商社員・岡島緑郎(ロック)が加わる。カネになるものなら、どんなに危険なものでも運び、必要なら相手をためらわず殺害する。依頼主も、ロシア系や中国系のマフィアで、やはり障害があれば相手を殲滅し徹底的に利潤を追求する。

 「仕事」を遂行する様は、実にクールだ。

 困難に追い込まれれば追い込まれるほど、レヴィの眼はすわってくる。まるで追い込まれたことを楽しんでいるかのように薄笑いを浮かべる。殺戮のテンションを高めた軍隊と同じように、脳内がハイになっているのだ。
 あざやかなレヴィのガン・アクションの前に読者は快哉を叫ぶ。
 アクション描写がまるで人形のような硬直ぶりをみせた『GUNSLINGER GIRL』とはちがって、プロの眼はどうか知らないが、少なくともぼくのようなシロウト目にはこなれた描きかたに見えた。必要な筋肉に力が入り、しなやかに体が曲がる。事実、こんなふうに銃さばきをするのかどうか知らないが、ひとを説得する力のある絵である。

 でもいちばんいいのはセリフ回しだ。
 アメリカの通俗的なアクション映画や小説の翻訳調を、そのまま持ち込んでいる。著者の広江礼威はインタビューで

「洋画みたいな、海外小説の翻訳みたいな、ああいうセリフ回しっていうのは、今迄やっている方がいなくて、だからやろうと思ったんですけど、それ以外にも日本語の口語っていうか、ベタな日本語を使っちゃうと、いくら外人が主人公で外国が舞台でも、多分みんな日本人になってしまうと思ったんです。 だからあえて直訳セリフを使うことで、向こうの匂いが入ってくる」
http://www.toranoana.jp/torabook/toradayo/ncomic28.html

とのべているが、これは功を奏した。清水義範が“アメリカ人ってなんで死ぬ瀬戸際にもギャグ言ってんだ”といぶかっていたけど、そういうセンスもふくめてたしかに「異国」感を味わえた。
 ぼくも、最近この漫画のセリフが自動的に頭を回転している。

「――… リボルバー 回転式拳銃 だ。」
ヤー。そいつだ。
 ヨシダも不幸だな、随分と風通しがよくなっちまって。見ろよ――穴がでけェ、大口径だ。こういう銃を喜んで持つのは、たいがい見栄っぱりの底なしバカと相場が決まっている」

 殺されたヤクザの死体を不安げに分析するロックと、血と硝煙の匂いをかぎつけ変に眼がすわっているレヴィ。ヤクザの頭に足をのせながら、醒め切った調子でヤクザの死因を当てる。
 このレヴィの「ヤー。そいつだ」はたまらなくいい。
 「そいつ」に傍点がふってあるのもいい。
 小さなコマであるが、レヴィのもつ、卑俗さという名の率直さ、そしてその裏にある冷徹な軍事科学的知性を絶妙に表す。

 また、アラブ系の「テロリスト」グループに海上で囲まれた主人公たちが、それをふりきる作戦に出るシーンもシビれる。
 「楽しめ、レヴィ!」と号令をかけるボスのダッチ。やはりすわった眼と口で「あいよ」と軽く応じるレヴィ。冷静な作戦なのに、狂気じみている調子がクールだ。
 作戦をし遂げてふりきったあと、風に髪をなびかせながら、ダッチの「グレイト。いい一撃だ」に応えて、

当ったりめェよ、ベイビー。

と誇らし気に吹くのも小気味よい。「カッコいい」と思わせるように描かれていて、こっちはまんまとそう思わしめられてしまう。



 闇社会を描くという点では、山のように類似作はあるけど、たとえば細野不二彦『ヤミの乱破』と比べてみる。

 『ブラック・ラグーン』『ヤミの乱破』、どちらもフィクションのくせに、現実にある団体や国家、はては個人までをおりまぜてしまう。「ヒズボラ」とか「ベトナム海軍」とか「アメリカ軍」とか「ルメイ少将」とか。『ヤミの乱破』のほうは、戦後日本が舞台だし、『ブラック・ラグーン』は現代だが主な舞台は海外だ(4巻では日本にうつるが)。非日常であることはかわりない。

 しかし、ぼくが感じる圧倒的な「身近さ」は、『ブラック・ラグーン』のほうである。

 『ヤミの乱破』は戦後の闇社会と権力の謀略のカラみを描いていくのだが、まったく自分とは関係のない「昔話」、「お芝居」をみているような他人事さ加減だ。

 しかし、『ブラック・ラグーン』はちがう。
 頁から流れてくる空気は、現代日本の読者であるぼくに、ぼくらに、ぴったりとまとわりついて、するりと馴染んでしまう。わざわざ作者が言葉を「翻訳調」にして違和感をもたせるようにしてあるのに、である。

 それは、哀しいことも、欲望的なことも、リアリティも、この作品世界が現代の日本に住んでいるヲタに、ぴたりと温度設定してあるからだ。
 だから、ぼくはこの作品を読んでいるとき、肌身に染み渡るような現実感をいだきながら、それゆえに激しい反発をひきおこしている。

 まず、この世界にとびこんだ30才の日本人青年、「ロック」は読者の仮身であり、この世界とあの世界をむすぶ栓である。漫画的描線と葛藤する内面をどちらも備えている、手塚治虫の主人公に似た名前と姿を持つのは偶然か。このひ弱なヲタ青年がとびこんだ「闇社会」は、何の中間夾雑物もなく、「純粋」に「カネ」が追求され、それをつりあげる手段は「欲望」であり、入手するための道具は「まっすぐな暴力」である。
 なんのことはない、「闇社会」とは、ホリエモンのアタマん中 新自由主義の世界観 そのものであり、ぼくをふくめたヲタにとっては「ぼくらが暮らしている社会」それ自体ではないか。

「殺すか殺されるしかないんだ。
 この世界は、それだけだもの。」

 にっこり笑って、銃把を持ったかわいらしい双子のきょうだいが口にする。

 作者はこの「闇社会」に、たっぷりと欲望の可燃材料を投下する。
 1巻では最凶の戦闘サイボーグたるメイド、2巻では殺人マシーンと化した双子のきょうだい、3〜4巻では「セーラー服と機関銃(日本刀)」。ついでにいえば、ツンデレも。「さあ萌えろ萌えろ」と広江は煽り立てる。ヲタたちはチン○をなでられたら律義に勃起するのと同じ精確さで(当社比)、欲望のドライヴを駆動させるだろう。

 殺人マシーンである双子のきょうだいは、東欧の孤児院からチャウシェスク政権崩壊後に売り飛ばされ、「変態」どもの慰みものにされたあげく子ども同士の殺人を「楽しむ」ためのビデオ撮影に動員された過去をもつ。こうした過去を配置するのは『GUNSLINGER GIRL』と驚くほどよく似ていて、そこにはヲタが感じる「自分の世界の背後でおきている生々しい現実」というもののイメージが投影されている。世界の苛酷さを感じる場所は「日本の今」ではなく、世界のどこかで行われている「スナッフムービー」だと相場が決まっているわけだ

「だって僕たちは永遠に死なない。ずっと続く円環にいるんだもの。
 僕らはずっと殺してきたんだ。
 昔から… これからも世界が回るように殺すんだ。
 殺すために世界があって、みんながいて私たちがいるの。
 だから、ね お兄さん。
 もう私たち、殺すのだって悲しくないわ。
 血の臭いも悲鳴も臓物の温かさも――
 今は大好きでいられるの!」

 ヲタ自身の、自分が生きている現実がこうした痛みをふみつけて成り立っているという予感。双子のきょうだいは、いつしかその痛みを切り離して世界に順応し、その痛みに無感覚でいることに「成功」した。双子は殺すことをもはやなんとも思わなくなった。

 ヲタの仮身であるロックは、双子(のうちの一人の「女の子」)をだきしめてこういう。

「違う。違うよ。世界は本当は……
 君を幸せにするために……あるんだよ。」

 ロックのこの発言をあざ笑うかのように、「女の子」は「お礼」だといって、パンツとストッキングをぬいでロックに見せてあげるのだ。
 笑われているのは読者自身である。
 「女の子」に膝にのってもらって照れたり、パンツの中身を見せてもらったりするシーンに欲情している読者自身だ。
 そしてベニーにこう言わしめる。

「…ロック、ああいうものを真っすぐ見るな。
 ここはそういう場所で――――それが一番だ。
 あの子を養うか? 無理だ。あの子は殺しをやめられないよ。」

 あとほんの少し誰かが優しければあの子はああならなかった、とわななくロックに駄目押しの説教をするベニー。

「でも、そうはならなかった。
 ならなかったんだよ、ロック。
 だから――――この話はここでお終いなんだ。」

 この日本でちっぽけな「社会変革運動」をしたとして、それが世界の痛みをどう変えるというのか? お前はいまこの瞬間、欲望を感じ続けているではないか。よしんば、お前が聖者のように萌えるのを止めて、くだらない「社会変革運動」とやらに多少「成功」したとしようではないか。それで世界の彼方であがっている何十倍、何万倍もの悲鳴と痛みは少しはやわらぐのかね? けっきょくそれは自己満足じゃないのかね? そんな欺瞞や偽善はいっさいよそうじゃないか。ぼくらにできることは、この「闇社会」のなかで精一杯生き抜くことだけだ――この作品ははっきりとそう説教している。
 中国マフィアの一人はこう口にする。

「俺には道徳やら正義ってものは、肌に合わん。
 その手の言葉と尻から出るヤツは、びっくりするほど似てやがる。
 そのガキ共に同情するのは、ミサイル売って平和を訴えてるど阿呆共とどっこいだ。」

 この作品にはしつこいくらいに「対抗運動」「反体制運動」「それによってできた社会」がもつ影の部分、いや腐敗し腐臭を放つ部分が描かれる。
 戦闘メイドは「革命運動」が実はマフィアとコカイン畑を守るものでしかなかったことへの幻滅を「カッコよく」語る。主人公たちの行く手をさえぎるのは、マフィアに動かされた「ベトナム海軍」であり、そのマフィアもアフガン帰りの「ソ連特殊部隊」くずれである。ヒズボラと手を組む「赤軍」くずれは「信じてもいない革命の理想」を主人公に暴かれる。

 「対抗運動」は反吐がでるような腐臭にまみれている、というわけだ。
 ヤー。正しい絶望だ。こんなクソッタレ運動に1グラムも共感は必要ない。そいつはぼくも同意しよう。
 だとすれば、この世界を「変える」のではなく、その苛酷さにしっかり絶望し、たまに欲望を感じながら「生き抜く」しかないではないか――この作品はそのようにも説教している。

 だが、絶望と欲望だけでは「昆虫」のようにこの世界を生きることになる。
 いくらヲタでも、そこには何か「ロマン」がほしい。
 小さいときから殺しと盗みをさんざんやってきたレヴィが、日本の温室育ちであるロックに違和感をいだく。しょせん、自分たちの世界の苛酷さは温室育ちには分からない、と。なるほど、先ほど、ヲタクは自分の生きている社会を苛酷だと設定してみせたけども、それは世界の苛酷さからほど遠いではないかという、レヴィからの批判である。
 しかし、ロックは逆にレヴィの違和感を不幸自慢、「悲劇のヒロイン」気取りだと喝破する。死人から物をかっぱぐようなレヴィのやり方には結局自分を見捨てた商社の連中と同じく「かね、金、カネ、金」しかないじゃないか、正面からレヴィに対峙させるのである。日本の社会と世界の苛酷さがどこかでつながっていることをオタクは感じとっているわけだ。日本も世界も新自由主義に覆われている点では同じだと。
 そのうえで、そこに抗議をさしはさんでみるわけである。ロックは作中でレヴィにこう叫ぶ。

「誇りはねえのか、お前の脳ン中にはよ!」

 しかし、ここでロックが「カッコよく」叫ぶ「誇り」には何の内実もない。ロックはこの物語のなかで、ヲタの代表として、「カネ」と「欲望」と「暴力」だけの奔流に抗議めいたことを、しばしばやる。だが、それは先ほど否定された「自己満足」と一体どこが違うのか、「誇り」や「違和」の内実は何なのかは一切明らかにされない。苛酷さの中に生きることを決意したロックが、なぜ「死人から物をはぐ」ことだけは抵抗するのか。

 この世はどうにもならない堅牢さでできており、それは「カネと欲望と暴力」が支配している苛酷な社会で、その世の中を「変える」などという「偽善」は捨てて、その社会で「生き抜く」決意をしよう。多少の誇りも忘れずにね(はあと)――これはヲタの「理想」ではなく、精確なアタマの中身であろう。『ブラック・ラグーン』にただようリアリティはその描出だからである。


 この世界観は、ある種のピュアさの裏返しだ。
 ぼくはこうしたヲタサイトをやっているわけだが、平和運動のメーリングリスト仲間の一人から“世界ではイラクやアフガンで戦火があがっているのに、お前はいったい(ry”というむねのメールをもらったことがある。世界が痛みを感じ、悲鳴をあげている間は、人間が笑ったり、せんずりをかくのは不謹慎だというわけだ。
 そのナイーブなメールと、この作品は一味である。人間は世界中の痛みを吸い取り続けていなければならない。それを解決できないなら、「対抗運動」は自己満足で「シンパシー」は偽善なのだ。自己満足や偽善に陥るよりは、ホリエモンのケツの穴のヒダについたクソを舐め取るように、この世界に這いつくばって生き抜け――

 何をぬかしやがるこのウンコ野郎。
 手前には0か1しかないのか。
 世界の痛みは、ルーマニアの孤児院でも起きているし、東京の都営住宅でも起きている。そこに同じものを見るのが「連帯」だ。たとえ世界のどこかで悲しい出来事がいまこの瞬間起こり続けていても、ぼくらは日常を笑ったりセックスを楽しみながら生きていくし、その傍らで「思い出したように」対抗運動を、うまずたゆまず続けていくべきなのだ。自分が少しでも汚れたら、もうそれで世界の変革から手をひいてしまうのか。少しやって現実が変わらなければ、世界を受け入れるだけなのか。

 この作品世界にリアリティとカッコよさを感じ、欲望的に読んでいるヲタとしての自分がいて、反面でそこに流れる諦観と説教に腹を立てているサヨの自分がいる。ぼくは、今後もこの作品のクソッタレ加減とヨダレたらし加減に複雑な思いをいだきながら、この作品を読み続けるのだろう。ちょうど「氏ね(^ ^)」みたいな、あのアンビヴァレントな絵文字のように。





広江礼威『ブラック・ラグーン BLACK LAGOON』
1〜4巻(以後続刊) 小学館サンデーGXコミックス
2006.2.25感想記
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