高野真之『BLOOD ALONE




 見た目、10〜12才の八重歯美少女(ただし二次元の)から、「ちゅーを …しろ」と戸惑いがちに命令されたら、ヲタクの92.4%は「する」、3.1%は「ほっぺにする」、1.6%はムニャムニャ、という統計がある(ないない)。

 静謐な画面、知性的なタッチが全体を覆ってはいるけども、隠しようもなく全体からヲタクの欲望が溢れ出ている本作。

 売れない作家で探偵業もいとなむクロエと、その家に同居するミサキ。髪の長いこの美少女は、おそらく毎日クロエとベッドをともにしている。カゼになれば、クロエが死んでしまうのではないかと胸が張り裂けそうに心配し、一晩中手をにぎってくれ、いっしょに料理をつくっていれば「あなたとこうしていられるの とても幸せよ」と心のなかで強く念じてくれる。創作にあわせてピアノも弾いてくれる。

 もちろん、セックス(きゃっ。)はおろか、「ちゅー」さえもしていない。

 父娘のようでもあり、兄妹のようでもあり、恋人のようでもある。
 両者は血がつながっていない。それどころか、ミサキは人間でさえなく、吸血鬼である。しかしそれが何だというのか。人間でないからミサキと暮らさないなどというヲタクがこの日本にいるのだろうか。いたら、ぼくの前に連れてきてほしい。お前はヲタクではない、全日本ヲタク協会から除名だと、このぼくが小一時間説教してやろう。

 クロエ像もまたヲタクに適合的で、一日中PCにむかって創作をしていられる職業で、どうにか生計を維持しているだけの経済的富を得ることができる。あとは、なにらやスリリングで面白そうな「探偵」(全国のリアル探偵のみなさん、ごめんなさい)の仕事をこなすくらいだ。
 少し暗めの髪型、ヘタレにも似たやさしさ、知性への傾斜――クロエの造形は、ヲタクの理想的自画像のひとつである。


 ぼくがこの作品で注目したのは、ミサキは吸血鬼で、ミサキと血がまじってしまったものは、ミサキの「奴隷(レンフィールド)」になってしまうという設定である(他の吸血鬼モノを知らないので、よくある設定なのかどうか知らないが)。
 ミサキの吸血鬼仲間ヒグレ(少年)は、見栄えのいいオトナを奴隷にしている。ヒグレがそのレンフィールドに、「…明日の夜も来てくれる…?」と顔を赤らめながら聞くと「もちろん」とやさしく耳元にキスしてくれる(ぼく的にはヤヴァイ)。

 血を吸う、血を交わらせるというのは、セックスの婉曲的な表現のようにも聞こえる。
 ミサキはクロエをレンフィールドにはしない。
 ミサキはヒグレにクロエとの関係を聞かれ、こう答える。

「クロエは… レンフィールドじゃないわ」
「? レンフィールドじゃなきゃなんなんだい?」
「それは… クロエは…その… 相棒(パートナー)よ」
「愛人(パートナー)ねェ……」

 性的な関係としか理解しないヒグレと、その比喩や関係を極力拒むミサキ。

 美しい少女を囲い込んでまるで愛玩具のように手元においておきながら、それは「奴隷」ではなく「パートナー」としての関係なのだと宣言させる――高野の意図は、ヲタクの欲望にとって何を意味するのか。
 

 ヲタクは、ダサい現実にくらべ、虚構のなかでは、あらゆる美しさ、あらゆる恐ろしさ、あらゆる気持ちよさ、そしてあらゆる「リアル」さを創造できると信じている。虚構というものの豊かさを信仰しているのがヲタクだ。

 しかし、ヲタにとって、最大の問題は「他者性」である。
 ぼくらが現実社会で感じるリアルな他者の「他者性」は、言いつくせぬほどの深淵として彼我のあいだに横たわっているように見える。
 了解などしあえぬくらいの深い断絶で隔てられた現実の「他者」のダサい似せ絵を、わざわざ虚構の場にふたたびもちこむ必要などない。
 かといって、一切の他者性をもたない、ロボットや奴隷のような造形も白ける(いや、それが好きだというヲタク党もかなりの数にのぼるが)。

 ヲタクはその狭間でたえず揺れる

 それゆえに、ヲタクにとってはキャラが立つかどうかは死活問題なのである。
 自立しない、ストーリーに従属したキャラでもダメだし、かといって現実的他者のように自分とまったく没交渉でも困る。自律/自立的に動きながら、それはある範囲のなかで動いていなければならない。「中に人などいない」といいうるギリギリのところまでキャラを立たせつつ、それはヲタクの手のひらの中になければならない。
 アスカとシンジは人類補完計画の筋書きどおり溶解して一つの自己になってしまってはいけない。かといって、『エヴァ』の映画のラストよろしく「気持ち悪い」と拒否されるような徹底した他者であってもいけないのだ。

 ギャルゲーの結末がヲタの思いどおりにいかない展開を十全にはらみながらも、わずかであってもかならず攻略できる構造を内包しているのに似ている。

 さきほどのミサキとヒグレの会話のシークエンスで、ヒグレが自嘲的にいうのは、まさにヲタクの告白である。

「自分の血を与え心を縛った者を愛する様は滑稽かね?」
「べ…別に私はそんな風には――」
「分かっているさ これが虚しいことだということも… …だがね ときには… この永遠に続く長い夜を共に越えてくれる者が側にいればと思うこともある… それがたとえ自らの手で奴隷にした者であっても…」




 旧約聖書、『創世記』には「神は自分にかたどって人を創造された」と書いてある。
 人間は神に似ているのだ。


「では、神に似るとはどういうことか。神は切に他者を求めて世界を創造した。そうであれば、人間も本質的に他者を求める者だということである。このことが『愛』という言葉で表現されるものであれば、人間は本質的に愛する者なのである。『神は愛である』とは後に新約聖書でヨハネも強調していることだが、そうであれば、神に似て創られた人間も愛なのである」(※)
「愛しうる者は、自由な者でなければならない。選びうる者、否を言いうるもの、拒否しうる者、憎みうる者でなければ、愛することはできない。なぜなら、けっして否を言えない者とは、因果法則にしたがって必然的に運動する無機的な自然物、あるいは機械のごときものであり、いわばロボットであり、せいぜいのところ奴隷であるにすぎないからである」
「それゆえ、愛し合う者どうしは自由意志の根源から相手を肯定するのであって、けっして支配・被支配の関係にあってはならない。なぜなら、支配・被支配の関係はそれ自体が愛を破壊してしまうからである。だから、切に愛を求めた神は、自分を拒否しうる者、自分を否定しうる者、すなわち罪を犯しうる者を創りだしたのである。なぜなら、ロボットをつくりだしても、愛の相手にはならないからである。けっして否を言わない応答機械をつくりだしても、それは他者ではありえず、呼びかけはむなしく虚空のうちに消滅してしまうだろう」
「人間の愛を切に求めた神は、愛を求めたがゆえに、ついに、人間を自分と対等な者にまでしてしまうという、パウロの表現を使えば、『神の愚かさ』にまでいたってしまったのだ」


 天地のはじまり、神というヲタクが、人間という「動き出すキャラ」「自立し、主人にそむくキャラ」を創ったのだと『創世記』は教える。

 高野というヲタクもまた、奴隷ではない、自由意志をもったパートナーとしてのミサキ、その反転物であるクロエというキャラクターをつくったのである。

 
 知性的で落ち着いた表紙の絵柄、「奴隷ではなくパートナーだ」と宣言する健全性――諸君、これらにだまされてはいけない。
 ここはヲタクが天地創造をした世界、ヲタクの愛の国なのである。




『BLOOD ALONE』1巻 電撃コミックス
メディアワークス
2005.3.10感想記
※引用はすべて岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』
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