星野之宣『ブルー・ワールド』



ブルー・ワールド (上)  地磁気がどうこのこうの。
 あーもーそういうSF的なトリックなんかどうでもいいんだよ!

 要は軍人と学者たちがジュラ紀にタイムスリップして、現代世界へ戻るために大陸を横断し、恐竜やらなんやらと死闘を演じるつう話。
 スピルバーグの「ジュラシックパーク」が1992年で、この作品が96年だから「つまりジュラシックパーク」のパクリなんだろ、と思いたくなるが、『ブルー・ワールド』の前編である『ブルー・ホール』がちょうど92年に単行本刊行で、映画の話題のことを考えても、少し早い。まあほぼ同時期だ。

 にしても、どうしても「ジュラシックパーク」と比べてしまう。
 だいたい『ブルー・ワールド』に出てくる軍人は米英軍だし、主人公格の大学教授(キャメロット)はショーン・コネリーそっくりだ。出てくる美女は日本的な戦闘美少女ではなく、ハリウッド的なアマゾネス。胸が大きいだけでなく、筋肉隆々である。星野がハリウッド的世界観を意識していないわけがないのだ。

 「ジュラシックパーク」を映画館で観たとき、ぼくはまるで子どものように素直に感心した。あのころ、そういう驚き方をするのはダサいかのように言われていたのだが、いやーまったくもってCGのすばらしさに素朴に感動したね。

 「ジュラシックパーク」で主人公たちが恐竜を再生させた公園に案内され、最初にブラキオサウルスを目の当たりにするシーンがあるけども、スピルバーグがそう狙ったように、その意図どおりにぼくは「あ! ブラキオサウルスが生きて動いている!」と驚いたものだった。いや、ホントに素直に。
 そのあと、恐竜たちが音をたてて大移動するシーンもあったが、まるで自分がその大移動する群れのなかで困惑しているかのような錯覚を味わったね。近代の初めに映画というのものに出会った少年のような純真さで!

 「ジュラシックパーク」というのは、やっぱり「生きて動いている恐竜」というのが目玉だった。特撮なんかもう全然目じゃなくて(というか特撮の楽しさはそういうリアリティではない)。再現性、本当の現実のようである、というリアリティだ。

 これにたいして、『ブルー・ワールド』の楽しさはまったく別にある。

▲講談社文庫版上巻p.218 ▲講談社文庫版上巻p.108
 『ブルー・ワールド』は、もちろん、ぼくが描く絵などがすればむちゃむちゃうまいわけだけど、映画のCGの「再現性」にかなうわけがない。それなら映画館で「ジュラシックパーク」を観ていた方がよほどよい。
 だいたい、『ブルー・ワールド』はところどころ、恐竜の絵がコピーですませてあって(右図は一例)、けしからんではないか。獣形類の描写もひどくいい加減だし。

 では何が楽しいのか。
 それは「異世界」感である。
 「うわーこんな世界があるんだあ。うわーうわー」という感覚。

 この感覚は、典型的な「恐竜」にたいしては実はあまり起こらない。いや、ぼくの場合ね。

 アロサウルス、ユタラプトル、バロサウルス、ケントロサウルス……もう恐竜図鑑でずいぶん観てきてしまったものについては、予想がついてしまう。「ジュラシックパーク」に出てくる恐竜たちだって、造形としては「意外性」はない。つまり映画「ジュラシックパーク」には「異世界」感が乏しいのだ。
 『ブルー・ワールド』のなかでこれにサバイバルストーリーが絡んでも、つまりそういう恐竜に登場人物がやられるかどうかっつうシーンになっても、絶対に主人公たちは死なないとわかっているので「まーせいぜいザコキャラが2〜3人いなくなるんだろ」程度で終わりである。感興を催さないのだ。

 では『ブルー・ワールド』のなかで、どこに「異世界」感をいだくのか。たとえば死体が並べられたところに肉食の巨大な環形動物(ゴカイみたいな)が登場するシーンとかは興奮してしまう。あるいは、タイムスリップした瞬間に登場するピラニア的性質をもつ肉食の変な形の魚とか、両生類のくせにむちゃくちゃどう猛な肉食獣の群れとか(登場人物いわく「カエルの化け物」)。

 ゾクゾクするね。

 この「カエルの化け物」のガソリン焼死体の屍肉を食べて「キメの粗い鶏肉ってところだ」というあたりも(カエルの肉をぼくも食ったことがあるが、たしかにトリ肉に近い。ゆえに「両生類の肉=チキン風味」と推察したのだろう)。

 一番気に入っているのが、ほ乳類の祖先たちの楽園がある高地にたどりついたとき。これぞ異世界。ザ・異世界。そもそもこういう桃源郷的なユートピアってもうだめぽなほど何か自分の精神的性感帯を刺激する。人面犬みたいな肉食獣の、超いい加減な描写もたまらん!
 くわえて、この楽園が終わり、一行が地底にもぐったときに、地底に落ちた獣がミミズの親方みたいなやつの大群に食われるシーンとか、それをモグラだかバクだかに似た巨大動物が舌で舐め取るというのもキター。
 そういえば、NHKスペシャル(「プラネッツアース」シリーズ)でボルネオの洞窟に入って、コウモリの大群の糞でものすごい臭いがしているその下は、ゴキブリの大群だったという光景を観たときも、気が遠くなる「異世界ぶり」でイキそうだった。

 これぞ、映画の「現前性」「再現性」的リアリティとはまったく異なる、まさに虚構ならではの凄みだ(いや、Nスペは虚構じゃないが)。

いばらの王 (1) 絶海の孤島から脱出する、岩原裕二『いばらの王』を読んでいるときも、なんかSF的な設定なんかホントどうでもよかった。だれかの観念がそういう野獣をつくりだしているとかなんとか……ぼえー……うん、どうでもいいんだよ。そんな設定とか謎解きとかは。ただひたすら、どういう変わった造形の野獣がどういう変な生態をしているのかという猟奇心でいっぱいだった。
 『いばらの王』の場合、まさにそれが「妄想の産物」だったことによって、造形がヨリ「怪獣」的で、それがぼくには「やりすぎ」という感覚を引き起こさせた。つくりものっぽいのだ。

 だから、『ブルー・ワールド』が、まったくの怪獣世界ではなく、「かつて地球にあったと思われる世界」を描き出していることによって、非常に均衡のとれた――ウソくさくもなく、ありきたりでもない――「異世界」感をつくりだせたのだ。

 
 思えば、ぼくは幼少期にやはり例にもれず、恐竜にハマったのだが、ジュラ紀や白亜紀というのは、面白くなかった。
 やはり、ペルム紀、三畳紀、石炭紀、デボン紀だろ! 通は!
 ああ、あの魚類から両生類が登場する話なんか、何度聞いても「えがった」もんね。
 本当にあのころそれが頭にこびりついて、現生魚類のなかで「肺魚」とかに異様な関心もったりしたもんな。倒木の上に乗っているイクチオステガ(デボン紀の原始両生類)とか図鑑でよく目にしていて、なんか知らんけども、ロマンをかきたてられたよ。

 そう、イクチオステガは漢のロマン

 あと、ディメトロドンだディメトロドン。
 恐竜だか両生類だかわかんないような姿態のくせに、実はほ乳類型は虫類という、クラクラ感。あの背びれが、やはりこれもロマンだった。保育園の帰りとか、田んぼのそばの用水に朽ち木とかあって、ぼーっとそれを見ていると、もう気分はペルム紀。ディメトロドンとかここにいればなあと何度思ったかしれない(体長が3メートルもある超獰猛な肉食獣なので、絶対にぼくなどは食われるだろうが)。

 だから、サバイバルにおける人間性の限界とか、なんか色っぽいおねーちゃんが下着で冒険しているとか、恐竜の絶滅原因とか、そんなことはどうでもいいんです!






講談社漫画文庫(全2巻)
2006.5.31感想記
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