岩重孝『ぼっけもん』



※ちょいネタバレがあります。


 前回はお見苦しいものを……。「前日酔って暴れて翌日謝って回る之図」みたいで申し訳ありません。

 つれあいが『ぼっけもん』を読んでいましたが1巻にあきれ、2〜3巻まで読み進めても「開いた口がふさがらない」という状態だったようです。くそ。人の美しい思い出をけがしやがって……。



当研究所の個人体験


 『ぼっけもん』は、ぼくにとって一つの「原体験」がある、という特殊事情を考慮しないといけないのかもしれません。
 ぼくには年の離れた兄がいますが、当時まだ兄が昔買ってきた『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『1・2のアッホ!』をボロボロになるまでくり返し読んでいた「ジャンプ少年」であり、義務教育の課程にあったぼくは彼が東京からかえるときに持ち帰った「スピリッツ」に強いオトナの/東京のニオイを感じたのです。1984年ごろのことです。
 そこで連載されていた『めぞん一刻』(高橋留美子)や『キスより簡単』(石坂啓)などの作品群がそういう気分を盛りたてたのですね。


ぼっけもん 1 (1) この一つに『ぼっけもん』がありました。そして、「オトナのニオイ」という点では、実はこの作品が一番衝撃が強かったのです。
 ちょうどぼくが読んだ数号は、主人公の浅井とその恋人である秋元が最も苛酷な「修羅場」を演じている京都旅行のシリーズのときで、「トルコ風呂」(まだこの言い方だった)から出てきた(未遂)浅井に秋元が遭遇するという回の前後でした。
 浅井の「夢」と秋元の現実主義が二人の間に齟齬をきたしはじめ、それを糊塗するかのように二人で出かけた京都旅行の最中に起こった出来事でした。

 「トルコってどういうことするの?」

と小さく肩をふるわせて泣きながら、「ホントはアタシ知ってんだ…」と秋元は浅井に激しく組みついていき、浅井のチャックをおろそうとしてもみ合いになります。何度払っても食らいついてチャックをおろそうとする秋元をついに浅井は殴りつけてしまう……いわばこの漫画の一番重要なヤマ場をいきなり読んでしまったのです。

 前後の展開はまったくわかりませんでしたが、たぶんそれが「青年漫画」を読んだ初めての体験で、うわーこれが東京なんだ、オトナなんだと遠い気持ちになったのです。このときは、この数号だけを読んだのですが、これらのシーンはいつまでも頭に残りました。

 全体を読んだのはそれから10年ちかくたってからでしたが、「読み」の出発点にこの原点があったのです。もし、それがなければぼくは1〜2巻を読んで放棄してしまったかもしれません。



この作品のもつ「特殊性」


 つれあい同様、ぼくの前回の一文をみて、第1巻を買って読んだ方がいらっしゃるかもしれません。しかし、その絵柄と話のあまりの「古臭さ」に衝撃を受けたかもしれませんね。すいません。

↑図1:『ぼっけもん』1巻p.11(小学館、旧版)
↑図2:『ぼっけもん』11巻p.151(小学館、旧版)
↑図3:『単身花日』1巻p.181(小学館)
 とくに絵柄がまず衝撃だろうと思います。
 いまの絵と『ぼっけもん』の終わりごろの絵柄ともかなり違いますが、それでも同じ作者だということはすぐにわかります。
 ところが少なくとも1巻の冒頭作「忘れ雪」(図1)を読むと、一体誰の作品なのかわからなくなってしまうでしょうんじゃないでしょうか。おそらく『ぼっけもん』の1巻(1982年)と14巻(86年、図2は11巻)の方が、『ぼっけもん』14巻(86年)と最新刊『単身花日』(2007年:図3)よりも作風の開きが大きいと思います。

 そして、『ぼっけもん』の1〜2巻というのは、今からみるとですが展開が安定していません。3巻以降は浅井と秋元との話を軸に展開していきますが、それまでは鹿児島のときの高校時代に思っていた女性のこと、東京に来てうだつのあがらない日々を送る話などが雑駁にもりこまれている印象をうけるのです。

 これには理由があります。
 作者の岩重孝(現在ペンネームを変えて「いわしげ孝」)は、もともと高校に在学中に「少年ジャンプ」に何度か入選していたのですが、大学に入って「ガロ」にもちこみ、一度も掲載されずに大学を卒業。漫画家ではなく本屋に就職するという挫折を味わっています。

〈「もう漫画をみるのも嫌だった」が、店で扱っていた長谷川法世の「博多っ子純情」に刺激を受け、故郷鹿児島を舞台に自分なりの青春漫画を描いてみた。「卒業論文みたいなもの。これで駄目なら吹っ切れる」と思って「ビッグコミック」に投稿した。/ある日の勤務中、小学館から電話がかかってきた。注文した美術書の件だろうと電話をとると、「入選の知らせでした」。二十四歳の再デビューだった。/再デビュー作の「忘れ雪」は、そのままシリーズ化、代表作の「ぼっけもん」となった〉(中野渡淳一『漫画家誕生 169人の漫画道』新潮社)

 いわば1回こっきりの短編を土台にして始まった物語だったのです(その後この漫画は創刊された「ビッグコミックスピリッツ」に舞台を移します)。
 これがこの物語の初期の雑駁さを規定してしまっています。

 そして作者が告白しているように、『博多っ子純情』に強い刺激をうけてスタートした作品だっただけに、「青春モノ」として展開というか作風が同作品にそっくりです。
 主人公の男性は男権的な気風の中にあり、つねに「男らしさ」を周囲から称揚され、その空気のうちに、中高生の猥雑な性への関心にはじまり、主人公の「ヰタ・セクスアリス」が描かれるというパターンです。
 1970年代に「青春」を描く漫画は、驚くほど似た体裁をとっています。漫画ではありませんが、五木寛之『青春の門』もこのパターンのうちにあります。年代的にいえばそれが走りなのかもしれません。

漫画家誕生 169人の漫画道  『ぼっけもん』がこの作品の最大の魅力である、秋元とのラブストーリーに発展していくのは3巻からです。そして8巻において大きな転換をむかえ、エンディングまで怒濤のように二人の物語が続きます。
 だから、この作品をもし手にとることがあれば、8巻(旧版)までおつきあいする気持ちがなければおすすめすることはできません。そして、仮にその気持ちがあったとしても、上記のようにぼくの個人的な原体験が非常に強くある漫画なので、いまの若い世代の人たちにとどくものであるかどうかはまったく保障の限りではないのです。ただし、本作は1986年に小学館漫画賞を受賞し岩重の代表作となったように、少なくとも80年代には「普遍性」を得ていたと評価された漫画だったことは間違いありません。

 なにか、この漫画の特殊性を明らかにするつもりが、「ぼくのレビューを頼りに買った人への苦情にたいする予防対策」みたいになってますが、気のせいですので。



秋元加奈子という「演歌」


 さて、ぼくがこの漫画に肩入れしている一番の理由は、もう何といってもヒロイン・秋元加奈子という造形にあるのです。
 主人公・浅井義男は二部の学生で昼間は書店でバイトをしているんですが、秋元はそこのバイト仲間で同じ大学(二部生)の学生だという設定になっています。

 秋元は非常にしっかりした(つまり母性的な)、そしてある意味で知性的な女性として描かれます。なんたって恋人のことを、いつまでも「浅井君」と呼ぶんですよ! これ一つでももうたまらんじゃあないですか!(この呼称形式はぼくのつれあいもそうなのですが、本作への萌え方とは関係ございません)
 秋元は卒業して出版社に勤めますが、しかし、少なくとも90年代以降の「ヤングユー」誌で造形されてきたような大人の女性たちとは違って、どんなことがあっても秋元は一人の男性=浅井を強く思い続けます(これは浅井の方も同じなんですが)。それはもうものすごいテンションで。

 浅井と別れて卒業をしてしまった秋元は、別れて1年にもなり自分でももう浅井とのことは「いい思い出」になりそうだと自分に思い聞かせます。しかし、仕事でいっしょになった他の男性にキザなキスをされ、激しく動揺します。「動揺」というのは、その男性になびいて、とか、ムリヤリされたことがっていうんじゃなくて、自分の中に浅井にたいする気持ちが大変な量で埋まっていたことに気づかされるからなのです。
 20代も中葉にさしかかろうという女性がキス一つでまるで少女のように動揺し、自分の中にある別れた男性への一途な気持ちにふれてしまう――秋元はまるで貞操を守るかのように、涙を流して歯を磨くのです。

 先ほども述べたように、こうした一途さは少なくとも90年代以降の「ヤングユー」誌で造形されてきたような大人の女性たちには見られない「演歌」な女性像、「古風」な女性像だといわねばなりません。

 そう、とても「古い」のです。

 冒頭に紹介した京都旅行のシーンでは、浅井が「トルコ風呂」(現ソープランドw)から出てきたあと、二人でホテルに帰り、これからのことを話し合います。静かに理性的に話をすすめていたはずの秋元は、一転ベッドに泣き崩れ、顔中を涙で濡らしながら、離れたくない、アタシにたいして仕事をやめてついて来いって強引に言ってほしいと叫ぶのです。
 うむ、これぞ演歌。

 その「古さ」に、ぼくなどは逆にヤラれてしまいます。


 「まー要するにお前は、男にいつまでもつくす控え目な女性が、心の奥底では大好きだっていう男権主義者ってことだろ」というツッコミにかんしましては、当研究所の精神衛生上の理由でお客様には御遠慮いただいております。



ウェットに、直截に


 「古さ」といえば、4巻では初めて体を重ねた二人が、次の日に、野原に行く話がありますが、シロツメクサで花冠をつくる秋元のまぶしさに、浅井が秋元を押し倒してしまうという、このスジだけ2007年の今聞くととんでもないシーンだと思う人も多いでしょう。しかし、ぼくなどは、こういうあたりにヤラれてしまいます。「くっ……おれはなぜ浅井ではないのだ」と。

 たとえば、志村貴子『敷居の住人』は、主人公のミドリちゃんこと本田が、近藤ゆかとセックスした後というのは、家や教室で本田はその「余韻」を楽しみます。しかし、近藤といるホテルや駅では実にさばさばした、かわいた描写が続きます。
 駅で二人がした会話は、

「モーニングサービス ショボかったね」
「うん」

 これだけです(『敷居の住人』5巻p.90)。本田はそのあと夢をみて、夢のなかで近藤ゆか(そしてそれ以外の女性たち)に初めて「甘い言葉」をかけるのです。「んもう 夢の中の俺は言うことがばかげて甘い甘い」(同前p.92)と本田は思います。
 『敷居の住人』の同巻は01年に発行されていますが、もう21世紀になるとですな、「初体験」がいくら「ショーゲキ体験」(同前p.92)であってももはやこんなふうにしか表現されないのです。それはリアルではあるのですが。

 たしかに『ぼっけもん』でもこの「初体験」のあと、二人は翌日のホテルでは、電車の時刻や窓からの風景といった「他愛のない」「事務的な」会話に終始するのですが、それは非常にウェットな光景です。照れているだけなのです。
 そして、免許もない浅井が車を運転し、二人は狂躁に駆られるように死ぬかもしれない暴走をし、間一髪で車をとめます。「もう死んでもいいかもしれない」という狂気にも似た幸福感が二人をつつんでいることを、こんなにも直截に表現してしまうのです。そして前述の花冠の描写へとつながります。

 2000年代の現在、「青春モノ」といえばどちらかといえば漫画では、ドライな、あるいはダークなリアルさが売り物です。そういう漫画が多い。浅野いにお『ソラニン』とか信濃川日出雄『ファイン』とか。
 ぼくはそういう漫画に食傷気味なのかもしれません。
 ウェットなもの、直截なもの、そして根底で近代のビルドゥングス・ロマンがもつ「明るさ」に飢えているのだろうと思います。



70年代青春ものの体裁をかぶった80年代ラブコメ


 3巻で浅井が告白するシーンがぼくは大変好きです(p.134〜136)。

 夜の多摩川べりを二人で歩きながら、秋元が少し困ったように、伏し目がちに浅井にいいます。

「浅井君、アタシのこと…………あんまり興味ないの?」
「え…………?」(ズキ)
「だって一年半前初めて口をきいた時と、浅井君あまり変わらないもの。」

 浅井は川面に石を投げつつ、向こうをむいたまま、小さなコマでこう言います。

「俺、秋元のこと、好きやよ」

 そしてこれまた小さなコマで「!!」とそれを受け止める秋元の表情が描かれます。作者が戦略的にこうしたかどうかはわかりませんが、けっこう重大なシーンを、小さなコマで連続させることによって、そして浅井がなかなか顔をみせないことによって、表情がグラフィックには依存しなくなり、読者はこのシークエンスを想像をふくらませながら読むことになります。
 「自分はあなたに好意を持っていますが、それはお困りでしょうか」と不安そうに聞いてくれるというシチュエーションを、ぼくはまるで秋元に自分が言われたかのように楽しむことができます。そして男はそこまで用意をしていただいて、たった一言、「俺、秋元のこと、好きやよ」と向こうをむいて言えばいいのです。

 一見「男らしさ」の価値にとらわれた男の不器用さに見えますが、これは、80年代から猖獗をきわめた「ラブコメ」、そこに出てくる男たちの果てしない受動性に共通しています。
 いったん相手の好意が確認されてしまえば、あとはどこまでも能動的になれます。

「浅井君って男同士の時はバンカラなくせに、アタシには臆病になっちゃうから…… それは大事にされてる証拠かもしれないけど………… 時にはすごくもどかしい時がある……(8巻p.121〜122)
「自分のやりたかこと押さえてまで男についてくる女は好かんて、俺、言うたもんな……」(同)

 浅井は本質的に男権的な人間ではありません。
 どこまでも好きな女性にはオクテであり、いったん好きになってからは一途に秋元を愛し、決してその生き方を束縛しようとはしません。
 なるほど、浅井は秋元を殴りました。しかし、それは倫理的にとりかえしのつかない、決定的な悪または過ちとして作品では描かれるのです。

 はじめは特定の女性にたいしては徹底したオクテだった主人公が、作品の中盤から後半にかけて、自分の事業に情熱をかけ、女性にたいしての能動性を発揮させていくという展開、あるいは徹底した「すれちがい」は、『めぞん一刻』にも共通しています。

 この作品は、『土佐の一本釣り』や『博多っ子純情』などに並ぶ「70年代の青春モノ」としての体裁を借りてスタートしながら、実体としてはまさに「80年代ラブコメ」の構造をもつものとして完成してゆき、80年代の読者に受容されたのです。







小学館 ビッグコミックス
2007.5.12感想記
※画像は引用原則をふまえているつもりですが何か?
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