南Q太『ぼくの家族』




 これは南Q太の新境地と言ってもいいかもしれない。

 南は私生活において結婚・出産・離婚を経て、作風が少し変わってきていた。その違和感について、ぼくは南の『地下鉄の風に吹かれて』の書評で次のように書いた。

〈南は、ふつうの人は捨象したり、省略したり、造形できないような気持ちをなぞりあげて、一つの作品にしてしまうことが実にうまい。多くのファンは、だれも言ってくれなかった、形にしてくれなかったものをよくぞ捉えてくれたと、そうやって立ち上げられた気持ちというものにリアルを感じているのだ。身辺エッセイのようなジャンルの南の漫画でさえ、そこに強みがあった。
 しかし、『地下鉄の風に吹かれて』のいくつかの短編を読んでいると、先ほどいったような感じで、急に醜悪な自己弁護を聞いているような気になってきてしまうのだった。離婚話などの場合には、「気持ちをなぞって形に仕上げる」という行為が決定的に裏目に出るのだ。客観性のない自己弁護に堕す。それが面白くないかといえば、南の私生活をのぞいているような妙な「興奮」があるので面白いわけなのだが(つれあいはそれは邪道だと憤る)〉

 離婚後の南の作品には「悪役」がいるように思われた。
 やがて別れてしまうであろうっぽい男性が「悪役」となり、彼の人は自分の気持ちを理解しない、得体の知れない不気味な人なのだった。『地下鉄の風に吹かれて』の感想で、北原という南の分身とおぼしき女性主人公と、悪し様に描かれる夫について次のようにぼくは書いた。

地下鉄の風に吹かれて (Feelコミックス 344)〈ぼくは、その場にいたら、おそらく夫の方に出かけていって、「じっさいのところ、北原さんってどうなんですか。あなたから見て」と「夫の側から」を聞きにいったことであろう〉

「あなたの考えはころころ変わりすぎる
 あなたが思っている以上に
 あなたは わがままだよ」

という北原のモノローグからは、自分は悪くない、という非難の調子が聞こえてくる。いや、ぼくは「自分が悪いと思え」と言いたいのではない。北原の心情をのぞけば、自分だけが正しいというような幼児的心性ではなく、それなりにさばけた感じ、オトナの分別を感じないわけではない。

 ただ、「悪役」たる相手がどんな気持ちなのかとか、自分とはちがう形で感情を表現する人なんだとか、悪意に受け取りすぎていないかとか、そういう想像力が足りない気がしていた。

 今回『ぼくの家族』で一番変わったと思われるのは、「悪役」たる人々への南の想像力や寛容がふくらみ、時間をかけてではあるが、そうした存在を受容していっているということだった。

 バツイチ、40歳のイラストレーターで小学生の女の子(広海)をもつ田中夏美は、会社員でやはりバツイチ、子持ちの田中信良と再婚する。この新しい家族が「家族」になっていくまでを、時間経過を追った6つの短編でつづっていく。
 1話めと2話めには、とげとげしいシーン、つらいシーンが多い。
 1話め「キッチン」では、いっしょになったふたつの家族の朝食から始まる。しかし冒頭から緊張した雰囲気。夏美の作った朝食を、偏食(あるいは新しい母親への微妙な馴染めなさ)ゆえに食べない、信良の連れ子のサリナ。食べないでふて腐れた態度でいるところに、父親の信良が入ってきて、腕にまとわりつくように機嫌がよくなる。ちゃんと朝食を食べたのかという父親の問いに、

「うんあのね 広海ちゃんがほしいっていうからあげたの」

と甘ったれた調子でウソをつく。

「何言ってんだよ お前!」

 それまでまったく模範的とさえ言える明るい調子で会話をしていた広海は、あまりのウソに反射的に激怒してしまうのだ。入ってきたばかりの信良が最初に聞いたのはそんなガラの悪い言葉だった。信良がとがめる。

「なんだ その言葉遣いは」

 叱られた広海が暗くなり、横でやりとりを聞いていた夏美の顔に陰がさす。
ぼくの家族 いつもの「悪役」だ、と読んでいて思ってしまう。1話、2話はこんな調子が目につく。信良はそれほど強い悪意の持ち主には描かれていないのだが、それでもじんわりと夏美や広海の気持ちをくみとれない存在としてこちらには伝わってくるのだ。

 2話め「シャボン」では、信良の実家にサリナと行くと信良が言ったとき、夏美と広海は来なくていい、と付け加える。「だって面倒だろ 気を遣ってんだよ」と信良。
 夏美は「やな感じ」とそれを受け止める。あげくに「私と広海はジャマなわけ?」と言い募るのだが、信良は「そんなこと言ってないだろ」と不機嫌に言い放つ。

 うーん、まあ夏美の言い分もわからないではないが、面倒をさけるために信良がそう判断したのもありえなくはないと思う。「私と広海はジャマなわけ?」って、もう少し言い方があるんじゃないか。微妙なのだ。
 そのまま夏美も信良も不機嫌になってしまう。そして家でイラストの仕事をしながら、夏美には家事について自分に少し負担傾斜がかかっている不満が頭をもたげてくるのである。

 夏美の態度も完全に悪いというわけではない。「やな感じ」だと思ったことをオープンに言ってみる、という選択肢はなくはないからである。さらに、家事について信良が一定分担していることにちゃんと評価もしている。
 しかし、この話を読んだ後には、やはりじんわりと信良にイヤな感じが読者の中に残ってしまうのである。

 決定的に南が転換したと思えるのは、3話め「羊と筏」、4話め「虹を歩く」、5話め「青空飛行」であった。
 3話めで、広海の不登校、自分の仕事のうちきり、信良のリストラと不幸が集中的に襲ってくるのだが、無謀な旅行計画やら食事の注文乱発やら、居酒屋で一家四人、およそリストラを打ち切りがあった家とは思えぬ、よくいえば楽天的な、悪く言えば見通しもできない滅茶苦茶な会話が交わされる。それは抑圧されていた不満や不安を逆に一気に洗い流してしまうかのようなカタルシスとして位置づけられている。
 カタルシスであるからこそ、気遣ったり触らぬようにしていたような部分が押し流され、家族としての雰囲気が一つ上のステージにあがったような感覚になるのである。

 信良やサリナの存在というものについて、4話めの冒頭に、南はこう書いている。

〈広海とサリナには時々はらはらさせられたが
 それでも じょじょにきょうだいになろうとしていた

 一見マイペースなノブ君は いつでも私たちに対して
 フラットに接してくれていた〉

 一見「嫌な感じ」だった信良やサリナは、すでに受容されつつある。そのことについて、むしろ夏美は〈この新しい家族に慣れるのに一番時間がかかったのは私だった〉という自省を書いている。
 すでにここでは信良やサリナは「悪役」ではない。
 1話めや2話めの「嫌な感じ」は、新しい家族のぎこちなさにすぎなかったということが、苦労をもって思い起こされるものに変わっているのだ。

 この感覚はこれまでの南になかったものだとぼくは感じる。
 残るは夏美本人がどのように解放されるか、ということだった。

 突然、夏美の前夫、広海の実父の訃報がとびこんでくる。
 亡くなった男の実家にいくいきさつがいろいろ描かれている。
 そのあと、夏美は、信良の前妻に会ってみたいというアイデアが浮かぶようになる。
 前夫の実家に行っても、前夫の父母たちと折り合いがよくなるわけではない。むしろ他人だから長居しないでほしい、と言われるのだった。だから、何か前夫の知らなかった素顔がわかったわけでもないし、相手のことを理解しようという気持ちが生まれたわけでもなかったのである。
 にもかかわらず「信良の前妻に会ってみたい」という気持ちが芽生えたのは、なぜだろうか。
 前夫やその実家と、夏美との間には感情的な齟齬がいろいろあったのだが、広海という「優しくてかしこい女の子」が今いるという厳然たる事実に自分はもっと堂々と、自由に振る舞っていいのではないかという気持ちが夏美の中に芽生えたということなのだろう。
 そのとき、夏美は自由な気持ちになったのだ。
 だからこそ、自由な気持ちで、何ものにも囚われずに絵を描き始めた若い頃を夏美は思い出したに違いない。堂々として、何ものにも囚われずにいてよい、と考えたとき、遠慮していた「信良の前妻=サリナの母親に会う」ということをやってみたいと思えたのだろう。

 サリナの母親をどう描くかはまったく作者の任意である。
 南はそこで最も明るい形での「出会い」を描いた。登場したサリナの母、ミナは、聡明で感じがよく、夏美に多大に共感を寄せてくれる存在だった。このように描けたということは、夏美が自分をとりまく世界というものが自分を受け入れてくれる明るいものだという楽観をとりもどせたことを意味したに違いない。

 「悪役」が変化によって消滅し、自己の抑圧の解放にまでいたるこの流れはまさに南の新境地だと思うのだが、いかがであろうか。南が「あとがき」で〈4話めと5話めと描けたことは、自分の中ではすごい快挙でした。1話め、2話めからぐんと飛んで、すごく遠くに行くことができました。それがうれしかったです〉と書いているのは、そのことを指しているのではないかと思う。

〈自分を苦しめているのは自分なのだと気づくことができた〉

という自己責任論的な表現はご愛嬌であるが、自省する力が南の中に生まれたのではないかと思う。自分を見たというよりも相手が見えるようになったのだと感じる。

 ぼくはこれを読んで、ただ単に優しい気分になるというだけではない。子どもの不登校やら自分の仕事の打ち切りやらのときに、「PTAの防犯パトロール」なんか頼まれる子育てのいらだちに深く共感しつつ、そうした苦労をリアルに描きながらも、歴史的な経過のなかでそれらを受容したり乗り越えていったりする力強さや達観のようなものを感じ取ることができたのである。

 最終話「彼方に灯るもの」は蛇足に感じた。5話めのラストを全体のラストにしてしまえばいいではないかという思いが生まれた。
 しかし、南はこんなふうに結末をつけたかったのかなと思うと、そういうバランスの悪さもこの作品の味のように思えてくる。ハッピーエンドそのものはぼくは嫌いではないからしあわせになる一家の様子を読むのは、心地がよかった。

 ウェブ上のレビューを見ると、初期の南を知る人たちはこの変化をさびしく受け止めているようだが、それはないものねだりというものであろう。新しい境地にたった南はこの調子で作品を紡ぎ出していってほしい。




集英社
2010.1.13感想記
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