花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』



ボーイズ・オン・ザ・ラン 1 (1)  好きな女がこっぴどくヤラれてしまい、その復讐をひ弱な主人公が果たそうとする――いよいよ『宮本から君へ』へ似てきた。

 知らない人のために書いておこう。

 『宮本から君へ』とは、新井英樹が91〜94年に「モーニング」誌に連載していた漫画だ。愚直ともいえるほどの不器用な情熱で仕事と恋愛を押し進めようとする若いサラリーマンの物語である。

 これにたいして、花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は2005年から現在にいたるまで「ビッグコミックスピリッツ」誌で連載している漫画で、同僚の女性を好きになった営業サラリーマンの不様すぎるほどみっともない生活を描いている。

 先述の展開だけでなく、主人公が恋をする女性の形象(とくに目尻のタレ具合と、笑った口の半円状態など)といい、その女性への思慕がみっともなく破られる様といい、スマート・優秀で涼やかなライバル社のサラリーマンの存在といい、主人公が勤めている会社の環境といい、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は何もかもが『宮本から君へ』をなぞっている

 かつて、『宮本から君へ』を評して、作家の関川夏央は、「島耕作とは正反対」だと書いた。

「容貌、性格、趣味が泥臭いだけではなく、職業観、職場環境、『業界』をめぐる群像の描写、すべてが挑むように対照的で、作者には『島耕作』的人格と『島耕作』的物語への強い反発、もしくは嫌悪があり、それがこの作品の動機そのものとなっているかとさえ思う」(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』p.219)

 関川は、バブル最末期からスタートしたこの作品をプレ・バブルからバブルにいたるまで日本を覆った空気の否定だとのべる。

「この作品は、八〇年代の日本社会に猖獗をきわめた感のあるスマートさへの執着、気どり信仰、いいかえれば常住坐臥『自分が他人にどう見られているか』を気にしなければやまない神経症的自意識過剰への否定を、相当にあられもないかたちで行っている」(同p.222)

 そして、そのようなスマートさを否定した、宮本的世界こそ、リアルだとする説得力をもっていると関川はホメている。

「理不尽な人間関係に満ち満ちた『営業世界』にあって、精神主義的情熱、すなわち『やる気』と『こだわり』を武器として、その結び目をひとつひとつほぐしていくかのような主人公の姿と、作中を横行する俗流人生論には、たしかに世の中とはこうしたものだろうと思わせる説得力がある」(同p.222)

 『宮本から君へ』には様々な名シーンがあるが、ライバル社のスマートすぎる営業の人間に、こそっと冷笑されて、キレた主人公・宮本が、殴りかかるシーンはきわめて印象的なひとコマだ。
 それは見開きを使った大ゴマだった。
 コマの大半には会社のフロア全体の日常の喧噪が描かれ、それらの人々は宮本が殴りかかったことにほとんど気づいていない。宮本はその光景の本当に一隅で感情をむき出しにして、相変わらず薄笑いを浮かべているライバル社の社員に殴りかかっている。宮本の「こだわり」やプライドが、企業社会の日常のなかではまるでクズのように卑小なもので、浮き上がっている様子をそのコマは痛いほど的確にとらえている。
 しかも宮本は泣いている。
 泣きながら、ライバル社の社員に殴り掛かる――まるで子どもだ。社会人として最低の、失格の光景なのだ。そこには、1グラムのスマートさもない。思わず目をそむけたくなる。

 まぎれもなく、『宮本から君へ』は名作だ。
 意識的にか無意識的にか――いやおそらく意識的にだろうが、花沢は見事に『宮本から君へ』をなぞっている。なぞっているものが「名作」である以上、それをなぞることには意味が要る。

 パロディとして批判するか、「俺ならこうする」と乗り越えるか、たんなるパクリか、新しい時代に合わせて鋳直すか、似たような話が読んでみたいというニーズに応えるだけか、そのどれかしかない。

 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』1巻の帯には「恋&仕事! もがけど前に進めてない、超等身大ダメ男の遅咲き青春ブルース!」とあるけども、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』のなかには労働の描写はあまり出てこない。1巻に、主人公・田西敏行の会社が扱う「ガチャガチャ」の市場状況とその卸の風景が少しばかり描かれる程度である(それは『宮本から君へ』との設定の類似性を補強するだけの意味しかもっていない)。
 『宮本から君へ』の中盤を占めているのは、大企業とおぼしき製薬企業のノベルティ用文具を、ライバル社とコンペする話で、ライバル社に決まりかけても、なおしつこく食らいつく宮本の暑苦しさが、えんえんと描かれる。前述した殴りかかるシーンもこのテーマの中のものである。
 ところが、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』にはこうした仕事にかける情熱については、ほとんど姿がみえない。

 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』1巻で、田西のライバル社のさわやかハンサム社員・青山は、自分はこの世界をナメていた、いまけっこうヘコんでいると、笑顔でさわやかに「自省」する。
 しかし、田西は、その青山の言葉を聞いて、こんなふうに考えてしまう。

「俺の思っていることと同じだった。
 けど、俺と青山君とは根本的に違う。
 青山君は、向こう側に行くための
 壁を登っているけど…

 俺はずっとダラダラ迂回しているだけなんだ」


 ここには、労働のなかに燃焼感や達成感、ひいては自己実現をはかろうとする『宮本から君へ』的世界とは逆の、労働に価値や意欲を見いだしきれずに悶々とする世界観がある。

 もう一度、関川夏央の『宮本から君へ』評に戻ろう。関川は次のようにも書いた。

「作者は、労働とはやむを得ざる苦役だという昨今流行の西欧型労働観を敢然と否定している。努力すれば報われると思いたい、金だけが目的ではなく生命の燃焼感と達成感にも意味を感じたい、すなわち労働のなかに自己実現をめざしたいという、日本独特の『危険な思想』が居直るときの、暑苦しいすがすがしさとでも呼ぶべきなにものかが、この作品にはある」(同p.223)

 そして、『宮本から君へ』を「現代のプロレタリア文芸」と呼んで、その書評を閉じるのである。
 そう評されるほどに、『宮本から君へ』は、労働を正面から描いた。なるほど、ぼくが強く印象に残っているくだりは、どれも労働に関するものばかりで、恋愛にかんするものはほとんどない。

 これにたいして、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』はくり返すけども、あくまで「恋愛」が軸になっている。

 そして、その恋愛の軸におかれているのは、少なくとも3巻までは、ありえないほどにリアルな細工をした妄想妹キャラ・ちはるちゃんである。
 『宮本から君へ』の最初に登場するマドンナ・甲田美沙子(あるいは綾部栞)と「ちはるちゃん」こと植村ちはるは、非常によく似ている。しかし、『宮本から君へ』では、主人公と恋愛を成就させる相手として萌え度の高い甲田を使わずに、年上の中野靖子を使った。
 中野の顔は、漫画的にはキツネのような顔で、日本的美人のようにも見えるが少し微妙である。しかし、その分、そこには妄想や欲望が入り込む余地がほとんどなく、中野と宮本の恋愛はリアルな日常だと、ぼくらには感じられるのである。

 つまりだ。

 『宮本から君へ』は、労働という日常、そして恋愛さえもが妄想や欲望を許さないリアルへと傾斜しているのだ。中野がレイプされてしまうシーンは、正直本を再度開くのもためらわれるほどに凄惨である。強姦シーンは、描きようによってはいくらでも「欲望」的に描ける。仮に「ちはるちゃん」がレイプされているシーンであれば、何度でも見たいという読者はそれこそごまんといるだろう。

「『文学』も『芸術』や『報道』と同じように、『私生活』や『性』や『死』について『ポルノグラフィー』として『見たい』という受け手の欲望と、それに応える側の双方のやましさをうやむやにしてくれる作用があります」(大塚英志『初心者のための「文学」』p.117)


 他方、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、労働という日常を忌避している。
 そして、恋愛さえも、それは「日常」ではない。
 主人公・田西が恋焦がれる植村ちはるは、日常のなかにある「非日常」、すなわち虚構である。田西が、ちはるの隣の部屋にいるソープ嬢のところで下半身丸出しでコンドームをつけていたとしても、植村ちはるは、

「あの、私、そのっ…
 …田西さんと付き合えばよかった。」

と、あいもかわらず言ってくれるのだ。
 なるほど、田西のダメっぷりの描写はイタいに違いない。それは田西の分身である、オレらダメオタの日常である。
 しかし、田西がダメであればあるほど、読者は田西に自己投影し、同時に「植村ちはる」がそのダメさからの救済者として、あるいはその欲望の注入先としていよいよ明瞭に登場してくるのである。

 評論家の大塚英志は、最近『初心者のための「文学」』という本を出し、太宰治や三島由紀夫がなぜ「戦争という現実にわくわくしたのか」という問題について書いた。

 近代以来、人間はムラという共同体の紐帯から離れ、国家や社会という漠としたもののなかで「私」を考えねばならなくなり、たえずその不確かさに不安を覚えてきた。日常のなかにいる自分はいつも不確かであいまいで、希薄な現実感しかもってこなかった。虚構の中での充実感、あるいは「戦争」という虚構あるいは非日常のなかでの濃厚な現実感が求められてきた――大塚の本を読むとそのように説かれている(たとえば『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』をあげるまでもなく、戦争が恋愛のリアルさを担保してくれるというモチーフは現代でもくり返されている)。

 『宮本から君へ』が暑苦しいまでに日常のリアルに目を向け続けたのにたいして、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は同じようなテーマを扱いながら、実は労働と恋愛という二つのリアルさにはどちらも格闘していない。

 つまり、『宮本から君へ』を虚実逆転させたのが『ボーイズ・オン・ザ・ラン』だといえる。




※1巻の短評はこちら

小学館 ビッグコミックス
1〜3巻(以後続刊)
2006.7.15感想記
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