辰濃和男『文章のみがき方』



「天声人語」にハマッた中学時代


 朝日新聞のコラム「天声人語」に一番親しんだのは中学生のときだった。
 むろん中日新聞が天下をとっている愛知県。わが実家も朝日新聞などとっておらず、教師からアレはいいと洗脳されて市の図書館に読みにいったものである。
 といっても、新聞に載るリアルタイム「天声人語」を読んでいたわけではなく、過去の分をまとめて出版したものを読んでいた。

 そして、ハマッた。
 年代ごとに刊行されていたそれを、次々と借りていった記憶がある。

 当時短い文章を粋に仕上げることに凝っていたということもある。今から考えれば中学生風情が何をと笑い話にしかならないが、当時はいっぱしの文士を気取っており、ノートなどに雑文を書き連ね、あろうことか生徒会報を私物化してコラムまでつくってしまっていた。「にわたずみ(潦)」というタイトル。「雨が降って地上にたまったり流れたりする水」を指す特別な名詞だ、というセンスが厨房にしてはまたいかにもな感じがして自分のことながら悶え死にたくなる。たはー。

 しかし、そういう当時のぼくの小賢しい衒いばかりが「天声人語」にのめりこむ原因になったわけではない。

 小さなエピソードを手がかりに、自分が生まれてもいない時代の政治や経済を生き生きと綴るその筆致にぐいぐいと引き込まれていったのは確かだ。
 ウィットもあった。
 マルクスがハイゲートの墓から出てきて記者会見をおこなう、などというのも昔の「天声人語」にはあった。マルクスが墓から出てきてソ連の現状を嘆く、という筋書きだった。そうなのだ。ぼくの「マルクスにインタビューされてみよう」という企画は実はそこから着想を得ている(クロカンではないのである)。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/1syunen-1.html

 「天声人語」のシリーズ本はコラムニストごとに区分されており、ファンとも言える傾倒をしたのは深代惇郎の執筆した分だった。そして、「天声人語」をぼくが読みふけった最後のコラムニストが辰濃和男だったのである。

 しかし、いまのぼくは中学生のぼくではない。
 「朝日新聞的良識」にいろいろ意見がある。
 もうあの頃のような素直な気持ちで「天声人語」なんか読めはしないのだ。




「批判してやろう」という気持ちで本書を手にとったが


文章のみがき方 (岩波新書 新赤版 1095)  とまあ、そんな気持ちで本書を手に取った。
 目次をみていよいよその気持ちを強くした。全体は4章構成だが、うち最初の2章分をみてみようではないか。

I 基本的なことを、いくつか
1 毎日、書く
2 書き抜く
3 繰り返し読む
4 乱読をたのしむ
5 歩く
6 現場感覚を鍛える
7 小さな発見を重ねる

II さあ、書こう
1 辞書を手もとにおく
2 肩の力を抜く
3 書きたいことを書く
4 正直に飾りげなく書く
5 借りものでない言葉で書く
6 異質なものを結びつける
7 自慢話は書かない
8 わかりやすく書く
9 単純・簡素に書く
10 具体性を大切にして書く
11 正確に書く
12 ゆとりをもつ
13 抑える

 ぼくはこの見出しみて、「当たり前すぎる」という感じが否めなかった。
 「当たり前」。ゆえにそれは「良識」であり、朝日新聞のアレだからすなわち「朝日新聞的良識」であろうと判断した。
 それで、ひとついちゃもんをつけてやろうと、買って読んでみたわけである。

 しかし違った。
 いや、たしかに当たり前のことなのだ。
 だが、その当たり前のことを、辰濃は古今の文豪の言葉や含蓄ある文章からやさしく、あるいは思わぬ角度からぼくに示した。
 まさに「言葉」の重ね方と選び方によって、「当たり前」と思われていた命題が命をふきこまれて動き出すようであった

 むろん同意できないものもあるし、面白くないものもあった。けれども、虚心になって自分の書いた文章をふりかえり、辰濃の言うことにじっと耳を傾けてみれば思い当たることもあるし、恥ずかしいこともあって、ついつい最後までこの本と「対話」を続けてしまった。

 勢いこんで道場破りにきたが、老練な道場主が出てきて「まあ、お茶でも一杯飲まんか」と世間話をしているうちに、相変わらず道場主に服するような気持ちはないし納得しきれないのだが、気づけば夕方になってしまって、そのまま帰った、みたいな感じである。




「好きになろうと精いっぱい努力をする」


 たとえば「I」の「3」に「繰り返し読む」という項目がある。
 辰濃は「この本は、文章のみがき方を考える本ですが、あえて『読む』という項目を設けたのは、『いい文章を読むことは、いい文章を書くための大切な栄養源だ』という思いが私のなかにあるからです」(p.14)とその意図を語っている。
 このこと自体にそれほどの目新しさはない。

 しかし、そのことにまつわって辰濃は文章家たちが書いた気のきいた一文を引用し、ぼくを思索の森のなかへと引きずり込んでしまうのである。字面で書かれた以上のさまざまなことが、ぷかぷかと頭に浮かんできてしまう。
 ここではまず村上春樹が登場する。

「何度も何度もテキストを読むこと。細部まで暗記するくらいに読み込むこと。もうひとつはそのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること(つまり冷笑的にならないように努めること)。最後に、本を読みながら頭に浮かんだ疑問点を、どんなに些細なこと、つまらないことでもいいから(むしろ些細なこと、つまらないことの方が望ましい)、こまめにリストアップしていくこと」(村上『若い読者のための短編小説案内』)

 村上が米国で日本文学を教えたときの口上だそうである。

 こう示されてぼくが注意をひかされたのは「細部まで暗記するくらいに読み込むこと」「そのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること」という箇所だった。

 これに似たことを、辰濃は本書の終わりの方で次のように小林秀雄の『考えるヒント』を引いてまた繰り返している。よほどの信念である。

「正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違ふ特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには分析あるひは限定といふ手段は必至のものだ」

 「そのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること」「その在るがままの性質を、積極的に肯定する事」——これは対象がそこに存在する積極的な理由、その内在的な論理に思いっきり深くハマりこんでみることを意味する。
 たとえばある小説をその作者が書きたいと思った積極的な理由があるはずであり、それはその小説の長所でもあろう。そして、それはその小説がこの世に生まれ来った存在理由でもあり、その小説を成立させしめている内在的な論理でもある。

 村上も小林も、その対象のフトコロにまず飛び込んでみよ、といっているのだろう。「細部まで暗記するくらいに読み込む」こと、あるいはその小説でなければならず、他の小説ではいけないわけ、すなわち「対象の他のものとは違ふ特質を明瞭化」しなければならないのだ。

 相手を把握しきる、そしてそれを乗り越えるためには、相手の論理を丸ごと自分がかかえてみる、積極的に肯定してみることがどうしても必要になる。
 マルクスの次の一節が思い出される。

「弁証法は、その合理的な姿態では、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌まわしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも、運動の流れの中で、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」(マルクス『資本論』第二版へのあとがき)

 マルクスは資本主義がなぜ成立し、資本主義がどのような論理で成り立ち発展しているのかを「肯定的理解のうちに」とらえた。資本主義という対象を徹底して肯定的把握をしたとたん、それは対象の総体を把握し、対象のもっている限界にまでいきおい把握が及び、やがて資本主義という対象そのものをのりこえる展望までいきついてしまうのだった。

 漫画の感想を書くとき、こういう態度でぼくは接しているだろうかとハタと立ち止まる。
 好きな漫画はいい。だまっていてもよく読むから。
 「つまらない」と感じた漫画のときが問題なのだ。
 どんなにつまらない漫画であってもそれを批評する以上、「何度も何度もテキストを読むこと。細部まで暗記するくらいに読み込むこと。もうひとつはそのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること」をしなければ、批評などできようはずもないのだ。
 つまらない漫画でも、その漫画のよさ、たとえば作者が思い入れをもって書いた部分に深く入り込み、愛し、その漫画をまるごと把握する。そうしてみてはじめてそれを乗り越える批評の言葉が生まれるのである。

 政治だって同じである。左翼であるぼくは、反左翼のさまざまな立場を「好きになろうと精いっぱい努力」してみてはじめてそれを乗り越えることができるのだろう。

 まとめると「よく読んで批評しようね」という平凡な命題になってしまうのだが、小林と村上に言われたことだという重みをもってこのことを考え直してしまうのである。

 そう。本書に出てくる命題そのものを平凡な言葉で切り取ってしまえば、本当にどうということはない、つまらぬ命題なのだ。
 しかし、安野モヨコ『働きマン』に出てくる仕事にかんする命題が、しばしばその命題だけでは「平凡」きわまるのに、それが安野流の具体的なエピソードを伴うと急に血肉を与えられ生き生きと動き出し読む者をえぐると前にぼくは書いた。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hatarakiman4.html

 それと同じように、辰濃があげた文章のみがき方の「平凡」な命題は、辰濃が重ねた言葉と、辰濃が引用した先人たちの言葉の重なり合いによって急に深みを増してくるのである。




紋切型の言葉をさけることは紋切型の思考をさけること


 本書では常套句や紋切り型の言葉を繰り返し使わないよう警告している。それも同じ精神からであろう。辰濃は鶴見俊輔の次の言葉を引用する。

「(私は)毎日、文章を書いて暮らしを立てているわけですが、なにか、泥沼のなかで殴り合いをしているという感じです。紋切型の言葉と格闘してしばしば負け、あるときは組み伏せることができ、あるときには逃げる、といったように、紋切型との殴り合いに終始している、その問題をおたがいに自分の前に置いてみましょう」(鶴見『文章心得帖』)

 そして、辰濃自身の言葉でこうつなげるのだ。

紋切型の言葉を使わないということは、紋切型の発想を戒める、ということでもあり、これは、いい文章を書くための基本中の基本だといっていいでしょう」(p.9〜10)

 平凡な命題。その平凡な命題を、紋切型でない言葉の積み重ねでそれを展開することで、さまざまな角度から照射し、立体的に読者に刻み込ませる。読者が謙虚な気持ちでそれを読むなら、味わい深い対話のようにいくらでもそこから引き出すことができるのだ。
 ぼくは最初にのべたように「さあ批判してやろう」と血気に逸って本書をあけてみたのだが、それこそ批判されるべき紋切型だった。「朝日新聞的良識」などという把握自体がすでに紋切型の最たるものだ。
 しばしその上気を抑えて著者・辰濃および文章家たちとの「対話」を楽しむように心がければ、本書はさまざまなことを思い浮かばせてくれるだろう。

 最近読んだ「文章力を構成する6つの能力」のようなブログのエントリも確かに面白いのだが(ブログ「最終防衛ライン2」)、『文章のみがき方』に比べるといかにもあわただしく性急である。
http://d.hatena.ne.jp/lastline/20071101/1193904524

 このブログの文章は一つひとつを説得するようにガンガンガンガンとまくしたてている。書かれていることも、文面に書かれたことを正確に相手に伝えようとする。逆にいえば広がりが弱い(それはそれでひとつの攻め方だ)。他方、『文章のみがき方』には、当たり前の命題を、さまざまな言葉によって多面的に彫琢し、読んだ者の中で波紋が静かに広がるような含蓄がある。




「方言」としての2ch用語


 『文章のみがき方』を読むうちに思い浮かんでしまったことのひとつに、「IV 文章修業のために」の「2 土地の言葉を大切にする」という節にかんするものがあった。

 ここでは冒頭に藤沢周平の言葉が引かれている。

「多分私は、このところ少々標準語にあきているのだろうと思う。というよりも、標準語を支えているステレオタイプの文化に食傷して、方言と、その背後にあっていまだ十分に活性を残しているはずの、個性的な文化に心惹かれるということかもしれない」(藤沢『小説の周辺』)

 辰濃はこのあと、東峰夫の『オキナワの少年』という作品をあげて、「東の作品を読んで、私のような旅びとは、たとえ何年滞在しても、沖縄の言葉に習熟しない限り、とても沖縄のことは書けないとすっかり弱気になったことがありました」(p.185)と嘆くのだ。
 言葉が背後にある文化を表現するものだとすれば、土着の言葉によって標準語=中央の文化とは別の思想や発想を組み立てられるのではないか、という意味である。「いまや、標準語は政治を語ることばに堕してしまい『人生を語ることばは方言しかなくなってしまった』のである」(寺山修司)。ぼくは繰り返し「政治」というメインカルチャーの言葉の「硬直」について語ってきたが、そのことを辰濃が引いたこの寺山の警句は表している(寺山『両手いっぱいの言葉』)。

 ぼくは、残念ながら方言にそのような可能性を今のところ感じられない。
 ぼくがまだ方言の真価に気づいていないせいだと誹られることは甘受しなければならないだろうが、もし可能性を本気で感じていたら、ぼくはこのサイトを三河弁もしくは博多弁ででも書いているだろう。

 だが、このサイトを読んでもらえればわかるように、ネット上の言葉には「力」を感じている。もちろんそれは2ch用語もたくさんふくんでいる。「ちょwwwwwwおまwwwwww」だって使っているし、「日本オワタ\(^o^)/」とかも使う。 (゜Д゜) ハア?? ( ゚д゚)ポカーンも少なくないだろう。「どう見ても新自由主義です。本当にありがとうございました」も……とキリがない。

 辰濃はいう。

「いきいきした土地の言葉のやりとりのなかに、藤沢は『文化の蓄積』というものをみたのです。それは『国籍不明の、眼鼻もはっきりしないのっぺらぼうの文化』ではなくて、『その土地の風土と暮らしが創りだしたもの』でした」(p.182)

 ネットの言葉は「国籍不明の、眼鼻もはっきりしないのっぺらぼうの文化」のように一見見えるが、さにあらず。ネットの言葉はネットの「風土と暮らしが創りだしたもの」である。方言だ。ある種の疾走感、猥雑さ、他のどこにもないニュアンス、前衛的で先鋭的なカテゴリーが次々と生まれる。
 だからぼくはネット的な言葉を使っている。もちろん意識的に使っているというよりはついつい使ってしまうのだ。それほど強い磁力をもっている。

 以前、「ブログは文章力を上げるとは限らない」というエントリを見た(ブログ「304 Not Modified」)。
http://maname.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_f419.html

 このブロガーは2ch用語の重要性を認識しつつも、結局非2ちゃんねらーや非ネットユーザーとコミュニケーションできないがゆえに「ブログで毎日文章を書く人は、正しい日本語を使うべきだと思います」という結論にいきついている。

 だが、文章とはまず、思想や思考の表現でありその思想や思考こそが重要だと考える辰濃のような立場からすれば、2ch用語・ネット用語は、辰濃が「方言」の効力に見いだしたような硬直性の破壊、柔軟性を思考にもたらしてくれるものかもしれない。(ちなみに2ch系の言葉のセンスは学校の友人共同体でつくられるセンスに似ているし、おそらくその感覚を起源としている。「厨房」のようにモロにそういうものもあるし、「ガイシュツ」のように言い間違いを固定化するとか。だからリアル文化的な裏付けもあるし、ぼくとしては実は懐かしくなじみも深いのだ)

 たしかに論理を組み立てていく上で標準語は使いやすい。
 しかし、柔軟さ、飛躍、真新しい意味、ニュアンスがほしいとき、とたんに標準語は不自由さを露呈し、硬直することがある。そのときネットの言葉や2chの用語は役立つときがある。
 もっとも2ch用語だけで構成されているブログというのはあまりないだろう(たまにあるが)。普通は、標準語を使い、時として2ch用語がほしくなるのだ。だとすれば、そういうスタイルこそが思考を柔軟にさせ、本当の意味で文章をうまくしていくかもしれないのである。

 ちなみに、「土地の言葉」と「ネットの言葉」を結びつけるというのは、本書の「II」の「6 異質なものを結びつける」の応用であるw







岩波新書
2007.11.3感想記
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