馬場伸也『カナダ 二十一世紀の国家』


 イラク戦争を支持しなかった国、派兵しなかったは、世界で150ヶ国近くにのぼる。その国が代表している人口の割合でみれば、世界の8割が、この無法な戦争を支持しなかったことになる。

 自衛隊のイラク派兵をなぜ支持するかという日本での世論調査をみてびっくりしたのだが、「世界の多くの国がそうしているから」という理由が2位であった(むろん、総数の半分は派兵に反対しており、賛成派のうちでの理由なのだが)。
 マスコミが伝える日本の外交選択肢がいかに狭いものであるかを物語る情報状況だと思う。じっさいには、これだけ多くの国が支持もしないし派兵もせず、しかしアメリカが怒って戦争をしかけたり経済封鎖をしたという話もない。
 サミット参加国のなかでも、フランスとドイツが反対したことは有名であるし、スペインがまた撤兵をしたことも周知のことである。

 「北朝鮮との関係をかかえているから仕方ないんだ」という声もきこえるが、アメリカの先制攻撃に無批判に追随し、それを「有事法制」によって積極的にささえ、しかもアジア・太平洋へのアメリカの軍事出撃拠点を提供している事実をみれば、逆にアメリカとの軍事同盟こそ、日本を戦争の危険にまきこんでいるといえる。

 「アメリカの気分をそこねないようにするにはどうしたらいいか」──それに言及することが一種の「リアリティ」だとする風潮は、国際政治の流れからみれば、ある種の「おくれ」だといっていい。しかし、日本国内ではそのことをからめながら話せば、逆に説得力を獲得することもできる。


 最近、ひょんなことでしったカナダについてのエッセイで、ここにはイラク戦争開戦前後のカナダの世論情況や空気について書かれていてなかなか興味深い。
 カナダ政権は、アメリカへの配慮を十分にしめしつつ、「やっぱ国連決議ぬきでやるのはまずいっしょ」とブツブツ言い続けるのだ。その結果、最終的にはイラク戦争を支持せず、派兵もしないという決断をくだす。
 隣国アメリカからは、かなりのブーイングを民衆レベルでくらう。
 このあたりの描写はまことに生き生きとしていて興味深い(「第5回 カナダ的妥協──あなたがいるから私もいる」)。

 ぼくは、このエッセイをひとつのきっかけとして、少しばかり──ほんとうに少しばかり──カナダのことについて調べてみたいと思い、手近な本を探したのだが、驚くほどカナダについて本を手に入れることは難しかった。むろん旅行案内は各種あったが、政治・文化にかかわるものは紀伊国屋書店でも2〜3冊しかない。結局入手できたのは竹中豊『カナダ 大いなる孤高の地 カナダ的想像力の展開』(彩流社)と、馬場伸也『カナダ 二十一世紀の国家』(中公新書)の2冊だけで、後者は図書館で借りた。

 手軽に政治と歴史の全体像を知る上では、後者が役に立った。

 後者の第2〜4章が、「カナダ的妥協」の歴史的淵源をしり、かつ、「ミドルパワー」として積極的に外交的な役割を果たすかの国の機能主義外交を理解できる。

 さきほど紹介したエッセイでもひとつの主軸をなしている問題なのだが、カナダは「ナショナリズム」の国である。
 日本では、「ナショナリズム」は、戦前の暗い記憶があり、敬遠それる。それはただ「羹に懲りてなますを吹く」というものではなく、現在でも2chの一部に「すくって」いる「すくい」ようのない排外主義にみられるように、ホントにどうしようもないものになってしまうのだ。「日の丸・君が代」を権力手法でおしつけるように、しかも現実政治でそれが作動してしまっているのだからタチが悪い。
 このエッセイにおいて目をみはるのは、それがあるていど「健全」に作用している、ということである。むろん、そうそうにきれいごとばかりではないし、馬場『カナダ』を読んでも、第一次大戦に「ナショナリズム」を発揚して参加する様は、なんのことはない、帝国主義ではないかと鼻白みたくもなる。
 しかし、にもかかわらず、カナダがもっているナショナリズムの「健全」な側面には、われわれが、日本で「健全なナショナリズム」をつくるさいに、ヒントにできるものではある。この本が「二十一世紀の国家」とまでカナダをもちあげていることは、額面通りに受け取るわけにはいかないが、それでも参考にできるものは少なくないだろう。

 第4章の「カナダ外交の軌跡──機能主義の追求」では、英米両国の狭間で両国の険悪な空気を調停し、まずは存在を主張するところから歴史をはじめる。馬場は、消極外交である「中立」とは概念を区別し、カナダは大国の間で積極的に活動していく「中間国(ミドル・パワー)であると規定する。
 ユニセフ設立や国連憲章に経済社会条項を入れさせるのに果たしたカナダの役割を説き、「西のユーゴ」とよばれるほど、アメリカとは独自の距離をもったソ連外交を展開する。
 さらに、トルドー政権(1968年)になってから、カナダは小国になったとして「ミドルパワー」政策は修正され、より国益への専念が宣言されるのだが、馬場は現実にはトルドー時代になってもカナダ的外交は発展しているとしている。アメリカに先んじて中国(中華人民共和国)との国交をはたし、欧米偏重をあらためて、積極的な第三世界外交を展開する。第三世界の提唱する「新国際経済秩序」にも賛意をしめすのだ。
 もちろん、軍隊をもつ国として国連平和維持活動に参加し、核軍縮においても積極的なイニシアチブを発揮していることは有名である。


 最初にのべた外交におけるカナダ的妥協であるが、たとえば、いまのべた国連設立の原則を決める時も、カナダはゆるやかな4つの原則を主張し、それを大国にみとめさせると、あとは「妥協」を重視し、ユニセフ(当時はUNRRA)の発展に全面的に協力した。
 また、安全保障面でも、国連憲章での大国拒否権に異議をとなえていたのだが、非常任理事国参加などのかたちで「中間国」の力が発揮できるような条項(カナダ条項)は挿入されたことによって「妥協」に転じる。

 カナダはアメリカとの軍事同盟も捨てていないし、各所でこのような「妥協」に転じる。
 ぼくとしてはそれ自体に不満や批判はあるのだが、こうした事実は、日本の世論のなかではある種の「リアリティ」にうつるだろうこともまちがない。
 かつ、米ソにたいしては相対的な独自性を発揮して、そのあいだで積極的な外交を展開するカナダは、たしかにある意味で憲法9条をもつ日本がめざすべき「二十一世紀の国家」の姿だといえなくもない。

 そして、このような「カナダ的妥協」をはぐくんだ土壌として、カナダが選んだ多極共存型民主主義、あるいは二言語・多元文化主義がある、と馬場は見る。
 竹中『カナダ』ではカナダのナショナリズムは、英系のカナダナショナリズム(おもにアメリカにたいして形成されている)と、仏系ケベックナショナリズム(英系にたいして形成)があるとしている。
 馬場『カナダ』の第2章「カナダの新しいアイデンティティ」のなかで、ケベック問題が扱われる。それまで仏系は、ケベックでもカナダ全体でも、社会の最下層におかれてきた(1961年にはケベックで英語をはなす人間の平均年収は仏語の2倍あった)。会社の上司は英語で話し、英語で命令する。
 馬場は、カナダ全体の経済成長がはかられるなかで、識字率や教育が上昇し、マスメディア(とくにフランス語放送)が発達するなかでケベックナショナリズムが高揚し、「静かな革命」が進行したという。
 1960年にルサージュが州政権をにぎり、エネルギー・経済の主権を連邦政府からとりもどし、世間でいうところの「社会主義」的政策をつぎつぎ実行する。後続のガボン政権はいっそうフランス系中心の政策をすすめる。
 こうしてケベックで分離独立のナショナリズムが高揚するのだが、連邦政府、すなわちピアソン政権は、「二言語・多文化主義」を宣言し、カナダは公用語をフランス語と英語の二つにする、イギリス系とフランス系はまったく同等の「イコール・パートナーシップ」をむすび、無理な国家統合はしない、公職や企業管理での機会均等などを約した。
 これはカナダの国体を変えるほどの大きな衝撃をあたえた。
 第3章にみるように、州に大幅な権限をあたえ、多極共存型民主主義の体制をつくった「ミーチ・レークの合意」とあわせて、カナダが多様なものの統一をしながら、ナショナリズムを形成するというきっかけとなった。
 その結果、ケベックは分離独立を回避する。
 馬場は、ケベックという「爆弾」をかかえながら、カナダがそれをじつにうまく操縦し、ひとつのナショナリズムを形成していることに驚嘆する。「一つの国民国家」という近代のモデルをぬりかえてしまうほどだというのである。
「現在のカナダは、一つの文化と一つの言語によって統一もしくは統合された、伝統的かつ典型的な『国民国家』ではない。…カナダは新しい『型』の国家であり、世界の国々が全般的に国家変容を模索する中で、『二一世紀の国家』を目指す最先端にあるといえよう」
 こうした背景のなかで州に大幅な権限をあたえた「ミーチ・レークの合意」も成立する。連邦というよりもはやEC(現在EU)に、カナダは近いのだ、と馬場はいう。
 こうした多元主義こそ、カナダ的妥協の一つの源泉なのである。

 もし学ぶ点があるとすれば、それは、日本国内での話ではなく(むろん、日本においても少数民族やマイノリティの問題はある)、日本とアジア諸国のつきあいという次元であろう。
 すでに東南アジアはアセアンを軸にして共同体をきずきつつある。
 もし北朝鮮問題が解決すれば、六ヶ国協議は北東アジアでの恒常的な多国間協議の枠組みに発展する可能性がある。そうなれば、早晩、アジア全体を視野に入れた共同体が生まれる可能性がある。そのとき、米国一辺倒で外交方針がないという日本外交、アジアの多様性と共存できない日本のナショナリズム(中国・北朝鮮脅威論など)は完全にゆきづまることになる(すでに現在でさえ数多くの矛盾に直面しているが)。
 そうしたときに、カナダの多元主義やナショナリズム、外交のありようが、なにかのヒントになるかもしれないのである。




中公新書(1989年刊)
2004.7.16感想記
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