ホイチョイ・プロダクションズ
『気まぐれコンセプト クロニクル』



気まぐれコンセプト クロニクル  「バブル」という言葉を聞いて最初に思い出すのは、ぼくの場合、実はこの『気まぐれコンセプト』である。

 本作を知らない人のために言っておけば、1981年から週刊漫画誌「ビッグコミック・スピリッツ」に連載されてきた、広告業界をネタにした4コマ漫画である。いまも続く隠れた(?)長寿漫画だ。

 「バブル」にはたくさんのイメージもあるだろうに、なんでよりによって『気まぐれコンセプト』なんだよ、そもそもお前は曲がりなりにもバブル時代に青春期をすごしてきた人間だろう、というツッコミがあるかもしれない。

 ぼくのバブル時代というのは大学時代である。
 高校時代も重なっているけども、バブルの狂騒にまきこまれていく時代と重なるのはまさに学生のころなのだ。
 そもそも「神田川」「翔んだカップル」的な同棲生活にあこがれて、なおかつマルクス主義や学生運動に熱中していて、スキーとかディスコとかナンパサークルとか、大学生活を「レジャーランド」的に謳歌することを軽蔑していた。と同時にある種のコンプレックスもあったのだろうと思う。
 住んでいた下宿の家賃は月1万円台を超えないようなところだった。バブル的華やかさとはほど遠い生活だったのだ。

 しかも、ぼくは地方の大学だった。日本全体がバブルに踊っていたとはいえ、やはりその狂騒の中心地は、東京だったのだ。社会人でもない場合、やはり東京にいなければ、肌でバブルを実感するのは難しいのではないだろうか。
 学生運動の都合で東京に国会要請へ行ったとき、幼馴染みで東京の大学に行っているやつのところに泊まったのだが、そこで柴門ふみ『新・同棲時代』を手にしたとき、あまりの「オシャレさ」に激しい衝撃を受けた記憶がある(笑)。頭を何かで殴られる、とはよくいったもので、殴られたのと同じように、ものすごい遠い気持ちになった。
 自分の入り込めない、美しい世界がここにあるのだ、と。
 それで帰ってから『東京ラブストーリー』や『同級生』を一生懸命読んだのだ。

 話をもどすと、ぼくの下宿にはテレビもなかったし、雑誌を読む習慣もなかった。唯一、自治会室に置いてあった「スピリッツ」と「花とゆめ」を読むのがマスコミ的情報にふれる瞬間だったのである。
 そう。そのなかに、『気まぐれコンセプト』があった。ぼくは、学生時代から社会人の最初の頃まで「スピリッツ」を定期的に読んでいたが、この『気まぐれコンセプト』は絶対に外さずに読んでいた。掲載ページが合間に埋もれているので、雑誌を閉じた後で、「あ、そういえば読んでなかった」といってわざわざ戻ったりした(同じような期待をもっていた漫画に『じみへん』がある)。

 この漫画が描いたある種のデフォルメされたイメージこそが、ぼくに伝わってきた唯一ともいえる「バブルの狂乱」だったのだ。それは毎週定期的にぼくのもとにとどけられ、ぼくのバブルイメージを洗脳した漫画だった。

 そうか、ギョーカイの人々は女を口説きまくっているのか、とか、
 冬の休みの日には大渋滞になるほどスキーに行くのか、とか、
 ベイブリッジでみんなデートするのか、とか、
 クリスマスにはホテルを予約していっぱいになるのか、とか、
 若い人をひきつけるために、企業の就職パンフの写真はウソまで使っているのか、とか、
 東京にはオシャレなディスコがいっぱいあるんだなあ、とか
 接待の後のタクシーはつかまらないもんなんだ、とか、
 ギョーカイの接待では陰毛を焼いたり、男が男のチン○をくわえるのが当たり前なんだ!とか……そういうことはぜんぶ、この『気まぐれコンセプト』によって形成されたイメージなのである。

 とにかくこの漫画は流行り廃りにセンシティブなまでに反応しており、すでに89年の段階で「ボディコン」は稀少動物扱いをうけているし(p.171)、「ダイバーズウォッチ」も86年でダサダサのものとされている(p.77)。そういう過剰なまでのトレンドの押しつけがましさが、ぼくに「東京で流行っているものについて定期的にとどけられる通信」という感覚を植えつけたのである。

 ところで1984年の段階でカブト自動車のザイゼン宣伝部長は「ナウい」という言葉を使っている(p.32)。この段階まではこの言葉は許容されていたんだなあとかわかる。ちなみに、共産党の前党首、不破哲三が八王子市長選挙応援のさいに共産党と市民の共同という政治の流れを称して「ナウい流れ」と使い、「赤旗」に載ったのは1996年のことである(笑)。

 閑話休題。ぼくはバブルの恩恵や被害をうけたという生活感覚もないし、肝心の就職活動を体験するさいには、ちょうどバブルがはじけていて、この漫画に出てくるように企業パンフの写真をごまかしてまで新卒を確保する、なんていう事態とは対極にあった。
 ぼくは大学のまじめ系サークルで、リゾート開発によって環境をこわすゴルフ場ができるという問題を調べて告発したことがあったが、そんなふうにぼくが体験したのはデータや概念としてのバブルであった。
 バブルの「正」の側面というのは、まさにこの『気まぐれコンセプト』によって味わったのだといえるのだ。


 このクロニクルは、驚くなかれ84年から現在までの20年以上が年代順におさめてある。総ページなんと1000。実は休日1日使ってずっと読んでいたのだが、まったく読み終わらなかった。それほど読みでがある。
 オビに「バブルへGO!!」とあるが(映画になるらしい)、本当にこれを読めばバブルの空気を嗅ぐことができる。

 びっくりすることは、80年代も今も絵柄・質がまったくかわっていないことだ。ぼくは学生当時この漫画を外さず読んだと書いたが、それは学生時代のぼくにとってのこの漫画の質の高さを意味した。その質がいっこうに衰えることなく今日まで維持されているということに驚きを禁じ得ない。
 たとえば84年の漫画を読んでも、出てくる小道具は古くても、漫画のセンスは古くなっていないと感じる。

 そして、この漫画の下品さも。
 この漫画はとにかく下品である。「女を食う」という意識や、支配的な価値観に安易にのっかっているあたりが特に。「質がかわっていない」ということの中には、人権的進歩もない、ということも含まれる。『フジ三太郎』が朝日新聞的良識の仮面の下に男尊女卑を潜伏させていたとすれば、『気まぐれ』はそんな体裁さえとりつくろわぬ、あけすけな下品さがウリである。この漫画は虚構の妄想や欲望漫画ではなく、現実の生活習慣や行動規範に緊密に対応していてタチがわるいのである。ノンフィクションとしての説得力が出てしまうのだ。ある種の人々には超不快な漫画であろう。
 しかし、そういう下品さもふくめて、この本はリアルな記録となっており、貴重である。「はじめに」にある、「結果として本書は1984年から今日までの23年間、つまりバブル前夜から始まって、バブル絶頂、バブル崩壊、不況の90年代、ネットと携帯の普及、そして景気回復の2006年へとつづく、疾風怒濤の23年間の、日本人の日常生活を覗くタイムマシンになりました」というふれこみは、ある意味正しい。

 過剰で下品でリアルな、すばらしい記録である。





小学館
2007.2.5感想記
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