安田弘之『ちひろ』



ちひろ 上 (1)  売れっ子ヘルス嬢、そしてその後、売れっ子ピンサロ嬢となる源氏名「ちひろ」の物語である。2001年に講談社から刊行され絶版になっていたものを、このたび秋田書店から復刊したものだ。

 この漫画は次の3つの機能をもっている。



エロとしての機能


 一つ目は、単純に「エロ漫画」として。

 ただし、この要素はそれほど大きくない上に、『紺野さんと遊ぼう』を描いた安田だけあって、別にグラフィックのみによって興奮するというわけではない。むしろ、ちひろという女性のコケティッシュさをさまざまに描いたあとで、そんなかわいらしい、美しい女性が、あんなこともこんなこともしてくれるという想像(妄想)をふくらませることでこの機能を果たしている。

 上巻の最初のほうで「大谷征一」というマジメ系サラリーマン(ちひろと漫画喫茶で知り合う)がちひろにハマり、ちひろの「サービス」を反芻するシーンがあるが、この1ページによって読者は妄想の手がかりを得る。

 それ以外にも、ヘルスにおける「サービス」のシーンがいくつかあり、ヘルスに行ったこともない小生のような人間は、まるでエロ本に刺激をうけた中学生のように刺激を受けてしまうのである。
 ショートカットの田舎娘のような「はるか」という女性がグラフィックとしても人物設定としても「初々しさ」がよく出ているなあ、これなら指名がたくさん来るのもむべなるかなだなあ、などとぼくが思ってしまうのは、安田にまんまとヤラれているわけである。



風俗産業の解説・風俗三国志として


 二つ目は、「風俗産業の解説・風俗三国志」として。

 今のべたように、ぼくはこの本を読むまで「ピンサロ」というのがどんな「サービス」をおこなうところなのかまったくわかっていなかった(いやたぶん別の本で読んだ気もするがまったく失念していた)。
ちひろ 下 (3)  下巻の30〜31ページに要領のいい解説が載っている。
 「回転寿司」とは言い得て妙で、短時間でフェラチオをするものなのかと初めて知る。そんなにせわしないもので「楽しむ」ことなどできるのかね、と不思議に思う。

 「風俗三国志」というのは、水商売バージョンでいくと倉科遼みたいなやつ。「売れっ子」というのはどのような要件を備えてないといけないのかという話だ。
 これ、『闇金ウシジマくん』ではかなり「理論化」されて紹介されていたが、本作でも、3人でNo.1を競い合う話が出てくる。
 いったんは3位に落ちるちひろがなぜ再びトップに返り咲けるのかを、理屈で紹介するわけだ。
 また、ヘルスからピンサロに移ったちひろが、その職場であまり「売れない」のはなぜか、というあたりもこの機能に該当するだろう。

 いわば、ある種の「ウンチク」漫画として機能しているのである。



風俗嬢の「淋しい内面」を理解した気にさせる


 そして、三つ目。これがこの作品の最も本質的なものである。
 それはちひろという女性の「内面の深淵」をのぞいた気分にさせてくれることだ。

 フーゾクに入れ込む一因には、疑似恋愛のメカニズムがある。この女、おれに惚れているな、と。もちろん少しでも手練の客であれば、そんなものはウソだと知る。そのうえで、金で買った「サービス」をドライに「楽しむ」というものだろう。
 しかし、そうであっても。
 たとえそうであったとしても、女性の心の中がわかれば、もっといえばその「淋しさ」を理解できれば、金銭によって時間単位で買い上げた女性の肉体だけでなく、自分はその女性の精神も所有できるという期待がどこかにあるはずである。いや知らないけど。
 フーゾクでの「サービス」を終えた後、しばしば説教をする客がいるというエピソードがあるわけだが、ここにおける「説教」とはその客が相手の「淋しさ」を理解したつもりになり、救済(客観的にはまったくそうなっていないわけだが)しようとする非常に粗野な行為なのだ。

 安田は、フーゾクの仕事をしている間のちひろを、心が壊れているように描く。

「本当の自分はどこにいるのかなんて
 考えるのは やめた
 私の心は
 きっとどこにもないから」(上p.33〜34)

 どんなダメ男も受け入れてあげる――というオビの文句。それはちひろの心が「無い」からである。

 ちひろは、ストーカーの男性に刺される。
 背中にナイフを刺したまま、そんな状況を楽しむように、ちひろは夜のクリスマスの雑踏を歩くのだ。

 これこそ、「風俗嬢の切り札」であるところの「肉体(カラダ)と精神(ココロ)の接続OFF」の究極の姿だというわけである。
 聖夜に降る雪を、安田は見開きをつかって描く。
 都会の喧噪がそこにはあるはずなのに、まるで無人の野のように静かに見える。肉体と精神の回路を切ったちひろの心象風景はまさにこのような壮絶なものだ。じっとこの見開きを見ていると、強い淋しさが読者であるぼくらを襲う。本当にいまここには誰もないのだ。

 ちひろはようやくつぶやく。

「淋しい」

 なんということ。ぼくらはついに安田の術中に陥れられたのである。
 ちひろの淋しさ、人恋しさを「理解」してしまったのだ。

 こうして、フーゾクという「サービス」を享受する男性側にとって、最も手に入らないものの一つである「風俗嬢の淋しい内面」を、読者は手に入れることになる。いや、実際にはこれは虚構なのだから、手に入れたような「気にさせる」というのが正解だ。まさしくイリュージョンである。『ウシジマくん』で示されるような風俗嬢のリアル心性とはまったく異なる、男性側の「見事」な幻影だ。

 この物語のラストには一抹の明るさがある。
 それはまさに、淋しさを理解した(と思い込んでいる)男性の「救済」のメンタリティに対応している。まるで「おれ」が救ったかのように勘違いできるのだ!

 風俗嬢の「内面」をのぞき、それを理解すること――それはおそらくフーゾクを「楽しむ」うえで、最も貴重な、しかしほとんど絶対的に手に入らないものの一つなのである。それを男たちに与えてやろうというのだから、まったくこの安田という漫画家は、実にあざとい、そしていやらしさに満ちた、恐るべき漫画家なのである。






全2巻 秋田書店
2007.7.16感想記
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